このような本を読みました。
漢方薬は効かない―中国二千年のウソを検証する 見逃せないこれだけの副作用 (ベストセラーシリーズ・ワニの本)
このような本も。
高橋晄正氏は、東京大学医学部の専任講師でした。社会にものをいう医者だったせいもあったかどうか、他大学に転出することもなく、専任講師のまま東京大学を定年となりました。
さてさて、以前私本多勝一氏の東洋医学の本を読みました。文庫本もありますので、文庫本もAmazonにリンクします。文庫本に関しては、ちょっと見過ごせない部分もあるためですので、あえてこちらもリンクします。
読んでいて、どうも内容に不審なところが多く、これはどうしたものかと考えてネットほかをあさっていて、高橋氏の本にたどり着いたわけです。なお高橋氏の本の出版年は、上の本が1993年、下の本が69年なので、本来なら出版順の方がいいのかもですが、先に読んだのが「漢方薬は効かない」(以下この表記)の本でしたので、そちらを上にしました。本多氏の本は、単行本が1997年、文庫本が2004年の出版です。
実は私は、読む前は、本多氏の本は東洋医学というものをトータルに取材して、東洋医学のさまざまな可能性から問題点までふくめて論じた本なのかなと思ったのですが、ぜんぜんそんな代物でなく、ただ本多氏が懇意にしているS氏(本多氏は「S先生」と表記。正体は、たぶん後半に名前の出てくる境信一氏。よって以降は、私の責任でS氏(≒境氏)と表記。「=」でなく、「≒」と近似値表記なのは、本多氏が他の人もふくめた複数の人物を合わせたのが「S先生」であるとかめちゃくちゃなことを書いている(「あとがき」単行本p.257 「初版あとがき」文庫本p.249)からですが、実際のところ私が見た限りでは、このS氏はほぼ境氏のことであると考えてよろしいかと思います)から自分や自分の身内が受けた治療の話を書いているのと、「付章」として、めちゃくちゃな食養生の話が書いてあって(どう考えても、素人さんの戯言にしか思えません。おそらくこれも、S氏(≒境氏)の話の受け売りの部分が大きいと思います)、さらは本多氏の家族や友人・知人のたぐいが西洋医学のためにひどい目にあった(でも、それって東洋医学を受診していたら大丈夫だったということでもなさそうです)という話、ほかはS氏(≒境氏)の珍妙な話をそのまま垂れ流しているのと、米国の東洋医学教育の事情を現地の学生(当時)が書いていて、最後に「解説」として、鍼灸師の人(林順三氏)が東洋医学の総論について記しています。
で、たとえばS氏(≒境氏)のプロフィールや実績すら定かでないし(なにしろ東洋医学に統計学はそぐわないという趣旨の主張が堂々とされているくらいで、そんなことが明らかなわけがない)、またS氏(≒境氏)の名前や連絡先も定かでないといったきわめて無責任な著作です。しかも医療の関係する本なのだから、単なる無責任では話がすみません。この本の内容を真に受けてS氏(≒境氏)のもとを訪れた読者が、ひどい医療事故にあったりしたらまずいでしょうに。そしてそうならない保証はない。
だいたいこの本を読んでも、S氏(≒境氏)の治療が具体的にどのようなものだったかということすら満足に記されていないので、これでは読者としては、話半分に読むくらいが無難だろうと思います。本多氏の書いていることが事実かどうかすら疑わしい。故意にうそをついていないとしても、S氏(≒境氏)に関して、きわめて彼に都合のいい解釈がされている可能性があります。私はそう考えています。
それで、S氏(≒境氏)の治療を受けて症状がなおった、軽快したという本多氏の話を読んでいると、本多氏の書いていることはつまりは大要①S氏(≒境氏)の治療を受けた②症状が軽快した③よってS氏(≒境氏)の治療(東洋医学?)は効果がある、という趣旨につきます。
それに対して高橋氏は、
>中国医学についての治療効果の報告をみると、そのほとんどすべては、「古典に従って治療をおこなったら、良かった」ろいう治療経験の報告である。これは、「やった、直った、効いた」(引用者注:青字は、原文傍点)という「三た論法」という名前で呼ばれる「治療効果の日常経験の直感的な評価法」によったものである。それが科学的には妥当なものと言えないことはのちに詳しく述べるとおりであるが(以下略)(漢方の認識 p.214)
>(前略)「漢方は効くわよ。だって飲んだら治ったんだもの」と反論するひとがいる。
その人の薬効判定のロジックは、「使った、治った、効いた」ということなので、私はそれを「三た論法」と呼んでいる。
「AはBである。BはCである。だからAはCである」という論法がある。これは「三段論法」といわれるもので、古くから論理学の中心に据えられてきたものである。しかし「三た論法」はいただけない。その理由を説明しよう。
(中略)
