数日自宅を留守にして、関西方面へ行ってきました。記事は、いつ書くかはわかりませんが、ミャンマー(昨年8月)→鹿児島(昨年12月)→韓国(昨年12月~今年1月)の記事の後に旅行記を書きます。が、途中に北京・天津紀行をはさむな、きっと。というわけで、しばらくの間お待ちください。
それでは本日の記事を。野球の選手・監督・解説者(評論家?)でもあった野村克也が亡くなりましたね。記事を。
>プロ野球 野村克也さん死去 84歳 戦後初の三冠王
2020年2月11日 20時01分
プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名キャッチャーで、監督としても日本一に3回輝いた野村克也さんが11日、虚血性心不全のため亡くなりました。84歳でした。
野村さんは京都府出身、昭和29年に峰山高校からテスト生でソフトバンクの前身、南海に入団しました。昭和36年から8年連続でホームラン王を獲得し、昭和40年には戦後初の三冠王に輝きました。
「打ってよし守ってよし」の球史に残る名キャッチャーとなり、選手兼任監督としても8年間チームを率いて昭和48年にはリーグ優勝を果たしました。
その後、ロッテと西武でプレーし、昭和55年に45歳で現役を引退しました。
通算3017試合出場は、平成27年に中日で選手兼任監督だった谷繁元信さんが更新するまで長年にわたってプロ野球記録でした。
また通算2901安打、ホームラン657本、1988打点はいずれも歴代2位で、平成元年に野球殿堂入りしています。
翌年の平成2年にヤクルトの監督に就任し、データを重視した「ID野球」をチームに植え付けて3回の日本一に導くなど手腕を発揮しました。
その後、阪神や楽天で監督を務め、「ぼやき」と呼ばれる独特の話しぶりで選手をしった激励し、平成21年にユニフォームを脱いだあとは解説者として活躍しました。
野村さんは3年前に亡くなった妻の沙知代さんとのおしどり夫婦として知られ、去年12月にはNHKの番組で沙知代さんの存在が選手時代そして現役引退後も「自分が苦境になったときに前向きなことばをかけて後押ししてくれる存在だった」と話していました。
また先月行われた金田正一さんをしのぶ会には車いすに乗って出席していました。
楽天などによりますと、野村さんは11日午前2時すぎに自宅から救急車で病院に搬送されましたが、午前3時半、虚血性心不全のため亡くなりました。84歳でした。
(以下略)
記事はこの後、遺族(お兄様もコメントされています)、野球関係者、ファンほかの談話が紹介されていますが、それは申し訳ありませんが、省略させていただきます。
ちょうど名古屋滞在中に彼の死を知りました。ご自宅で入浴中にいけなくなったとのこと。奥さん同様の突然死だったようですね。
私は野球ファンではないですが、そんな人間にもいろいろ強烈な印象を残した人だったと思います。ご冥福を祈りします。
さて、前に私、故野村夫人について記事を書いたことがあります。彼女が亡くなった2017年12月の記事です。
野村沙知代という人も、劇薬のような一種の天才だったと思うその記事で私は、次のように書いています。
>それで野村は、今後南海時代のことなど封印していたことを語りだすんですかね。奥さん存命時は無理でも、今後はその可能性があります。可能なら、話せることをぜひ話したり、自分で書きとめておいて発表していただけませんかね。かなり興味深いことが明らかになるでしょう。奥さんとのゴシップを書いてくれとは言いませんし書かないでしょうが、野球のことだったら書いてくれるかもです。
ここで書いている「野球のこと」というのは、実は南海退団時の話のつもりだったのですが、しかしそれだと奥さんとのゴシップになりますね(苦笑)。それはどっちみち語ってくれないのでしょうが、ただ彼にとって奥さんとの関係が災いして球団を追われたというのは、まさに彼の人生の分岐点になったわけです。そしてやっぱり彼は、その後も「南海ホークス」とはいい関係ではありませんでした。Wikipediaの「南海ホークスOB」としてのスタンスという項目では、
