タイトル通り、本日(3月16日)から通常の1日1記事更新となります。
それでは本題の記事に。今日の記事は、評論とか批評でない単なるエッセイです。それを最初に断っておきます。
「午前十時の映画祭」で「天使にラブ・ソングを…」が、「シカゴ」とのカップリングで公開されていました。観ていまして、ちょっと印象に残ったところを。なおストーリーの決定的な部分は書きませんが、ネタバレもありますので、知りたくない方は以下お読みにならないでください。
いいですか? 書きますよ。今日書きたいことは3つです。
まず最初は、この映画でのウーピー・ゴールドバーグの扮する歌手は、作り手が、つまり監督や脚本家、プロデューサー、出演者らが意識したかどうかはともかく、たぶんなんらかの発達障害のたぐいがありそうだということです。閉ざされた生活で、実に無意味にギャーギャー騒ぎまくる。主人公に限らず登場人物が無意味に騒ぐというのは、特にコメディ系のアメリカ映画あるいはテレビドラマやネット配信のドラマなどのお約束に近いものがあるかと思いますが、たぶんああいうのって、発達障害の人間の騒ぎまくる態度や、非常識な行動、衝動的な行動を、「発達障害」という概念を認識していたかどうかはともかく(今は違うでしょうが、昔はたぶんそうではないのではないか)、けっきょくそういったことを「面白い」と考えて、ネタにしているということでしょう。実際、すごい映画監督というのは、発達障害や精神障害がありそうなところはあります。溝口健二や黒澤明はそっちの系統だし(黒澤はそこまでいかないかもですが、溝口は完全にある種の精神障害があったと私は考えています)、スピルバーグやジョージ・ルーカスもそういうたぐいの人たちです。ヒッチコックなども相当な変人だったらしい。脚本家や俳優なども、その種の人間数知れず。そう考えると、たぶんですが、映像作家というのは、騒ぐような人間と親和性が強いのでしょう。まあこれは、映画評論家・映画批評家・映画ライターとかも、そのようなところがあるでしょうね。淀川長治とか水野晴郎らには、明らかにそのような部分を感じます。ちなみに私の個人的な意見を書きますと、あの種の無意味な騒ぎ方というのは好きでありません(苦笑)。きいていて不快になるだけです。私も自分を相当に発達障害の要素の強い人間だと考えていますが、たぶん本当の発達障害の人たちと比較すれば、私の発達障害など大したことはないのでしょう。
それはともかく、その次は、映画の途中の次のようなところです。殺されそうになる尼僧姿の主人公を、組織の殺し屋が大要「シスターは殺せない」とか言い出して殺すのを躊躇します。これはもちろん映画ですから、大げさには描いています。しかしこのくだりは、人間の奥底にある心理を物語っていることも間違いないでしょう。
なんだかんだ言って人間、自分が何らかの形でかかわっている宗教に対しては、それ相応の思いがあるものです。これは特定の教義を持つ宗教に限りません。たとえばアニミズムなんかも、特に日本人には、相当強い影響があるかと思います。一例を出しますと、宜保愛子なんて人が出てきて、人形にはなんとかかんとかというようなことを述べて一世を風靡した背景には、日本人の根強いアニミズム信仰があるでしょう。私も正直、普段は彼女なんて馬鹿にしていますが、やはりそういった心理を完全に払しょくするにはいたっていません。
たぶんですが、キリスト教原理主義者でなくても、ごく一般のキリスト教信者に「イエスが復活したとかいう話は、全くのウソデタラメの宗教的フィクションだ」とかそういうたぐいのことを話したら、先方少なくともいい顔はしないでしょうね。あからさまに「そうではない」とは言わなくても、「お前みたいな非信者からそんなこと言われたくない」くらいの対応ではないか。おなじようなことをたとえばイスラム教徒に、酒は飲まないとか豚肉は食べないとかいう戒律はまったくもってナンセンスだかとか話せば、あらぬトラブルが起きそうです。複数の奥さんを持てるなんて、現代社会に通用するものではないとか言っても、やっぱり嫌な顔をされるのではないか。
なおここで断っておきますと、複数の配偶者を男性が持っていいというのは、もともとは戦争における寡婦救済の意味合いがありました。そういう事情を当方も理解しないではないですが、さすがにこれは、法律という枠組みでは不可にしたほうがいいんじゃないんですかね。今の時代そうそう戦争が起きるわけでもないし。また事実そういう扱いにだんだんなっています。
そして最後が、映画にでてくる「ローマ法王」(現在はもっぱら「ローマ教皇」。ここでは都合により、映画の字幕標記にのっとります)が、遠い姿と後ろ姿のみの登場だということです。
『ベン・ハー』(1959年のヴァージョン)で、イエス・キリストが正面から顔を出していないのと似たようなものですかね。もちろん映画としては、まったくコンセプトの違うものではありますが、どちらもあまりにえらすぎて、顔を出せないというところはあるのでしょう。なおトリビアを書いておきますと、この映画でイエスを演じたのは、オペラ歌手のクロード・ヒーターという人です。ごく最近までご存命で、2020年に亡くなっています。彼の素顔はこちら。
ただイエスは、実在の人物ではあるが過度に伝説化されているという側面がありますが、ローマ法王(教皇)は、我々と同時代の実在の人物です。で、ここで登場する法王(教皇)は、映画の当時のヨハネ・パウロ二世という実在の人物というわけではなく、架空の法王(教皇)です。映画に出てくる大統領や首相みたいなものか。そういう存在であっても、やはり姿を直接出すというのは、映画の製作者たちははばかったということです。