人間の体に備わっているこの”自然回復力”が、薬を飲んだときの”薬効”と同じ方向に働くため、一見しては”薬効”のようにみえるので、薬物検定をする場合には、”自然回復力によるもの”を差し引いて、残ったものがどれだけあるかを検討しないと、”真の薬効”があるかどうかはっきりしない。それが第一の問題である。
第二の問題は、精神的存在である人間に特有のものであるが、新薬を与えれば、病人の側には「高価な新薬を使ってもらえた」という期待効果となって現われ、自覚症状はみんな良くなったように回答を偏らせ、医者の側にも「高価な新薬だから効くはずだ」という期待効果となって作用して、胸の聴診でラッセルが少なく聴こえたり、肝臓の触診ではれが小さくなったように感じさせるという偏りをひき起こすのである。
第三の問題としては、同じ程度の病状の病人集団について薬効の観察をしてみても、個人差のバラツキがあって、少数例のデータを一見しただけでは、誰がみてもなるほどというような、客観性のある判断を難しくしているということがあげられる。
そして第四の問題は、悪化したり効果のみられない患者が来なくなるために、最後まで残った人だけでまとめると、必ず効いたという結論になる、というカラクリである。
これをまとめると、次のようになる。(引用者注:下の部分は、原文では四角で囲っています)
薬効検定における攪乱要素
第1要素 病人の自然回復力による偏り
第2要素 病人および医師の心理的期待効果による偏り
第3要素 病人の個体差によるバラツキ
第4要素 悪化・無効例の脱落による偏り
(引用者注:四角で囲われている部分ここまで)
この四つの要素による攪乱が、「使った、治った、効いた」という「三た論法」による薬効評価を無意味にしているのである。
(漢方薬は効かないp.159~163 文中青字の部分は原文傍点。なお段落は、一行空けし、また段落の最初の一字の下げは省略。以下同じ )
と書いています。本多氏の本に出てくるさまざまなエピソードは、つまりは高橋氏のいう「三た論法」そのものですね。
>それ(引用者注:治療)が良かったのだということの証拠として、その病人が軽快したとか全快としたとかいうことがあげられることがある。しかし、それも正しい考え方であるというわけにはいかない。病気になった人間は、治療をしなかったらぜったいに治らないというわけではないからである。それが、壊れたラジオと病気の人間との違いである。壊れたラジオは修理しないと直るということはないが、病気の人間には、病気に打ち勝ってひとりで直っていく力がある。それを生体工学の研究者たちは、生体の「自動制御のしくみ」と呼んでいる。
もちろん、生体の自然回復力には限界があって、ガンのような病気にたいしては、それはあまり強力に発揮されない。しかし、肺炎や腸チフスのような細菌の感染によって起きる病気では、白血球の食菌作用の増加と免疫抗体の産生とかいうその自然回復力のしくみが、かなりよくわかってきている。内科的治療というのは、そうした自然回復の仕組みを前提として、それを助長するものとして考えるべきものである。(漢方の認識 p.237 )
というわけです。さらに引用を続けます。
>人間がいろいろな病気になったときに発揮できる自然回復の力には、その人間がおかれている環境条件や生まれつきの個体差によって、いちじるしくバラツキが見れ荒れる。そのために、特定の個人について事前にそれを評価するということは望めそうにもない。このようなバラツキのある個体の集まりが対象であるとき、ある治療Bが病気Aの経過に有効に作用するかどうかは個々の個体を場としてではなく、集団を場として統計的解析によって評価するよりほかに方法がない。それを効率よくおこなうためには、このような臨床的治効試験に内在する三つの要件をはっきりと見きわめ、それにたいする対策を正しくおこなわなければならない(図41)。(前掲書p.237~238)
図41とは、下のような表です。本からでなく、本から私が再作成したものであることをお断りしておきます。
>まず、病気Aであると診断するための基礎となる目印(標識因子)をはっきりさえておかなければならない。中国医学の診断のように主観の強く作用する可能性のある領域では、診断の基礎となる情報の一覧表を作って、個々の所見をどのように観察したかをはっきり書き出しておくことが必要であろう。それによって、総合判断のしかたの診断者によるくい違いを、事後的に修正することができよう。もし可能であるなら、同一の病人を三名以上の診断者で診察し、お互いの所見表を比較しながら、その場で合議によって診断をきめるようにするのがよい。(前掲書p.238)
実に科学的な態度ですね。ところが本多著における本多氏、S氏(≒境氏)、解説をしている林順三氏ほか、みな主観的な判断ばかりふりかざす始末ですからね。本多氏は、あとがきでいわく
