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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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JAL123便の機長の娘さんが、インタビュー取材に応じていたこと

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昨日(8月12日)、昼食時に職場の「厚生室」のテレビで12時からのNHKのニュースを見ていたら、番組終了後に臨時の番組として1985年のJAL123便の事故について、犠牲者の遺児たちのその後と現在を特集していました。事故から30年ということで今年は特にこの事故が注目されているように思われますが、合計3家族4人の遺児(といっても、みなさん40代から50代)が登場して、最初に登場したのが、その墜落したJAL123便の機長である高濱雅己氏の娘さんである高濱洋子さんでした。日本テレビの記事を引用します。

日航機墜落30年 機長の長女はいま…

2015年8月12日 01:07

 520人が死亡した、日航ジャンボ機墜落事故の機長の娘は、実は今、日本航空の客室乗務員として働いている。事故から、12日で30年。彼女を支えていたのは、ボイスレコーダーに残されていた、父親の音声だった。

【空の安全願う…灯籠流し】
 墜落現場がある群馬県上野村で11日夜、遺族たちは、それぞれの思いを灯籠に込めた。

 事故で娘を亡くした女性「30年娘を失った悲しみは変わりません、本当」

 事故で娘2人を亡くした女性「立ち直れたなんてことは一切言えません。いつまでも引きずっていると思います」

 あれから30年がたとうとしている。


【日航機墜落事故とは】
 1985年8月12日、午後6時56分、上野村の御巣鷹の尾根にジャンボ機、日本航空123便が墜落した。死者520人。単独の航空機事故では世界最悪の事故だった。事故の原因は、客室の気圧を保つためのお椀型の壁「圧力隔壁」だった。ここに穴が空き、吹き出した空気が垂直尾翼などを破壊、制御不能になったのだ。

 123便のボイスレコーダー。そこには、コックピットで格闘する機長たちの声が残されていた。

 機長(墜落32分前)「まずい、何か爆発したぞ」

 機長(墜落6分前)「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」
 副操縦士「コントロールがいっぱいです」

 声の主は、高濱雅己機長(当時49歳)。高濱機長には、当時高校3年生の長女・洋子さんがいた-。


【長女・洋子さん、客室乗務員に】
 事故から30年を前にした先月、私たちは、洋子さんを取材した。選んだ仕事は日本航空の客室乗務員。父と同じ“空の仕事”だった。

 洋子さんには、初めてのフライトから持ち続けているものがある。

 高濱洋子さん(48)「JALの飛行機を守ってくれている、そういう思いから持っております」

 所々がすり切れた写真。それは、父がコックピットで写る唯一の写真だった。


【苦悩の日々】
 自分自身も遺族である一方、“墜落したジャンボ機の機長の娘”という立場。事故当時、洋子さんにとって苦悩の日々が続いた。

 高濱洋子さん「『519人を殺しておいて、のうのうと生きているな』とか、たくさん電話がかかってきましたので。その度に母は、見知らぬ嫌がらせの電話にもきちんと応対し、『申し訳ございません』『申し訳ございません』、ただそれだけ何回も繰り返しておりました」

 “父を探したい”、だが、昼間の遺体安置所には、多くの遺族がいた。そのため、ひと気がなくなる夜を待ってから父を探し歩いたという。しかし、事故から15年後、変化が訪れた。あのボイスレコーダーの音声が公になったのだ。


【ボイスレコーダー、公開】
 激しく揺れる機体と最後まで闘った父の記録。

 機長(墜落27分前)「気合入れろ。ストール(失速)するぞ」

 機長(墜落6分前)「がんばれ」
 副操縦士「はい」
 機長「あたま(機首)下げろ、がんばれ、がんばれ」
 副操縦士「コントロールがいっぱいです」

 機長(墜落前30秒)「パワー、パワー、フラップ!」
 機関士「上げてます!」
 機長「あげろ!」

 高濱洋子さん「父は本当に最後まであきらめず、最後の一瞬まであきらめず、頑張ったんですが、本当に無念であっただろう。最後まで父は頑張ったんだなと、誇りに思わなければいけない、そう思いました」