もちろんいろんな映画で、イエス・キリストは表面から描かれているし、『ローマ法王の休日』なんて映画もあります。またエリザベス女王が、対独戦勝利の日に、一般人にまぎれて外出したなんて話も映画になっています(『ローマの休日』の元ネタです)。そうでなくったって英国王室の話はいろいろドラマ化されているし(エリザベスを演じた女優たちのリストを参照)、日本の天皇も、ちょいちょい映画に登場しています。私は観ていないのですが、南北朝時代や明治維新のドラマなんか(NHKの大河ドラマなど)でも、天皇がでてくることもあるんですかね? Wikipediaで調べればいいのですが、今日はそこまではしません。ただ日露戦争とか太平洋戦争の話とかでないと、天皇を映画に登場させる意味合いが乏しいので、近現代(ポスト明治維新)の天皇が映画やドラマに登場するのは、明治天皇か昭和天皇以外は、よほど政治情勢が変わらない限りもはやないでしょうね。過日の小室某氏と眞子さんの結婚の話をドラマ化したら、あるいは前天皇(上皇)
や現天皇が出てくるかもですが、そんなドラマは作られないだろうし、たぶん作っても天皇は出ないのではないか。
話が飛びましたが、たとえば『明治天皇と日露大戦争』や『日本のいちばん長い日』といった映画で前者は明治天皇(嵐寛寿郎)、後者は昭和天皇が出てきます。松本幸四郎(八代目→のちの初代松本白鸚)が、67年のバージョンに出演しましたが、Wikipediaから引用すれば、
>エンディングの配役クレジットタイトルは、昭和天皇役の八代目松本幸四郎以外は登場順で表示されている。昭和天皇(演:松本幸四郎)については、重要な登場人物かつ存命で在位中の時代ということもあってか、クレジットもパンフレットにも紹介されていないなど、扱われ方に特別な配慮がされている。
という扱いだし、また
> 遠景と手や後姿、および声などで出演しており、その表情が画面上に映し出されることはない。
というわけであり、このあたり天皇へのタブーの踏襲ということでしょう。2015年のバージョン2015年のバージョンでは、これもWikipediaから引用すれば
>1967年(昭和42年)公開の前作では主要人物でありながら、公開時がいまだに本人の存命・在位中ということもあり「特別な扱われ方」がなされた天皇であったが、本作では「ひとりの人物」として描かれている。
>大東亜戦争を扱った映画の中で、昭和天皇の姿を明確に描いた最初の日本映画とされる
とのこと。演じているのは本木雅弘です。なおWikipedia「昭和天皇#昭和天皇を扱った作品」
に、フィクションのドラマ(映画・テレビドラマ)で昭和天皇を演じた人物がリストアップされていまして、それを見ると、映画は歌舞伎の関係者が目立ちます。ドラもそうですが、こちらは、北大路欣也や加藤剛といった人たちも出演しており、やはりテレビドラマの方が幅広いキャスティングをしています。イッセー尾形が昭和天皇を演じているのは、外国映画で、日本の映画会社やテレビ局などの持つタブー意識がないこともあるのでしょう。明治天皇も、アラカン以外の人はやはり歌舞伎関係者が多い。テレビドラマそうですが、中国制作の「走向共和」では矢野浩二が演じています。矢野は、中国では明治天皇や日本兵を演じて有名になりました。これもタブー意識がないからでしょう。最近では、NHK大河ドラマ 『西郷どん」で、野村万之丞が演じました。NHK大河ドラマに天皇が出てきたのも、やはりある程度天皇タブーが緩んできたということなのかと思います。なお1987年に年末時代劇として鳴り物入りで制作された『田原坂』には、明治天皇は登場していません。また『西郷どん』には、孝明天皇役で、中村児太郎が演じています。やはり能楽師の野村といい、歌舞伎とかそっちの系統の役者が演じることが望ましいと考えられているのですかね?
他はどうかとみてみると、かの藤島泰輔原作の『孤獨の人』では、当時の皇太子(現上皇)は、正面から顔は映されません。つまり扱いとしては、1967年ヴァージョンの『日本のいちばん長い日』と同じです。演じたのは、Wikipediaによれば、公募によってえらばれた黒沢光郎です。これは同時代(『日本のいちばん長い日』より、この点では、より配慮を必要とするということになります)の実在の人物という配慮でしょうが、これよりはるかにさかのぼる神話上の人物ですと、『日本誕生』では、三船敏郎がヤマトタケルを演じたり、二代目中村鴈治郎が景行天皇(ヤマトタケルの父親)を演じ、さらには天照大神を原節子が演じたわけです。これは、日本映画絶頂期の映画(観客動員のピークだった1958年の翌年59年の公開)であり、さすがに現在ではこのような日本神話を前面にとりあげた映画は企画もされないし制作もされないでしょうが、これも日本が何はともあれ民主化されたからのものではあります。
だいぶ話が飛びましたが、ともかく現在といっても 制作の映画ですからだいぶ昔の映画ですが、その時代では、ローマ法王(教皇)をあからさまに出すことを映画会社はしなかったわけです。そう考えると『ゴッドファーザー PART III』で、ローマ法王(教皇)の暗殺事件(もちろん真相は定かでありませんが)が描かれたのは、あれは相当に映画のみならず社会のタブーに踏み込んだのだろうなと思います。あの映画を私はそんなに出来がいいとは思いませんが、その件は確かにすごい。
そう考えると、肩の凝らない娯楽映画かと思いきや、さまざまな文化の状況などをいろいろと私たちに提起してくれるのが、『天使にラブ・ソングを…』という映画なのでしょう。これだから映画というのは面白いし侮れないのだと思います。