―『海辺のポーリーヌ』の後、あなたは普通のリセエンヌに戻られたのですか?
AL そう。とても楽しい学生生活を送ったわ。女優としての道を模索する人生とは違う、人生の楽しみに方ね。当時はTVに出演したり、メディアに顔を出す必要はなかったですから騒がれたことはない。でも、一度だけ仰天したことがあるの。当時、パリの西郊外ナンテールという町に住んでいて、パリから自宅に戻るときはいつもシャンゼリゼ通りを通っていた。ある日、シャンゼリゼ通りの全てのキオスクに『海辺のポーリーヌ』のポスターが貼られていたのよ。その衝撃といったら! 今でも瞼に焼き付いている光景だわ。
―その後、93年の『夏物語』までの10年間は何をされていましたか?
AL 高校を終えてバカレロア(大学入学資格)に受かって大学に進学したの。ロメールにとって最も大切なのは、ちゃんと教育を受けることでもある。私が絶対落ちこぼれないようにと、『海辺のポーリーヌ』は夏のヴァカンスの時期に合わせて撮影が行われたわ。ヴァカンス映画といっても、時期をずらして撮影することもできたはず。だけど、何があっても私の成績が下がらないことを優先して考えてくれた。私は大学で民俗学の学士号を習得(採録者注・「取得」のほうが妥当ですかね?)した後、演劇のクラスに通ったの。その後、小さな仕事を続けた後、『夏物語』い出演したわ。その直後、妊娠して出産したのよ。『三重スパイ』で小さな女の子が登場するけど、彼女は私の実の娘なのよ。私は30年間の間に10年の時間を置いて、3本のロメール映画に出演できた。とても幸運なことだと思っているわ。
―『海辺のポーリーヌ』のポーリーヌと『夏物語』のマルゴは、とても似たキャラクターのように感じます。
AL 時々、言われるわ。ポーリーヌの成長した姿がマルゴだって。二つの役はまったく異なるけれど、私が演じるということだけに共通点がある。二つの役には、私のクセや特徴、パーソナリティーが入っているから、確かに役も私も成長したのかもしれません。
―ブルターニュ地方やノルマンディー地方の青い海…。あなたはこれらの地方をよくご存じなのですか?
AL いいえ。私は南部の出身で、休み後にヴァカンスを過ごしたのは、ミディ・ピレネーなど南仏ばかり。ロメールのおかげで、ブルターニュやノルマンディーを知ったわ。
―ロメールはパリだけではなく、パリ郊外、フランスの地方をいきいきと取りました。なぜ「ロメール映画で巡るフランス旅行」のガイドブックが存在しないのでしょう。
AL 本当にそうね。私の友人でも、ロメールのヴァカンス映画を参考に旅をした人がいるわ。『海辺のポーリーヌ』のロケ地ジュルヴィル(Jullouville)の海岸も家も、今でも同じたたずまいで残っているのよ。あの家は海岸から歩いて数分の処にあるの。海岸には、同じ目印の看板があるから、そこを曲がれば一寸先に家があるの。あの家はロメールのアシスタントの家族の持ち家で、撮影のために貸してくれたの。
―ロメールで巡るフランス旅行といえば、『夏物語』のクレープ屋さんは見つけられませんでした。
AL それは当然よ! アパートをクレープリーに改造したのだから! でも私たち3人の女性とメルヴィル・プポーが歩いた道は残っているわ。ロメール映画にまつわる”野外での宝探しゲーム”を考案しなきゃね(笑)。
―ロメールのご家族は生前からご存知でしたか?
AL いいえ。初めてお会いしたのはお葬式の日でした。その後、オマージュがある度に、彼の息子さんや義理のお嫁さん、お孫さんや奥様にお会いする機会があったわ。数年前、ロメールの生まれ故郷コレール県チュールでメディアテークの開幕式があったの。そこでロメールの実のご家族や映画のファミリーと、時をあらたに過ごしたの。不思議なことに、彼の生前は家族と彼の映画は断絶されていたけれど、いまは結びつきが生まれている。二人の息子さんの長男ドニ・シェレールはジャーナリストで、次男ローラン・シェレールは父のように教員でもあり、ロメール作品の権利を扱うエリック・ロメール・カンパニー(CER)を引き継いだの。
―それではあなたの近況を教えてください。
AL 残念ながら演劇や映画はしていないけれど、定期的に朗読会を行っています。ずっと役者を続けたかったら、あるグループに所属しなければいけないでしょう。私は田舎に住んでいるから、隔離されているのは事実だけど、でも、これは私の選択よ。二人の子供がいて、長女は20歳、下の息子は10歳。子供を持ったのも私の選択なのよ。息子の学校では紙芝居をしたり、影絵をしたり、校内行事に積極的に携わっているの。ある日息子に「ママは何の仕事をしているの?」と聞かれて「何だと思う?」と問い返したら、「物語を語る人だよ」という言葉が返ってきたわ(笑)「物語人」、素敵な言葉でしょう?
(つづく)