個人的に興味深い記事を。
>
JAL、異例ずくめの新社長 鳥取三津子氏 東亜国内航空出身、元CA、女性、短大卒…全て初
[ 2024年1月18日 05:30 ]
日本航空(JAL)は17日、都内で定例会見を開き、第13代目の新代表取締役社長に鳥取三津子代表取締役専務執行役員(59)が4月1日付で昇格する人事を発表した。日航の社長に女性が就任するのは初。赤坂祐二代表取締役社長(62)は代表取締役会長に就く。
鳥取氏は福岡県出身。日本初の女性閣僚(厚相)として知られる中山マサ氏と縁のある長崎市の活水(かっすい)女子短大を卒業後、1985年に東亜国内航空(のちの日本エアシステム=JAS)に入社し、客室乗務員(CA)としてのキャリアをスタートさせた。1951年の日航設立以来、短大、CA、2002年に日航に経営統合された旧JAS出身者が社長に就任するのも初。日本を代表する航空会社の慣行をいくつも突き破る異例の人事となった。
新社長就任にあたって鳥取氏が強調したのは「安全運航」の重要性。鳥取氏が航空業界に足を踏み入れたのは日航機123便が群馬県の御巣鷹に墜落する事故が起こった1985年。これまで一貫して客室安全推進部長など客室内の安全とサービスを担当してきた経緯もある。この日の会見では「当時を知るものとして安全運航の大切さを継承していく強い責任感を持っています。揺るがない信念として取り組んでいきたい」と決意を口にした。
今月2日には羽田空港で海上保安庁の航空機との事故が発生。「お客さま全員を救出しようという強い使命感があったと思います。もちろん、お客さまのご協力あってのことですが、あの9人(乗員)のことを誇らしく思います」と、乗客・乗員397人が命に別条なく機外へ逃れた奇跡の脱出劇について語った。
周囲を力強く引っ張り、後輩に慕われる「あねご肌」の一面もあるという鳥取新社長。4月からグループ3万6000人の先頭に立つ。
◇鳥取 三津子(とっとり・みつこ)1964年(昭39)12月31日生まれ、福岡県出身の59歳。長崎・活水女子短大英文科卒。学生時代はバレーボール部に所属。85年東亜国内航空入社。2002年の日航との経営統合後、客室安全推進部長、執行役員客室本部長などを経て23年6月に現在の代表取締役専務執行役員、グループCCO(最高顧客責任者)に就任。女性の代表取締役就任は2人目だった。
私も、日本航空(以下「JAL」と表記)で客室乗務員出身の女性が最高幹部になったということは知っていましたが、東亜国内航空(のち日本エアシステム)出身者だとか、短期大学卒という彼女のバックグラウンドは知りませんでした。本当に優秀な人なのでしょうが、やはり彼女が社長になったというのは時代の変化でしょうね。いろいろな時代の変化によって、鳥取さんが社長になる道が開かれたのでしょう。JALが最終的に彼女のどのような部分を評価して社長にしたのかはもちろん当方の知るところではありませんが、「女性を社長にすることがOK」という時代が、彼女の社長就任の最終的な理由ではないかと思います。
というようなことを考えていたら、翌日(というのは昨日)日本共産党(以下「共産党」と表記)の党首である委員長が、志位和夫氏から田村智子さんに交代となりました。記事を。
>
共産党 志位委員長交代 新委員長に田村智子氏 起用発表
2024年1月18日 18時07分
共産党は、党大会で、志位委員長が交代し、新しい委員長に田村智子・政策委員長を起用する人事を発表しました。共産党の委員長に女性が就任するのは初めてです。
共産党の党大会は、4年ぶりに今週15日から開かれ、最終日の18日新たな執行部人事が発表されました。
それによりますと、2000年から20年以上委員長を務めてきた志位氏が交代し、新しい委員長に田村智子・政策委員長が起用されました。
共産党の委員長に女性が就任するのは、ことしで102年となる党の歴史で初めてのことになります。
田村氏は、長野県出身の58歳。国会議員の秘書などを経て、2010年の参議院選挙で初当選し、現在3期目です。
4年前には政策委員長になり、国会で「桜を見る会」の問題の追及などにあたってきました。
志位氏は議長に就任
一方、志位氏は、2006年以降、空席となっていた議長に就任したほか、小池書記局長は続投し、新しい政策委員長には39歳の山添拓参議院議員が起用されました。
また、議長などを歴任した不破氏は最高指導部の常任幹部会のメンバーから外れました。
共産党としては、女性の登用や世代交代を進め、党勢拡大につなげたいねらいもあるものとみられます。
このほか、党大会では次の衆議院選挙で議席の増加を目指すことなどを盛り込んだ決議が採択されました。
田村新委員長「若い世代の意見も生かして発展・前進を」
田村・新委員長は党大会のあと記者会見を開き、「100年を超える歴史を持つ政党なので『委員長に』という要請があった時には驚いた。本当に責任の大きい重い役職なので、日々勉強しながら挑戦し、委員長という役割を果たしていきたい」と述べました。
その上で、「歴史や伝統を受け継ぎながら共産党の成長・発展のため力を尽くしていきたい。ベテランの党員も若い世代の意見も生かしていかなければ共産党は発展・前進していかない」と強調しました。
そして、「志位議長とは経験値が全く違うので、どうしたら強く大きな党を作ることができるか相談しながら、のびのびとやっていけるのではないか。チームワークで若い新しい世代の方々とも協力しながら、頑張っていけることをうれしく楽しみにしている」と述べました。
