この間bogus-simotukareさんのところでリンクされていたペマ・ギャルポのサイトの記事を閲覧したら、「おや」と思うところがありました。
>このような中国人のやり口に負けた原因の一つは、私たちチベット人にあるということを反省しています。あまりにも仏教を信仰しすぎました。僧を大事にしましたが、その僧こそが中国から肩書きをもらい、寄進してもらい、どれだけ立派な寺を建てたかを競うようになってしまった。
ペマ・ギャルポ自身もそう認めざるを得ないということですね。残念ながら、過度の仏教信仰やダライ・ラマ崇拝は、けっきょくのところチベットの近代化を遅らせ、同時に国際政治にかかわる部分でチベットが的確な対応ができなかったことの大きな理由だったと思います。
過日、これもbogus-simotukareさんからご教示いただいた件で、私がこのブログで何回か批判した石濱裕美子のブログ記事で、「どうもなあ」と思うところがありました。
>今回翻訳された『チベットの歴史と宗教』は、このようなチベット難民社会の学校で、チベットの文化を教えるために用いられている教科書である。
(中略)
この内容を一見すれば、チベット亡命政府は、子供を教育するにあたり、仏教に非常に重要な役割を担わせていることが分かるであろう。TCVの寮を訪れたことがあるが、学校にも寮の共有スペースにも仏画やダライラマ法王の写真が飾られていた。一日は読経で始まり、チベット子供村のモットーである「自分より他者のことを思いなさい」(Other before self)も、仏教の利他の精神に基づいている。
(中略)
中・韓の教科書を素直に読めば、無意識の内に自国を絶対とし、他国、とくに日本を敵視するように、一言で言えば愛国心が喚起されるようになる。一方このチベットの教科書は仏教徒の教養が身につくこととなる。誰を憎むことも憎ませることもしていない。国を失うという究極の状況の下でも偏狭なナショナリズムに陥いっていないのである。
原文は一部ゴチックにしていたり、文字を大きくしていますが、それは略します。
チベット亡命政府の教科書が、ひとことも中国を非難する文言がないっていうこともないでしょうが、それはともかく仏教教育ってのは時代錯誤でしょう。ていうか、かりにチベットが高度な自治権を獲得したとしたら、そんな教育はできないでしょう。
私はそんな見込みは当分ないと思いますが、チベットが仮に自治権を得るとしたら、中国側はその条件としてチベットの世俗化をかならず要求します。ダライ・ラマは完全な象徴となり、政治にかかわることを中国側は許さないでしょう。また、チベットには非仏教徒もおおぜいいますから、彼(女)らに宗教教育を強いるわけにもいかんでしょう。まさか高度な自治を獲得したら中国人(漢族)をチベットから追い出す、というわけにもいかんでしょう。
そもそもそんな教育を受けたからって、チベット人がとくに非暴力なわけでもないだろうし。2008年の暴動では、無関係な日本人も被害にあっています。下の書籍参照。
あ、でも暴動に参加した人は、亡命政府の教育は受けていないか。どっちみち本質的な問題ではないでしょうが。
だいたいダライ・ラマが平和を唱えるのも、チベットが中国とケンカしたって勝てる見込みがないのだから、そうするのは当たり前。「戦争をしろ」なんて唱えるわけがない。そんなのは彼の人格以前の話です。
ていうか、もし「戦争しろ」とか「戦え」とダライ・ラマが説法したら、それは安全地帯から他人に向かって「死ね」というようなものでしょう。中国はなんであろうと容赦なく弾圧します。
チベットで必要な教育は「仏教教育」でなくて、いかに効率よく金をもうけるか、いかに家畜を育てるかといった実利に利すること、民主主義とはなにか、権利や義務とはなにかといったこと、あるいは科学技術でも医学でもいいですが、そういうことを学ぶことじゃない? 失礼ながら、仏教教育なんかしたところで、たいしてチベット人たちに得があるとは思えない。チベットが自治をするのなら、徴税から予算作成・執行にいたるまで自分たちで責任を持たなければいけないのだから、国民にいろいろな教育をしなければ自治どころの話ではありません。
たとえば1959年のダライ・ラマ亡命のきっかけになった蜂起にしたって、ダライ・ラマへの過度の崇拝があのような悲劇をもたらした大きな要因じゃないの? 中国側の非道は非道として、あそこまでダライ・ラマを大げさに崇拝していなければ、一説によれば数万人ともいわれる死人が出るという事態は避けられたのではないでしょうか。そういう意味で言うと、ダライ・ラマは、いかにチベット人たちに犠牲をださないかということに全力を尽くすべきだったと思います。で、その点でダライ・ラマ(とその側近)は、妥当な判断と行動をしましたかね? 非常に稚拙な判断と対応で、無益にチベット人を死なせてしまったというべきじゃありませんかね? むしろあの時点で自殺でもした方が、よっぽど中国側にもダメージは大きかったのでは。ダライ・ラマも人の子ですから、私は自殺すべきだったとは言いませんが。でもダライ・ラマというかチベット亡命政府の面々は、チベットでの焼身自殺について、かなりあいまいな態度をとっていませんかね? さすがに自殺をすすめるところまではいかずとも、これを適宜利用してやろうという魂胆は当然あるでしょう。
それは後知恵ってものでしょうが、現実に大変多数の人が亡くなってしまったのですからね。そうこう考えると、チベット人たちの過度のダライ・ラマ信仰というのは、いろいろな意味でチベットにはマイナスの部分が多々あったように思いますね。まあこういったことは、世間の人はなかなか認めないことなのでしょうが。
bogus-simotukareさんに感謝いたします。