昔見た「エンテベの勝利」という映画にこんなシーンがありました。空港ロビーみたいなところに人質が集められて、それをドイツ人ハイジャッカー(ヘルムート・バーガー)が警戒します。そこにイスラエル軍が突入してきます。もはやこれまでと見たドイツ人ハイジャッカーは、機関銃で人質を撃とうとします。しかしその瞬間、前に話をした人質(セオドア・ビケルが演じていました。彼も昨年亡くなっています)と目が合い、銃口をイスラエル軍に向け、その直後に射殺されるというシーンです。
本当のエンテベ空港の事件で、このようなことがあったのかどうかは私は知りません。あるいはハイジャッカーはそんな余裕なく射殺されたのかもしれない。しかし少なくとも犯人側が、人質を殺そうとはしなかったのは確かです。人質の死者は、救出作戦中にイスラエル軍の弾に被弾した人たちと、病院に入院して救出作戦後に報復として殺害された女性です。女性の方は確かに殺されたのですが、これはやや状況が特殊でしょう。
エンテベ空港の事件については、ほかにも映画化されています(特攻サンダーボルト作戦、サンダーボルト救出作戦 )し、またドキュメントも制作されています。本も出ているようですので、私なりにこれからも勉強していきたいと思います。
それでinti-solさんもお書きになっていたペルーの日本大使館の事件も、ゲリラ側は人質を殺す時間の余裕はありました。しかしそれを彼らはしなかった。情が移ったとかあったのでしょうが、ともかく彼らはそれをしなかったわけです。
それよりもっと以前の連合赤軍のあさま山荘事件でも、連合赤軍のメンバーは、人質を殺すことはしませんでした。つまり、20世紀あたりまではこの種の事件は、政治的な目標を掲げる人たちは、人質を殺すということを前提としての行動をとることはしていなかったわけです。例外はあるとしても、基本的にはそのような態度であったと考えられます。
しかし現在は、そのような話は通用しにくくなりました。今回のバングラデシュの事件では、コーランを暗唱させてできない人間を殺した(最初「拷問」と報じられていましたが、殺すのは拷問じゃないですよね)とされます。当たり前ですが、このような行動は、周到に準備しないとできません。で、犯行グループはそれをしたうえで今回の犯行に及んだわけです。そして、犯人は、生きのびようともしていなかったらしい。治安部隊突入直前に、自分たちが殺した人質のことを話して、「自分もいずれ同じようになる」という趣旨のことを話していたとか。実際逮捕されて裁判になっても、バングラデシュですから、日本のように公安事件の死刑執行に躊躇するような甘い国ではありませんから、死刑判決を下され厳格に執行される可能性が高い。死を覚悟していれば、人質の命などなんのものでもないということになりそうです。
「確信犯」という言葉もどうかですが、昔の政治的なテロリストのたぐいは、少なくとも一般の人質を殺すということはしない、それを誇りにしている部分はあったかと思います。政府高官とか政治家、警察などの治安関係者、あるいは大企業の幹部などの財界人などは殺す価値を見いだしていたのでしょうが、一般人は殺しても価値はない、意味はないと考えていたかと思います。
しかし今回の事件などを見ても、殺すこと自体に価値を見いだし、またある程度の時間立てこもることによって世界的な注目を集めることに大きな価値を見いだしていますから、こうなるとどうしようもないですね。殺すこと自体に価値を見いだしているのなら、そうなると人質を平気で殺します。
一部の報道で、遺族が、どこに怒りを持っていっていいかわからないという趣旨のことを述べていらっしゃると報じられました。そうだと思います。別に犯人たちはこの日と自治に恨みがあったわけではない。単なる運の悪さで彼(女)らは犠牲になっただけです。いわば通り魔に襲われたのと同じです。あまりいい例ではないですが、大阪教育大学付属池田小学校の事件や、秋葉原の通り魔事件の犠牲者と同じようなものです。
たとえばオウム真理教のテロ事件なども、基本的に犯行声明のたぐいは出しませんでした。いわばポスト・モダンなテロリズムだったと思います。そういうテロがこれからの時代の主流となるのかなと思います。そうだとしたらとても怖いことです。つかまったらおしまいか、そうでなくても昔と比べて格段に危険になっている。冗談でなく、ラマダンの最中とかラマダン明けのあたりはイスラム圏に不要不急の渡航をするのはやめた方がいいし、またするのなら外国人がたむろるところは避けるとか、自分なりにできる自衛はしなければいけませんね。少なくとも脱出ルートくらいは確認しておいた方が、しないより身の安全は高まりそうです。
私も発展途上国をも旅のテリトリーとしていますので、これからもいろいろ注意して旅行をしていきたいと思います。