>ただしこういった説明は、いわゆる近代科学による絶対的証拠があってのことではありません。実は西洋・東洋を問わず、あらゆるクスリのなかで「なぜきくか」が薬理学的にしろ疫学的にしろ明白に解明できている例など、むしろ少ないのです(引用者注記:これほんと?)。医学とは何か、という根源にたちかえれば、要するに病気を治して健康にすることですから、結論として治ればよろしい。「手術は成功したが患者は死んだ」の伝で、いくら立派な理論や証拠があっても、治らぬのでは話にならない。「迷信としての近代科学」としての側面もあります。有名な丸山ワクチンは、ガンにきくかどうかで争われてきたようですが、「科学的」究明よりも臨床的・経験的にきくかどうかがより重要でしょう。(単行本p.261、文庫版p.252~253 文中青字の部分は原文傍点)
いやいや、治るかどうかが、自然治癒力か偽薬効果なのかそれとも治療のおかげなのかを客観的に判断できないのではだめでしょうに。だいたい本多氏がとりあげている「丸山ワクチン」は、臨床的に効果がないと判断されているから、今日にいたるまで代替医療以上の存在でないわけです。あたりまえでしょう。そもそも
>立派な理論や証拠
なくして、どうやって病気の研究や治療ができるというのか。また
>迷信としての近代科学
と本多氏は書いていますが、その意味するところが当方にはいまひとつ理解に苦しみますが、実験や臨床試験による近代科学で検証しないで、どうして「東洋医学」の将来があるというんですかね。解説を担当する林氏は、「今後の課題」として
>二重盲検法にこだわらず、まず疫学的なアプローチで個々の治療家の評価を行う、たとえば西洋医学も含め、さまざまな診療体系から経験豊富な名人といわれる治療家を集め、治療効果を判定するという方法も考えられる。(単行本p.221、文庫版p.211)
などと統計解析を拒否することを書いていますが、
>たとえば西洋医学も含め、さまざまな診療体系から経験豊富な名人といわれる治療家を集め、治療効果を判定するという方法
なんて、馬鹿も休み休み言えというレベルの話です。どの「名人といわれる治療家」をどうやって選ぶのか、いったいそんな人間が集まるのか、集まったところでどうやって治療効果を判定するのか、判定して、関係者はその結果に納得するのか。しないでしょ、悪いけど。現実性のない話をする人です。そして林氏の考える「方法」は、この単行本が出てから四半世紀たつ今日まで、まるで実現していないわけです。私の知る限りですが、していないでしょう。林氏は、本多氏によれば、京都大学理学部の物理学系を卒業されたとのことですが、失礼ながら彼は大学在学中教員がこんな話をしたら、どういう反応をしますかね。とても「うん、そうだ。それはいい方法だ」なんて考えたりはしないでしょう。どんだけデタラメなんだか(呆れ)。
そういうわけで、統計学的なアプローチを拒否する本多氏らと、統計学(推測統計学)をもとに治療効果を判定する高橋氏と、どちらが正しいアプローチなのか、議論するまでもありません。けっきょく本多氏らの主張は、テレンス・ハインズがいう
>疑似科学の特徴として、反証不可能性の他に証明責任の転嫁や検証への消極的態度を挙げている。
ということでしょう(引用は、Wikipedia「反証可能性」より)。本多氏は猛省すべきです。
なお下のサイトは面白いので、目を通していただければ幸いです。ちょうど「週刊金曜日」の問題にも触れているので、そこだけ引用してみます。本多氏の本とつながる部分があると思います。どちらがどう影響したのかはわかりませんが、たぶん双方ともに影響しあっているのでしょう。
>市民運動とニセ科学
ときとして、市民運動家がニセ科学に入れ込むことがある 典型として、「週刊金曜日」に見るいくつかの事例 「買ってはいけない」問題:あたかも成分分析にもとづく科学であるかのように装いつつ、実は否定のための否定にすぎない(論理は破綻している) 連載小説でのフリーエネルギー礼賛(フィクションではあるが、政治的意図ははっきりしている) 「ポケモン」の光過敏癲癇事件を「電磁波問題のひとつ」とした論考 結論が先にあり、イデオロギーが科学に優先している。企業は悪い、電磁波は悪い、などなど 逆に自分のイデオロギーと相性のよいものを受け入れる傾向(信じたいものを信じる)。ニューエイジ的な思想が好まれる傾向はもともとある 一方で故高木仁三郎氏の活動などを礼賛しつつ、一方ではニセ科学を信じるという問題(深く考えることを放棄?)以上でおしまいにしてもいいのですが、あと1つだけ。本多氏は、次のようなことまで書いています。
>いうまでもなく,ある種の漢方薬には副作用的なものもあるが,それは複雑な有機的人体に的確な薬を選ばなかったことによる誤用の場合がほとんどだ。つまり西洋医学でいう副作用とは次元の異なる現象とみるべきであって,決して医療の本質にかかわるものではない。そして,東洋医学には基本的に副作用がないばかりか,逆に「副産物」たるいいことがある。 (単行本p.76~77 文庫本p.73)
