わりとネットなどでも大きく取り上げられましたが、長きにわたって(1963年~1995年)浦和南高校のサッカー部の指揮をとり、U20日本代表の監督も務めた松本暁司氏がお亡くなりになりましたね。記事を。
>2019年9月4日(水)
松本暁司氏が死去 埼玉サッカーの黄金期築いた名将の急逝に驚き、関係者から悼む声上がる
浦和南高サッカー部初代監督を務め、1969年度には同高を高校サッカー史上初の全国3冠に導いた松本暁司氏が2日、85歳で死去した。勝負にこだわる厳しくも情熱あふれる指導で埼玉サッカーの黄金期を築いた名将の訃報に、関係者から悼む声が上がった。
教え子で浦和南高の野崎正治監督は「突然過ぎて、いろいろなことを思い出してしまう。昨日(2日)は眠れなかった」と、恩師の急逝に驚きを隠せない。同監督は生徒として3年間、教員となってから赴任した浦和南高の7年間を合わせて10年間を松本氏とともに過ごした。「サッカーに関してはとても厳しい人で、『鬼松』と呼ばれていた。褒められたことなんてなかった」と振り返る。
野崎監督は、3日午後に松本氏の遺体と対面。「松本先生は穏やかな表情で、今にも『野崎、何やってんだ!』と言い出しそうだった。いつまでたっても先生と生徒という間柄は変わらない」と別れを惜しんだ。
同じく松本氏の指導の下、選手として75、76年度の全国高校選手権2連覇を経験している森田洋正教諭(いずみ高)は「誰よりも情熱があり、理論も兼ね備えていた。一方で、勝負師のような一面もあり、魅力的な方だった」と懐かしむ。「浦和だけでなく、日本サッカーの発展にご尽力された功績は、どなたにも勝る。今はただただ、ありがとうございました。本当にお疲れさまでしたと伝えたい」と、感謝の思いを口にしていた。
浦和南高出身で、松本氏の指導を受けた日本サッカー協会の田嶋幸三会長は、「先生のサッカーに対する情熱から多くのことを学んだ。感謝の気持ちを言葉で言い尽くすことはできません」とコメントした。
伝説的な名勝負とされる1977年1月の高校選手権決勝の際の松本監督の姿です。下の動画からのキャプチャー画像です。一番左のハンチングをかぶっているのが松本氏です。
浦和南 VS 静岡学園 第55回全国高校サッカー 決勝(1977年)
こちらは、訃報記事に共同通信が流した、上の決勝の際の胴上げ写真です。
浦和南高校のサッカー部については私も昨年に記事を書いています。
浦和南高校が、久しぶりにサッカーの冬の全国大会に出場する松本氏はとにかく怖い監督として知られました。「鬼松」といわれたくらいです。後に日本代表で活躍した水沼貴史が、
>水沼は、全国制覇を成し遂げた本太中学時代に、松本と接したことがある。その時は「こんな怖い先生は絶対に嫌だ」と思った。
>松本は、やはりひたすら怖かった。
「右ウイングですから、前後半のどちらかはベンチの前でプレーをすることになる。とにかく怒鳴られたくないから、監督の前でプレーする半分は必死でした」
と回顧するくらい怖い指導者だったわけです。
昨年浦和南高校が埼玉県の予選を勝ち上がり選手権出場を決めた際、松本監督も試合後に野崎監督を祝福していたくらいです。下の写真は、その際の動画のキャプチャーです。
2018年度第97回高校サッカー選手権 埼玉 決勝 昌平×浦和南②
あ、松本監督お元気そうだなと思っていたのですが、やはりご年齢がご年齢だとそんなに長い時間がたっていなくてもこのようになってしまうのですかね。
現在は時代が違いますので、松本監督のように、公立高校で圧倒的な実績を見せるのは難しいし、また本気でプロになりたい子どもたちは、高校よりプロのユースに行く時代ですから、松本監督のような存在は今後はなかなか出ないと思いますが、やはり日本サッカーの1時代を作った指導者であることは間違いありません。ご冥福お祈りします。なお最後に、浦和南高校のサイトで発表された松本氏への追悼文と松本氏の文章をご紹介しますので、ぜひお読みになってください。
>2019年09月04日
【校長ブログ】伝説の「赤き血のイレブン」松本暁司先生を偲ぶ
浦和南高校で高校サッカー史上初の高校総体、国体、全国高校選手権大会三冠を成し遂げられた 松本 暁司 先生がご逝去されました。浦和南高校創立の昭和38(1963)年4月から平成7(1995)年3月まで浦和南高校に32年間ご勤務され、着任1年目からサッカー部監督として活躍され、昭和42(1967)年に埼玉国体で優勝、昭和44(1969)年には高校サッカー史上初の三冠を成し遂げられ、昭和50(1975)年、51(1976)年には全国高校選手権大会連覇を達成されました。
