見ていればわかりますが、「幸福の黄色いハンカチ」は、5月の連休中の話です。つまり武田鉄矢が北海道に着くと、街でメーデーのデモが行われています。当時(撮影は1977年)は5月1日のその当日に行われたでしょうから、つまりはこの映画は、そのちょっと前(武田が失恋して会社を辞めてから)~ゴールデンウィーク間の数日の話だということです。実際には回想シーンが入るので、映画に描かれている期間はわりと長いのですが、映画自体は数日の話です。
それで今年は2017年で、ただ今ゴールデンウィーク中ですから、まさに40年前の今が、この映画の舞台だったわけです。私もこの映画は好きですから、ちょっと調べてみました。
こちらのサイトさんによると、このゴールデンウィーク時のロケは、まさに1977年5月1日に釧路ではじまったとのことです。つまり本日の40年前の今日です。
それで撮影は、釧路、陸別、阿寒、帯広、清水、富良野・・・と続き、5月22日から27日まで夕張で最後の撮影をし、最終日の27日に高倉健と倍賞千恵子が再会するシーンを撮影してこの時のロケは終了しています。
実際には3月に冬のシーンで北海道ロケがされていますし、こちらのサイトさんによると
>8月より第三次ロケ(主に夕張での回想シーンの撮影)及びセット撮影を開始、8月末にクランクアップした。
とあります。8月20日までに撮影は終了、その後編集作業が行われ、公開は10月1日です。
それにしても40年ですか・・・。それでは高倉健や渥美清といった人たちがこの世の人でなくなるのも当然です。武田鉄矢(1949年生まれ)と桃井かおり(1951年生まれ)もすでに70歳近いし、映画に出てくる子役、無名のエキストラの子どもたちだって50台とかそれに近い年齢のわけですね。
そういえば高倉健が亡くなったとき、この映画がテレビで追悼放送されました。後のイメージはともかく、これは高倉の最初の松竹の出演作品でしたし、当時の映画ファンのイメージでは、高倉が山田監督の映画に出演するなんて信じらないようなものだったのかもです。しかしこの映画なくしてその後の高倉健はありませんでした。彼が文化勲章を受章するくらいの俳優になったのも、この映画に出演したが故です。そう考えれば、この作品は、高倉健にとってばかりでなく、日本映画のその後についも大きな影響を与えたということでしょう。山田監督自身も、この映画なくして現在のような立場にあったかどうか。
そう考えると、山田洋次という映画監督は、何をいまさらながら化け物のような人間ですね。彼は1931年生まれで80代半ばの現在でも、毎年新作を撮り続け、そしてそれが話題になり続ける。黒澤明などは晩年は映画は発表しても正直評価するのが苦しいところがありましたが(なお黒澤の遺作は、彼が83歳の際の発表です。山田はすでにその年齢を超えています)、山田はそうでもない。ここは新藤兼人のように100歳くらいまで(彼は1912年生まれで、遺作は2011年発表です)映画を作ってくれればという気もします。100歳はともかく、体が動くまで山田は映画を撮り続けてくれるでしょう。山田監督のご健勝を祈ってこの記事を終えます。