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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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大江健三郎は、60歳の前にノーベル文学賞をもらったのだなとあらためて気づいた

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何をいまさらですが、大江健三郎氏が亡くなりましたね。

ノーベル賞作家の大江健三郎さん死去、88歳 戦後文学の旗手
2023年3月13日 17時29分

 戦後文学の旗手として、反核を訴え続けたノーベル賞作家の大江健三郎(おおえ・けんざぶろう)さんが、3日午前3時過ぎ、老衰のため死去した。88歳だった。葬儀は家族で営んだ。喪主は妻ゆかりさん。後日お別れの会を開く予定。

 1935年、愛媛県大瀬村(現内子町大瀬)に生まれる。東京大学仏文科在学中の57年、東大新聞の五月祭賞を受賞した「奇妙な仕事」が評価され、文芸誌に「死者の奢(おご)り」を発表。新世代の作家として注目を集め、翌58年、戦時下の村で黒人兵を幽閉する「飼育」で芥川賞を受賞した。集団疎開した少年たちが疾病の広がる山村に閉ざされる第一長編「芽むしり仔(こ)撃ち」を同年刊行、初期の代表作となった。都市の無力な若者のアイデンティティーを問う長編「われらの時代」(59年)などを経て、61年、17歳の少年がテロリストになってゆく問題作「セヴンティーン」を発表。64年、脳に障害のある長男の誕生を描いた「個人的な体験」(新潮社文学賞)で作家として転機を迎える。苦悩を抱えて生き、無垢(むく)なものに再生される主題の作品を以降、繰り返し描いた。

 「反核・平和」の訴えは創作にとどまらなかった。60年には石原慎太郎や江藤淳らと「若い日本の会」を結成。日米安全保障条約に反対する活動に加わった。広島での取材体験を元にしたノンフィクション「ヒロシマ・ノート」を65年に、「沖縄ノート」を70年に刊行した。95年にはフランスの核実験に抗議して、同国で開催予定のシンポジウムを辞退。この件を批判した仏作家クロード・シモンとはルモンド紙上での論争に発展した。

 94年に川端康成に続いて日本人で2人目のノーベル文学賞を受賞した。故郷の四国の村から国家、宇宙へと神話的な文学世界が広がる「万延元年のフットボール」(67年)が翻訳され、評価されていた。受賞記念講演の題は「あいまいな日本の私」。文化勲章にも内定したが、「国家と結び付いた章だから」と辞退し、話題になった。

 2000年の「取り替え子(チェンジリング)」以降、自身を想起させる老作家を主人公とした長編の刊行を続けた。13年に発表した「晩年様式集(イン・レイト・スタイル)」が最後の小説となった。

 生涯、社会に関わり続け、04年に日本国憲法を守る「九条の会」を加藤周一や井上ひさしらと結成。東日本大震災以後は反原発のデモや集会にたびたび参加した。

 主な受賞歴に、67年「万延元年のフットボール」で谷崎潤一郎賞、73年「洪水はわが魂に及び」で野間文芸賞、83年「新しい人よ眼(め)ざめよ」で大佛次郎賞、94年度の朝日賞。77~84年と90~97年に芥川賞選考委員。01~07年度に朝日賞選考委員。選考をひとりで行う大江健三郎賞を05年に創設、14年の終了まで国内の気鋭の作家に光をあてた。

 朝日新聞では92~94年に文芸時評を担当したほか、コラム「定義集」「伝える言葉」を連載した。

 18~19年に「大江健三郎全小説」(全15巻)を刊行。21年には自筆原稿など資料約50点を東大に寄託し、研究拠点「大江健三郎文庫」の設立準備が進んでいた。

当方別に大江ファンではありませんが、しかしお亡くなりになったのは気の毒です。ご冥福をお祈りいたします。

ところで記事にもありますように、大江(以下敬称を略します。ほかの人も同じ)がノーベル文学賞を受賞したのは1994年でした。で、大江は1935年生まれですのでこの時が59歳だったわけです。

戦後に限っても、アルベール・カミュの43歳はさすがに別格としても、カミュと同時代の1950年代は、アーネスト・ヘミングウェイは55歳、ハルドル・ラクスネスは53歳でした。これが大江が受賞した90年代となると、大江以外は、翌年の95年に受賞したシェイマス・ヒーニーが56歳で、50代はこの2人のみです。2010年代も、50代は、莫言オルガ・トカルチュクの2人であり、そう考えると、大江はかなり若い年齢で受賞したのだなと思います。2020年代は、ルイーズ・グリュックが77歳、アブドゥルラザク・グルナが72歳、アニー・エルノーが82歳の受賞です。高齢化が進んでいる? なお村上春樹は1949年生まれであり、今後彼がノーベル文学賞を受賞したとしても、少なくとも74歳の受賞になるわけです。あまり若い年齢というわけではない。川端康成は69歳で受賞しています。

大江も、もともと老けた顔の人でしたが、50代である意味小説家の頂点に立ってしまったわけであり、それは最高の栄誉ではあっても、その後の作家人生で、その精神の張りを保つのが大変な部分もあったでしょう。おそらく大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判が提訴された背景にも、ノーベル文学賞受賞者で、戦後民主主義の権化みたいな大江を攻撃してやれという狙いがあったはず。この裁判は、大江・岩波側の勝訴で終わっています。

ところで私は、大江健三郎を一度だけ生で観たことがあります。某大書店で彼のサイン会をしていました。見てみると、丸眼鏡をかけた男性がサインをしていました。当時の私は、「アンチ大江」を気取っていまして、大江のサインをもらいませんでしたが、しかし今にしてみればもらっておけばよかったと思います。ちょっと後悔しています。なお冒頭の大江氏の写真は、こちらから。


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