>大阪スタヂアム跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」では、同球団で活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料で紹介している。しかし、野村については一切取り上げていないばかりか、シーズン単位で監督名を記した球団年表にも野村の名前を載せていない一方、ドン・ブレイザーがヘッドコーチに就任し、作戦面での采配を担っていたことを載せている。このような展示に至った理由は、メモリアルギャラリーの建設に際して南海電鉄から本人宅へ連絡があったにもかかわらず、プレイイングマネジャー時代の解任劇を根に持っている沙知代夫人が名前や写真の掲載を一切拒否したことにある。この件については、往年のファンから、夫人宛てに抗議の電話が殺到したという。野村は、なんばパークスオープン半年後の2004年3月に関西テレビ放送で放映された『ザ・ドキュメント』の「帰らざる黄金の日々 南海ホークスへの鎮魂歌」の中で、南海時代についてコメントしたことがある。
なお、南海の後継球団である福岡ソフトバンクホークスでは、2013年に(南海時代からの通算で)ホークス創設75周年を記念したプロジェクト「LEGEND HAWKS」を展開。野村に協力を要請した結果、8月31日の対楽天戦(福岡 ヤフオク!ドーム)の試合前に開かれた記念セレモニーへの出席が実現した。野村がホークス関連のイベントに参加したのは、南海からの退団以来36年振り。捕手専任時代後期からの主力打者であった門田博光と共に当時の復刻ユニフォーム姿で登場した野村は、球団会長の立場で「見届け人」として参加した王に見守られながら、始球式で同ドームの右打席(門田は左打席)に立った。また、同月27日にベースボール・マガジン社から発売された『B.B.MOOK962 ホークス75年史 HAWKS 1938-2013』には、「ホークスの歴代指揮官」の立場で初めて応じたインタビューの模様が掲載されている。
2018年2月10日の巨人宮崎キャンプ60周年記念 ジャイアンツOB対ホークスOB戦で監督として南海のユニホームに袖を通したが「このユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分」とコメントした。対戦相手の監督はライバルの長嶋であった。
2019年の日本シリーズでソフトバンクが巨人を4連勝で破って優勝したときにはその試合を観戦し、「OBだからうれしい」と述べた。
とあります(注釈の番号は削除しました)。想像ですが、2018年2月に彼が、南海のユニフォームに袖を通したのは、たぶんその前年に奥さんが亡くなったことも関係しているんじゃないかなと思います。晩年奥さんは認知症の気もあったという話も聞きますが、存命中ではそれは難しかったのではないか。
それで野球に詳しいライターで、少年時代南海ホークスと野村を大阪球場で見ていた広尾晃氏によると、氏が昨日(2月12日)に上記のメモリアルギャラリーへ行ったころ、
>「なんばパークス」の9階まで上がり「南海ホークスメモリアルギャラリー」に行った。
何の変化もなかった。追悼のコメントも一切なし。
今朝、年表には野村克也の文字があったと書いたが思い違いだった。年表にもその名前はない。
とのことです。野村側が一切関係を拒絶しているのでしょう。南海側は、さすがに野村を追い出したのが1977年、球団を売却したのが88年ですから、そもそもその時代にかかわった関係者はみな退社おそらくほとんどは故人になっていますから、いまさら野村うんぬんでもないでしょう。野村としては、
>このユニホームは大嫌い。これにお世話になって、これに裏切られて。感謝と憎しみが五分五分
というのは、彼なりのせいいっぱいの南海への愛情表現じゃないですかね。そう思います。
私としては、上のメモリアルギャラリーに、野村の名前を出すくらいのことはOKにしてもよかったのではないかと考えますが、ご当人いろいろあってそうはいかなかったのでしょう。それは仕方ないですが、あとは野村の息子次第ですかね。すぐというわけにはいかないかもですが、ほとぼりが冷めたあたり少しは考えなおしてくれればです。彼自身は、別に南海への悪意はないでしょうから、それもできない相談ではないかと思います。
それしても、やはり野村というと、奥さんのことが彼自身の訃報記事でもやたら取り上げられていました。前に私が書いたように、
>劇薬のような人間だったのでしょうね。副作用もものすごいが、効く時はすごいっていう(笑)
人物だったのでしょう。やはりお二人は、切っても切れない関係だったのだと思います。