埼玉県体育協会(現在の埼玉県スポーツ協会)では、国際・国内競技会において、特に傑出した競技成績、成果を収めたチーム・団体に「栄光旗」が授与していますが、浦和南高校サッカー部は、昭和44(1969)年、昭和50(1970)年、昭和51(1971)年と3本「栄光旗」をいただいています。埼玉県内で同一団体が3本の「栄光旗」をいただいている団体は他にはありません。
特に、昭和44(1969)年の浦和南高校の三冠達成は今でも語り草になっています。高校総体埼玉大会決勝で、浦和市立高校(現在のさいたま市立浦和高校)を7-1で勝利した 松本 暁司 監督の率いるイレブンは、高校総体、国体、全国高校選手権大会の3全国大会において「抽選勝」のない全勝の完全制覇でした。圧倒的な強さで前人未到の偉業を果たし、県立浦和高校、県立浦和西高校、浦和市立高校(現在のさいたま市立浦和高校)につづく盟主誕生を強く印象づけました。
浦和南高校の校長室では、全国高校選手権大会優勝のサッカーボールブロンズ、3本の「栄光旗」、そして 松本 暁司 先生をモデルにした梶原一騎原作「赤き血のイレブン」を展示して敬意を表しています。奇しくも 松本 暁司 先生の告別式当日、告別式会場に隣接する浦和駒場運動公園では高校サッカーさいたま市民大会南部支部大会が開催され、浦和南高校サッカー部も出場します。当日は、サッカー部員は腕に喪章をつけ全力でプレーをします。松本 暁司 先生の御冥福をお祈りいたします。
松本 暁司「浦和南高校サッカー20年」
昭和38(1963)年4月、在職2年目の埼玉大学附属中学校を、あえて苦労を覚悟で転出することに踏み切った動機は、当時の浦和市教育長須藤多市先生が、サッカーの猛烈なファンであって、その誘いを受けたことが最大の原因であった。
その折、須藤先生が言った印象的言葉が二つあった。一つは、浦和南高校のサッカー部を早く日本一にすること。もう一つは、学校の中で一人でよいから恐い教師になれと言われた。浦和市立常盤中学校(当時)体育館を6つに仕切った仮教室から授業が始まり、グランドも常盤中学校と、埼玉大学針ヶ谷グランドを借用しながらだった。現在の校地へ移転した1年後でも、南棟だけで、グランドはまだなかった。
開校当時の5年間くらいは、涙ぐましい辛い苦しいことが山ほどあったが、その間、昭和42(1967)年の埼玉国体の高校の部における優勝と、南高がサッカー会場になったことで、一応学校らしくなったと思う。
新設校としてスタート以来、情熱的な諸先生方の指導と協力体制で、その後は1年ごとに充実し、今日、先輩校に互して譲らぬ確固たる地を築き、優秀な人材を掘り起こし、鍛えてきた。それは、浦和南を志望する小・中学校生、保護者、中学校の先生方、浦和市民にも信頼を得た。昭和51(1976)年の全国優勝の浦和駅頭での大歓迎は、サッカーのまち浦和とはいえ、地域社会と高校スポーツが、いかに密着しているかを示した現象だ。
続々と選手たちは浦和南の門をくぐっては、それぞれ次の扉をたたき、翔び立っていった。トップレベルの人材は、即戦力となり、大学、社会人チーム、そして国際舞台で活躍している。スポーツの世界にも、素晴らしい組織があり、人間関係の繋がりがひろがっている。
私は、この20年間で高校スポーツは、世界を知る登龍門であることを知った。それを自分自身で予想だにしなかったN選手が、サッカーの世界の貯えられた伝統ある文化に触れ、初めてサッカーの道の尊さと感動を体験し、益々前向きに挑戦しようとする決意に、胸を熱くしているのである。
サッカーは、一人では成立しない。他のメンバーの協力によって、はじめて自分の能力が最大限に発揮される。したがって、自分も他の選手に協力する奉仕者でなければならない。互いに持っている力を発揮して、ゲームとして勝つという喜びが得られる。勝利感は、人間の本能的欲求だ。しかし、そこには人間がプレーするスポーツとして、崇高なモラルの上にのっとったルールがあり、フェアプレーが基盤であることが、真の勝利者であろう。南高サッカー部の栄光には、この輝かしい勝利の感動があったことを忘れることはできない。
最近の南高サッカー部は弱くなったと言う。その理由は、「鬼マツ」が優しくなったからとよく聞く。須藤先生の恐い先生になるイメージをもう一度再現しなくてはならない。私自身は変わらないつもりだが、指導法に何か工夫と進歩を見出し、勝利への不安を吹き飛ばす、精神力を叩き込むことに頭がいっぱいである。
そして今ここに、南高の学び舎で育った選手の中から20年目にして、初めて南高教諭として、今春筑波大卒のサッカー部選手だった野崎正治君を迎えることができた。このことは言うまでもないが、現在も将来も、南高生にとって大変意義あることであり、他教科にも是非南高生OBが迎えられるように希望している。
(『埼玉県浦和市立南高等学校20周年記念誌』1982年)