8月になっていろいろ考えるんですが、私の知る限りということで話をします。
私はいまだかつて、神社の人、神社本庁にいる人のたぐいが、国家神道への反省、神社の戦争責任、戦争への反省を述べたというのを、見たことも聞いたこともありません。戦後そういった発言が全くなかったかどうかは分かりませんが、神社本庁から靖国神社のようなところ、はたまた一般の神職など、こういった人たちから上のような発言や文書を出したのを知りません。
いや、さすがに関係者の全員がそういったことを反省していない、考えてはいないとは私も思いませんよ。あれは良くなかった、現在の神社の態度はまずいと考えている人もそれなりにはいると思います。しかしその意見がまるで外に聞こえないのも事実でしょう。
たぶんですが、そのような発言をしたら神社の世界から追放もしくはそれに近い扱いをされるんじゃないんですかね。そう考えれば、神社業界がそういう態度なども理解できます。もちろん「いい」「仕方ない」と言っているのじゃありませんよ、ねんのため。
それでですよ、そういったことの反省を示さずして、神社とかが世間にまともに対峙できるのかなと考えます。できない相談じゃないですかね。
「神社本庁」とか、役人でもなんでもないのに、神社の関係者はあたかも公務員、国家機関であるかのような呼称を僭称しています。これだって「いくらなんでも」と考える内部の人たちも少なくないのかもですが、一向に改まりません。つまりは神社の関係者は、最終的には国家神道の復活をねらっているんじゃないんですかね。そうだとしたらとんでもないにも程があるというものです。
仏教界にしてもキリスト教界にしても、さすがに自分たちの戦争責任についてはそれなりに反省はしています。それらをどう評価するかはともかく、少なくとも自分たちの過去を居直ったりはしていないでしょう。しかし神社とか神道とかは、そういったことを反省するという態度がまるでないですね。ポーズとして反省するなんていう態度すらない。つまり神社の幹部たちは、国家神道も、過去の戦争も、ぜんぜん悪くないと本気で考えいるんでしょうね。個人個人の考えはともかく組織としてはそう考えているのでしょう。
あまりにひどい時代錯誤としか思えませんね。たとえばキリスト教会全体だって、過去に宣教師が帝国主義的侵略の先兵になったなんてことにはそれなりに反省しているでしょうし、さすがに現場の宣教師たちだって昔ほどは自分たちの立場や行為を居直ってはいないんじゃないんですかね。少なくとも宗教家だろうがなんだろうが、まともな人間やまともな組織なら、自分たち、自分たちの組織の過去についてそれなりの反省はするでしょう。
前に私は下のような記事を書きました。
貧困と自殺に取り組む僧侶たちそれでその記事の中で私は、
>そういう意味で言うと、神道関係の人たちは、日本の貧困問題や自殺問題にどれくらいコミットしているのかなという疑問が生じます。詳しいことは知りませんが、たぶん仏教関係者以上に動いていないでしょう。それはなぜなのか、どうすればいいのかということを神道の人たちも考えてほしいなと思います。
と指摘しました。神社の人たちは、他宗教と比べてもそのような活動をしていないんじゃないのと思います。これももちろん個々人でいろいろ違いはあるし、これについては神社自体がそういう活動をしなくていいという考えではないとしても(この件についてどうなのかは知りませんが、戦争責任とか戦争への反省は、組織として拒否しているのでしょう)、個々の神社の関係者の方々も、それは少しは考えたほうがいいんじゃないんですかね。と同時に日本の敗戦後、各植民地に作られた神社が即刻打ち壊されたということはどういうことなのかを考えていただきたいのですが、なかなか難しいと思います。いずれにせよ非常に困ったことです。神社とか神道が海外に進出するのがきわめて難しいのは、ユダヤ教などと同様の民族宗教であることや布教する側にやる気がないのが理由ですが、その時代錯誤な態度、思考、過去、日本帝国主義の象徴であることが世界的に嫌われているのも事実でしょう。
なおこの記事は、本来なら8月15日に発表したかったのですが、本日16日の発表になったことをお詫びします。