【遺族に響いた父の声】
 ボイスレコーダーに残された父の声。ほかの遺族たちの心にも響いたという。

 高濱洋子さん「『本当に最後まで頑張ってくれたんだね』『ありがとう』という言葉を、ご遺族から頂いた時には、本当に胸からこみ上げるものがあって…。涙が出る思いでした」「父はボイスレコーダーによって、残された私たち家族を、ボイスレコーダーの音声という形で、私たち家族を守ってくれたと感じました」

 取材中、洋子さんが機長の娘だと知る1人の乗客が話しかけてきた。洋子さんの目から涙があふれた。

 「これからもJALに乗るから、頑張って」

 そう声をかけられたという。涙が止まらなかった。

 事故から12日で30年。洋子さんにとって8月12日とは-。

 高濱洋子さん「父が残してくれたボイスレコーダーを聞き、新たに、また安全を守っていかなければという、再認識する、そういう一日かなと思います」

 以上

つまり長女の方は、今年はかなり積極的に取材を受けているということですね。上の写真は、動画をキャプチャーしたものですが、制服姿で、しかもバックにJALの飛行機が写っているというわけで、これはJALの彼女への業務命令とまで言ってはどうかですが、全面協力の取材というわけです。機内で彼女が勤務しているところも撮影されていますし。

私も彼女がJALで客室乗務員をやっているとかいう話は何かで聞いて知っていましたが、この方がこのような取材に応じるっていうのは過去あまりなかったように思います。取材を受けるのが完全に初めてということではなかったかもしれませんが、たぶん今年のような取材ラッシュとでもいえる状態は初めでではないですかね。

それにしても

>「『519人を殺しておいて、のうのうと生きているな』とか、たくさん電話がかかってきましたので。その度に母は、見知らぬ嫌がらせの電話にもきちんと応対し、『申し訳ございません』『申し訳ございません』、ただそれだけ何回も繰り返しておりました」

というのはひどいですよねえ。あの事故は、高濱機長ほかのパイロットや航空機関士(がまだいた時代でした)の責任ではないじゃないですかねえ。奥さんだって、内心はらわたが煮えくり返るのレベルだったかもしれませんし、娘さんだって今日にいたるまでその件はいろいろな意味で悔しくて仕方ないでしょう。

で、高濱機長は労働災害にあったわけで、勤務先であるJALその他からも多額の補償受けたはずですが、これは私の勝手な推測ですけど、高濱機長の娘さんが客室乗務員としてJALに採用されたというのも、たぶんJALなりの高濱家への補償の一環だったんでしょうね。おそらく、機長の娘をJALに囲い込むという意味合いもあったのでしょう。

それで、高濱機長が亡くなったのが49歳、現在の高濱洋子さんが48歳で、だいたい同じ年齢です。そういう歳月が、事故から30年という節目の年に、JALも彼女も、機長という娘でありJALの客室乗務員という立場を前面に出してテレビの前でさまざまな想いを語ることができるようになったといいうことでしょう。

上の嫌がらせ電話でもわかるように、高濱機長はじめ123便の乗員たちは、被害者でもあり、事故を起こした企業の社員であるわけで、その立場は微妙です。別の記事で彼女は、

> 「父は機長だったので、ご遺族の方に対して私たちも遺族ですということは思ってはいません」(高濱洋子さん)

と語り、また

> 事故の後、機長の責任追及の声が高まり、洋子さんら家族は人目をはばかるように父の遺体を探したといいます。犠牲者520人中491番目。見つかった遺体は5本の歯だけでした。空の仕事の大切さを熟知していた父。理由は何であれ、「事故が起きたらキャプテンの責任」だといつも話していたといいます。

とのことです(同記事)。

なんでも、深夜人がいない時間に遺体を探さざるを得なかったとか。それは仕方ないことでしょうが、しかし気の毒ですね。別に彼女ら家族が悪い話じゃないのだから。

余談ですが、聞いた方も多いでしょうけど、墜落の前高濱機長は

>これはダメかも、分からんね

と語っています(表記は、同上の記事より)。私の勝手な推測では、

>分からんね

という言葉は、つまりはもう絶対ダメだ、万が一にも助かる見込みはないと確信したものでしょう。そういう言葉を発せざるを得なかった時の高濱機長の気持ちを考えると、さすがに複雑な心境になります。

可能性は低いでしょうが、あるいは私も高濱洋子さんが客室乗務員を務めるJAL機を利用するかもしれません。そうしたら声の一つもかけられればと思います。


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