本来なら本日は、旅行の記事を発表する日なのですが、やはり下の件の記事を書きます。
>小嶺忠敏さんが死去 国見高校率いサッカー6度日本一
2022年1月7日 12:01 (2022年1月7日 17:07更新)
国見高(長崎)を率いて1987年度の初制覇を含め、全国高校サッカー選手権を6度制した小嶺忠敏(こみね・ただとし)さんが1月7日、肝不全のため長崎市内の病院で死去した。76歳だった。告別式は1月9日正午から長崎県南島原市深江町丁4593の南高葬儀社寶玉殿。喪主は妻、厚子さん。
技術だけでなく礼儀や身だしなみなど人間教育を重視。大久保嘉人さんや平山相太さんら、多くの教え子をJリーグや日本代表に送り出した。2005年にプロサッカークラブのV・ファーレン長崎の誕生に尽力し、初代社長を務めた。長崎総合科学大付高の監督を務め、開催中の全国選手権の出場へ導いた。〔共同〕
今年の高校サッカー選手権で、小嶺忠敏氏は現場にでてこなかったし体調も悪いという話でしたので、けっこうまずいのかなと思っていましたらやっぱりそうでしたね。まずはご冥福をお祈りいたします。
記事の見出しにもあるように、小嶺氏は、世間ではあくまで「国見高校の指導者」ですね。彼も国見高校を去ったのが2007年1月初旬ですから、もう15年も前の話なわけですが、当然ながら彼は「長崎総合科学大付高」や国見の前任の「島原商業」の監督であるより国見高校の監督なわけです。小嶺氏の写真の出典はこちら。先月(2021年12月)撮影とのことで、かなりやつれている状態ですね。
前このブログで次のような記事を書いたことがあります。
高校サッカーの伝説的名監督である松本暁司氏が亡くなった浦和市立南高等学校(現・さいたま市立浦和南高等学校)で長きにわたってサッカー部の監督をつとめた松本暁司氏がお亡くなりになった際に発表した記事ですが、松本氏は高校の体育の教員だったわけです。彼は、日本代表のGKでもあったという経歴の持ち主ですが、本業は埼玉県の高校教員でした。そして、小嶺氏も長崎県の高校教員でありました。小嶺氏のWikipediaにもあるように、長崎県教育委員会は、彼に便宜を図って、長崎県の教員には必ず課せられる離島勤務を免除したくらいです。離島勤務をしたら彼が退職することを恐れたわけです。そういう特別扱いはどうかと思いますが、ともかくほかに替えのきかない人材だったということでしょう。
それで彼は、体育の教員でなく社会科の教員でしたが、いちおう建前としては教員本業だったわけです。
前掲の松本監督は、伝説となった名勝負、1977年1月に行われた第55回全国高等学校サッカー選手権大会の決勝で、井田勝通監督率いる静岡学園高等学校と闘い、5-4で勝利しました。井田氏は、サッカー指導者として静岡学園にやとわれたプロ監督です。帝京高校の古沼貞雄監督は、私立高校ですが体育教員の監督です。1934年生まれの松本氏、1939年生まれの古沼氏、1942年生まれの井田氏、1945年生まれの小嶺氏と、立場はいろいろ違いますが、現在でプロを本気で目指す高校生年齢のサッカー選手は、もっぱらJリーグのユースに所属するようになっています。特に井田氏や小嶺氏は、教え子から大勢のプロ選手を輩出しました。高校野球や高校ラグビーなどでも公立高校が活躍するのは難しい時代になっています。『スクール☆ウォーズ』のモデルとなった京都市立伏見工業高等学校(現・京都市立京都工学院高等学校)もここ数年来ラグビー選手権で、京都府予選も突破できていません。国見高校が最後に選手権に出場したのは、2010年が最後です。
そう考えると、時代が違いますから、小嶺氏ほどの実績をだす公立学校教員の監督はもうでないでしょうね。それだけの実績を出す監督が公立学校の教員ということはありえない。私立高校が強くなれば井田氏のようなプロ監督が主流になるし、またプロ志望者が高校からクラブにシフトしていけば、高校の指導者の価値も逓減していく。時代の過渡期の、高校サッカー黄金時代の最後を飾る教員の方の死だったかもしれません。小嶺氏も、選挙に出馬して落選したりと黒歴史も多いし、彼の指導方法も、さすがに現在では差しさわりが多すぎて通用するものではないと思いますが、やはりこれも時代の終わりなのでしょう。
ところで前々から思っていたことを書きますと、小嶺氏って、俳優の名古屋章氏(故人)に似ていない? 最近70年代~80年代の名古屋氏が出演するテレビドラマを観ることが多く、そんなことを感じます。名古屋氏の写真は、氏のWikipediaから。