おいおいですよね。こんなことを書いたら完全なデマじゃないですか。そもそもこのような本だって出版されているくらいです。
だいたい解説を担当している林氏も
>副作用は少ない。(単行本p.209 文庫本p.198)
と書いていて、副作用がないとまでは主張していない。要するに本多氏が依拠するS氏(≒境氏)がそういう主張だから本多氏もそういう話を本多氏は垂れ流しているのでしょうが、あまりにひどすぎる。そして境氏がはっきりと自分の名前で
>もし病人になにか異常が起きれば、それは「副作用」ではなくて「誤用の結果」であり、Bには葛根湯がもつ発汗作用ではなくて、解肌(肌をととのえる意味)作用をもたらす薬が必要なのです。医者の失敗を「副作用」などにされてはたまりません。(単行本p.187)
>「漢方薬には副作用がない」というヘンな神話がありますね。この”安全神話”をつくったのも西洋医学の側ですよ。もともと「副作用」という概念が漢方にはないのですから。あるとすれば「誤用」であって、病態(証)に合っていれば副作用的なものなどないし、合っていなければその薬の効果が別の形で出てきます。それは漢方薬のごようですから、副作用ではない。(単行本p.190)
と書いている(本多氏が談話をまとめたもの)章(<付録1>「西洋医学」が起こした漢方薬事件(単行本p.185~190)初出は、『週刊金曜日』1996年4月26日)が、なぜか文庫本では割愛されて、境氏の違う文章になっています(たぶんこれも、境氏の話を本多氏がまとめたものでしょう)。理由についてはこれといった説明がないのですが、どうも医学関係者から「あれはまずい」という声が、本多氏が見過ごせないレベルで来たので、それで本多氏はカットした(だったら、本文中のここも切れですが)のではないかと私は考えます。薬である以上、副作用がないわけがない。副作用がないなんて主張する医学は、典型的なデマ医療です。上の境氏の主張だって、典型的な循環論法じゃないですか。そして本多氏の主張がまさに境氏の話の受け売りであることがわかります。こんなデタラメをたれ流した本多氏の罪は重い。本多氏は薬剤師でもあるのだから(千葉大学薬学部を卒業されています)、そのデタラメはなお悪い。本多氏は、
>一方S先生に対しても注文があります。その鍼灸治療の名医(引用者注:S氏は医者ではないのだから、「名医」という言い方は誤解を生みたいへんよろしくありません)ぶりには体験的に感服したものの、一般的東洋医学の中でもさらに創見を加えておられるらしいその理論は、私の西洋医学的常識が邪魔しているためか、まだよく納得するに到っておりません。ぜひともS先生ご自身でわかりやすく独自の著書をまとめ、多くの読者の前に刊行してください。それをもとにした批判・反批判をへて、さらに東洋医学が大きく発展してゆくことを期して待ちます。(単行本p.159 文庫本p.148~149)
と、本の第6章の最後(つまり本論の最後)で書いていますが、そんな本は、ついに発売されるにいたらなかったわけです(境氏はすでに故人)。どうしてその本が出版されなかったのかは当方の知るところではありませんが、本多氏自身考えの内容がよく理解できないとはっきり書いている(だったらこんな本書くなと強く思いますね)くらいで、そもそもS氏(≒境氏)という人物は、詐欺師やコピーライター、アジテーター、はったり屋、詭弁家としての才能はあっても、実質デタラメな野郎に過ぎないんじゃないんですかね。つまりは、本多氏ほからをだましたり自分の信者にすることはできても、本を出せるような識見があるわけでなく、出したら「トンデモ本」と批判されるようなレベルの人間だったのでしょう。すでに故人のようですが、所詮境氏は、本多勝一氏の紹介という形でしか、まともに世間に出られない人間だったのではないかと思います。そしてこの『はるかな東洋医学へ』もひどいトンデモ本です。本多勝一氏の著書でなければとても朝日新聞社が出版するような本ではないし、本多氏の(カンボジアの件と並ぶ)黒歴史ではないか。それで本多氏は、『週刊金曜日」で、境氏を追悼する記事をえんえん書き続けたくらいで、これではまさに、信じる者は救われないのたぐいでしょう。お話にもなりません。
なおこの記事は、下の記事で、
>まあでもなまじ世間での評価が高い人がひどいトンデモなことをほざくこともあります。本多勝一氏の東洋医学の話などもご同様。本多氏の東洋医学の与太については、また記事を書きますので乞うご期待。
と書いたものを念頭にした記事です。本多氏のように、ほかでは一定の評価がある人が、こんな与太本、デマ本、トンデモ本を出版したのでは、いろいろな人間がたいへん迷惑します。本当に困ったものです。
やっぱり半藤一利氏ってトンデモじゃんとあらためて思った