三笠宮崇仁が亡くなりました。記事を。
>三笠宮崇仁さま逝去 100歳、天皇陛下の叔父
島康彦、多田晃子2016年10月27日09時32分
昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父にあたる三笠宮崇仁(みかさのみやたかひと)さまが27日午前8時34分、東京都中央区の聖路加国際病院で亡くなられた。死因は心不全。100歳だった。急性肺炎のため5月から入院していた。戦時中は旧日本軍の大本営参謀などを務め、軍紀の乱れや残虐行為への反省を促す発言をしていたことが戦後に明らかになった。オリエント史の研究者としても知られた。
(中略)
三笠宮さまは15年12月に100歳の百寿を迎えた。宮内庁によると、記録上、皇族方で100歳は初めてだった。この際、宮内庁を通じて「世界中の人々の幸せを願い、また、70年以上にもわたり私を支えてくれている妻百合子に感謝しつつ、楽しく穏やかな日々を過ごしていきたいと思います」と心境を明かした。同年10月には名誉総裁を務める中近東文化センターで百寿のお祝い会があり、三笠宮さまはケーキのろうそくの火を吹き消したという。
(中略)
戦時中は、支那派遣軍参謀、大本営陸軍参謀などを歴任。中国での日本軍の規律の乱れや残虐行為への反省を促す声を軍内部であげるなど、毅然(きぜん)とした姿勢を貫いていたことが戦後に明らかになっている。
「軍は歴史の研究が不十分だったのではないか」との思いから、戦後は西欧史、そして古代オリエント史へと歴史研究を志し、47年から3年間、東京帝国大学文学部研究生としてヘブライ史を学んだ。54年に日本オリエント学会設立に参加し会長に。75年には中近東文化センター設立に加わり総裁を務めた。東京女子大、青山学院大などの講師、東京芸術大美術学部客員教授として教壇に立った。
(中略)
また、フォークダンスや社交ダンスに親しみ、日本レクリエーション協会、日本ワックスマン財団、日本スリランカ協会の各名誉総裁を務めた。「紀元節復活反対」を主張したり、テレビの歴史教養番組に出演したりするなど話題も多かった。
(後略)
ぶつ切りの引用で恐縮ですが、三笠宮という人が、かなり特異な皇族であることは、この記事からよくご理解いただけると思います。記事にはそこまで突っ込んでは書かれていませんが、彼についてのWikipediaには、
>1950年代後半から『紀元節』の復活への動きが具体的なものになってくると、考古学者・歴史学者としての立場から、神武天皇の即位は神話であり史実ではないとして強く批判し、積極的に復活反対の論陣を張った。編著『日本のあけぼの』はこのときに刊行されたものである。このため「赤い宮様」ともてはやされた。
とあるくらいです。つまりはなかなかの人物だということです、三笠宮という人は。前に書いた、1971年に佐藤栄作に、国連で台湾が代表権を維持できるよう動いてくれと頼んだ誰かなどとは比較の対象にもなりません。
さて、上の記事で興味深いところがこちらです。
>三笠宮さまは15年12月に100歳の百寿を迎えた。宮内庁によると、記録上、皇族方で100歳は初めてだった。
つまり宮内庁自身も、神武天皇が127歳とか、そういう話は神話としてのフィクションであると認めたわけですね。そんなん本気で信じているわけもありませんが、しかしこういうことを公に認めるということは、それなりの意義があるかと思います。
さてさて、そういう社会常識とかについて平然と異議申し立てをするのが、我らが産経新聞という新聞です。記事を。
>昨年12月に明治以降の皇族では初めて100歳を迎え、ご存命の中で唯一の大正生まれの男性皇族でもあられた。
さすがに本気じゃなくて政治的建前でしょうが、お前らいまだに「神武×歳」なんてことにこだわっているのかよと私けっこう本気で呆れました。といいつつ予想通りというところもあります。何をいまさらながら狂った新聞です。
それにしても、三笠宮について上に書いたようなことは、産経としては「どうもなあ」でしょうね。皇族だから批判するわけにはいかないが、かといって上のような意見は「困ったものだ」というところでしょう。
inti-solさんは私のコメントへの返しで、
>今後は、三笠宮の生前の主張には一切言及しないことで、「存在しなかったことにする」のでしょう。
とお書きになっています。
たぶん産経からすれば、現天皇が米長邦雄をたしなめたことなども、「なかったこと」にしたいんでしょうね。どっちみち、外に女を作って遊び歩いていたような米長みたいな人物を東京都の教育委員にしたこと自体、非常識にもほどがあります。もっとも乙武洋匡も、その点では同じようなものか。
今回の記事は、上に引用したinti-solさんの記事を参考にしました。感謝を申し上げます。