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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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情報(来年1月1日から7日まで、都内の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5本が上映される)(ほかにも、女優監督の話)

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今日は情報ということで。タイトルにしたように、高田馬場の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5作が1月1日から7日まで公開されます。以下にスケジュールを。

早稲田松竹クラシックスvol.177/田中絹代監督特集

上のスクリーンショットでお分かりのように、彼女の監督デビュー作である『恋文』(1953年)が、モーニングショーとレイトショーで連日、『月は上りぬ』(1955年)『乳房よ永遠なれ』1955年)が1日~3日、『女ばかりの夜』(1961年)『お吟さま』(1962年)が4日~7日の上映です。田中は生涯で6本の映画を監督し、今回は、1960年の『流転の王妃』は上映されませんが、ほかの5作品を鑑賞できるわけです。個人的な話を書いてしまいますと、私は『流転の王妃』をすでに観ていますので、もし5本観ることができれば田中絹代の監督作品を制覇することになります。

田中絹代は、1953年から62年にかけて6本の映画を監督しました。それらは公開後に話題になることもあまりなかったかと思いますが、しかし昨今ある程度その映画監督作品が回顧されるようになっていて、このような本も出版されているくらいです。2018年の出版です。本については、すみません、私は未読です。

映画監督 田中絹代

それで、この本の著者である津田なおみさんが、田中絹代の監督作品について語っています。

日本映画史に映画監督として絹代さんの名を刻むきっかけになれば。 「映画監督 田中絹代」著者、津田なおみさんインタビュー

非常に興味深いインタビューですので、読者の皆さまにもぜひお目を通していただきたいのですが、私が印象に残ったくだりがこちら。

>当時のことを知っておられる方がどんどん少なくなってしまい、あと10年早く着手できていれば、もっと多くのお話が伺えたのにと、つくづく思いましたね。

それはもちろんそうなのですが、ただ津田さん以前に、監督としての田中絹代の作品を本格的に研究する人がいなかったというのは、けっきょくそれは、田中絹代監督の映画というものが、「田中絹代が監督した」という以上の評価をされなかったということなのでしょうね。「いや、今日からすればそんな扱いではすまない」ということなのかもですが、ともかく同時代、そしてそれからも長きにわたって、忌憚なくいえば「大女優の道楽」「映画界が全面的にバックアップしただけ」「助監督のおかげ」という評価を覆すだけのものがなかったのでしょう。実は私も、『流転の王妃』を観て、「これ田中絹代の演出というより、助監督のおかげだよなあ」と思ったシーンがありました。ラスト近くの逃避行のあたりで、あれはちょっと田中の演出力では無理なシーンだったと思います。

1本しか映画を観ていない私がこういうことを書くのもなんですが、彼女の映画監督としての弱点の1つは、彼女が脚本に名前を連ねていないことだと私は考えます。実のところどれくらい彼女が脚本に参加したのかわからないところもあるのかもですが、職業監督として演出だけ担当するというのは彼女には荷が重かったでしょうし、やはり素人監督(に毛が生えた人)は、脚本を書かないとなかなかいい作品にはなりにくいのではないか。別に好きな作品のわけでもありませんが、『お葬式』や『麻雀放浪記』の脚本が、伊丹十三和田誠澤井信一郎との共作)によって書き上げられたことは、それなりの必然性があったはず。

ところで田中が、最終的に6本目で監督稼業を打ち切った事情は定かでないのですが、津田さんの調査によると、どうも6本目の『お吟さま』で撮影監督をつとめた宮島義勇カメラマンから相当に厳しくやられたこともあったようですね。以下同じサイトからの引用です。

>彼女がなぜ6作品で監督を辞めてしまったのか。私はそこがどうしても知りたかったのですが、あまり分からなかったのです。本文で触れていますが、6作目の『お吟さま』撮影当時、宮川一夫と並び撮影界の巨匠と呼ばれた宮島義勇に、監督だった絹代さんは随分絞られていたそうです。文献の裏付けは取れませんでしたが、その様子を見た、聞いたという話を多数の方から伺い、その状況なら彼女はこう思うだろうと、私なりの考察で書いています。監督を続けなかったことに関してご本人もあまり語っておらず、今回の執筆で一番苦労した部分でした。

前にも同じようなことを書いたことがありますが、宮島氏といえば神様、天皇みたいな人で、プロデューサーも監督も、「先生に撮影していただいて光栄でございます」というレベルの人物ですからね。宮島氏のWikipediaにも、

>生涯で撮影した映画は60本以上。撮影技師が照明に指示・注文をだす手法は、「撮影監督」のシステムとなった。また毒舌家で知られ、卓越した技術・裏打ちされた撮影理論に加え、監督にも遠慮なく意見をいう直言型の性格で、「天皇」「ミヤテン(宮天)」などと呼ばれた。一方、大映京都撮影所のカメラマン・宮川一夫とともに双璧をなす存在から、「西の宮川、東の宮島」とも言われた。

とあるくらいです。こういう人物なんですから、監督としての田中絹代にどういう態度で接してくるか、実に簡単に予想がつくというものであり、やっぱりそうだったのでしょう。個人的には、宮島カメラマンが、田中絹代の監督作品の撮影をよく引き受けたなという気がします。ただ田中作品は、その前作の『女ばかりの夜』の撮影を黒沢映画でおなじみの中井朝一が担当したりと、スタッフにも恵まれてはいます。

以下余談ですが、女優監督としての第2号が、左幸子です。彼女は、『遠い一本の道』を1977年に監督しています。これは彼女の制作・監督・主演というなかなか気合の入った映画で、日本国有鉄道(国鉄)の労働組合である国鉄労働組合の制作です。左のWikipediaには、

>1952年の映画デビュー以降数々の作品に出演したが、新東宝、日活大映に短期間所属したことはあるものの、五社協定をものともせず、一匹狼の女優として活動。強い信念の持ち主で、映画会社にスターとして売り出してもらうより、いい脚本、いい監督の作品を自ら選択することを重要視し続けたためである。演出や役柄の解釈について自分の意見を主張し納得するまで議論する女優だった。『遠い一本の道』の監督・主演も「男女差別をなくしたい」との主張に基づくものだった。

とあります。これは私の想像でしかありませんが、たぶん田中絹代には、そこまでの迫力はなかったのではないですかね。なおこの映画は、現在DVD化されているので、興味のある方はご覧になってください。

遠い一本の道

あ、すみません。田中絹代の映画のDVDのリンクは、次の記事でしますので、乞うご容赦。またたぶんなんですが、大映ドラマの『赤い絆』で。この映画でも夫婦役だったらしい井川比佐志と左が夫婦役で共演しているのは、やはりこの映画も関係しているのかなあ?

ちなみに女優(歌手のほうではない)の高橋洋子 は、自分の原作小説(『雨が好き』)を自分で監督・脚色・主演しちゃったのですから、すごい人はいるものです。

余談が過ぎました。私も観に行こうと思っていますので、興味のある方は、お正月ですが、ぜひどうぞ。観たら記事にはするつもりです。なおこの記事は、bogus-simotukareさんのこちらの記事に投降したコメントを基にしている部分があることをお断りします。また津田なおみインタビュー記事は、その記事からご教示いただきました。感謝を申し上げます。


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