また、ほかの野党との連携については、「できる限りの共闘に力を尽くし、自民党政治を終わらせる大運動に広げていきたい。共闘を呼びかけ続けてきたわが党の政治的躍進を勝ち取ることが1番の野党共闘再構築の力になる」と述べました。
志位前委員長「新世代にバトンタッチすにるは最適任の方」
議長に就任した志位・前委員長は、党大会のあと記者会見で、「私自身ことしでちょうど70歳になるので、新しい世代の方にバトンタッチするのがよいと思い、だいぶ前から考えていた。田村委員長は、あらゆる面で最も適任の方だということでみんなの意見が一致した」と述べました。
その上で「委員長として23年間、さまざまな面で対応してきた。新しくやってきたことも、やり残した問題もある。この23年間、頑張ってきたことに悔いはなく、今度は議長として可能な責任を果たしていきたい」と述べました。
(以下は、各政党の談話ですので、引用は省略します)
2024年1月に予定されていた党大会で、志位氏が委員長を退いて、田村さんになるのではないかという予測は、わりと以前からされていたと思いますし、だから私としては「ああ、やっぱりな」というところです。私もここ最近は、共産党に1票を投じていますので、志位さんには「お疲れさまでした」、田村さんには「がんばってください」と書いておきます。
女性の党首ということ自体は、日本でもすでに数人出ていますが、ちょうどこちらの記事が目に留まりました。
>
蓮舫氏、土井たか子氏…日本政党の女性党首はわずか 自民党はまだ誕生せず/女性政党トップメモ
[2024年1月18日18時22分]
共産党は第29回党大会最終日の18日、田村智子政策委員長(58)を新しい委員長とする人事を正式に決定した。志位和夫委員長(69)は退任し、議長に就任することも合わせて発表された。
田村氏は、同党史上初の女性トップとなる。共産党の委員長交代は志位氏が就任した2000年11月以来、約23年ぶりで、久しぶりの世代交代となる。
日本の政党で女性がトップを務めたことは過去にもある。日本で初めて政党トップとなった女性議員は、社会党(現社民党)の土井たか子氏。憲政史上初の女性党首でもあった。土井氏は1986年、第10代委員長に就任。1989年参院選では、前年に起きたリクルート事件で自民党への逆風が強まる中、自民党を参院過半数割れに追い込み、土井氏の「山が動いた」は流行語になった。
また立憲民主党の前身、民進党では2016年9月から約1年、蓮舫参院議員(56)が代表を務めた。前原誠司、玉木雄一郎両氏を代表選でやぶった。
一方、自民党では今も女性の総裁は誕生していない。
ほかに女性の政党党首というと、公明代表だった浜四津敏子もそうだし(公明党では「代表代行」)、保守党党首だった扇千景、現役では社会民主党の福島瑞穂ですかね。土井たか子が1986年に社会党の委員長になっているのだから、共産党の委員長が2024年に女性になったというのもそんなに早いわけではもちろんありませんが、ただやっぱり時代の変化で、女性の委員長就任が可能になったのでしょうね。志位氏が委員長に就任したのが2000年で、現実には彼は、議員になる以前である1990年に書記局長になっています。この時点で彼が将来委員長になることはほぼ決まっていたはずであり、これは1969年に衆議院議員に初当選した翌年の70年に書記局長に就任した不破哲三氏(今回の党大会で、中央委員として再任されず)に近いかもです。不破氏が委員長になったのは、1982年です。
たとえば現書記局長である小池晃氏から田村さんに交代するということもありだったわけですが、不破→志位のラインである書記局長→委員長というコースを、今回志位・小池体制は取りませんでした。女性の書記局長職(他党の「幹事長職」にあたる)は酷だとか適性にないと判断されたかは定かでありませんが、やはりこれも時代の変化なのでしょうね。2000年の段階では、女性であるがゆえに田村さんだろうが誰であろうが、委員長にはなれなかったでしょう。田村さんは、2010年に参議院初当選、16年に副委員長、20年に政策委員長、24年に委員長ですから能力もきわめて秀でていたのでしょうが、「副委員長」どまりでなくそれより上にいったのは、時代のゆえでしょう。
そう考えていくと、田村さんの後任の政策委員長に山添拓氏が39歳の若さで起用されたのも、あるいはですが、彼が将来の委員長という考えである可能性もありそうですね。近いうちの書記局長就任もあるかもしれない。このあたりはいろいろありそうです。
このお二人について考えていくと、JALの鳥取さんが1964年生まれ、田村さんが65年生まれで、客室乗務員といういわば長きにわたり女性の花形職業とされる仕事についた鳥取さんと、大学を卒業した後日本民主青年同盟(民青同盟)に就職した、つまりは政治活動家として人生を送る覚悟をした田村さんとではまた違いますが、でもお二人とも、まさか自分が就職した会社の社長や上部団体である政党のトップになるなんて想像もしていなかったでしょうが(というか、なろうという意志も皆無だったでしょう)、そういうことがありうるくらいには日本の社会も変わったのでしょう。それはもちろん良い変化であり、お二人には、ぜひJALと共産党をより良いものに導いてほしいと考えてこの記事を終えます。