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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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アフリカ系日本人のプロスポーツ選手の先駆け(の1人)だった

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元プロ野球選手で野球解説の仕事をしていた衣笠祥雄氏がお亡くなりになりました。記事を。

>“鉄人”衣笠祥雄氏が大腸がん死去、19日まで仕事

[2018年4月24日14時27分]

 元広島の衣笠祥雄氏が23日に死去したことが分かった。

 死因は上行結腸がん(大腸がん)。71歳だった。

 2215試合連続出場の記録を持ち「鉄人」として親しまれた。87年にはプロ野球界2人目となる国民栄誉賞も受賞した。76年盗塁王、84年打点王、MVP。通算2677試合、2543安打、504本塁打、1448打点、打率2割7分。96年野球殿堂入りした。

 19日に横浜スタジアムで行われたDeNA-巨人でTBSの解説を務めたのが、公の場に姿を現した最後になった。体調を気遣い「代わりましょうか?」と関係者から打診されたものの、仕事への強い意欲を示したという。

さて衣笠氏というと、彼がアフリカ系の日本人であることはよく知られています。氏は1947年1月18日、京都府京都市で生まれていますが、父親は黒人の米軍兵士で、その後父親とは連絡が取れておらず、差別もふくめてずいぶん苦しい目にもあったようです。

それで考えるに、衣笠氏は日本におけるアフリカ系の遺伝子を持つプロスポーツ選手としては、まさに最初期の人物かなと思います。実は、彼と同学年(1946年生まれ)のジョー山中は1963年ごろにプロボクサーでデビューしていて、彼が戦後日本における最初のアフリカ系日本人のプロスポーツ選手というわけではないかもですが、しかし相当早い時期のデビューであることは間違いありません。衣笠氏は1965年に広島カープに入団しています。

つまり日本が1945年に第二次世界大戦に敗北して、占領軍として多くの米軍兵士が日本にやってきました。その中には黒人兵もいて、彼らとの間に子どもを産んだ日本人女性もいたわけです。計算すれば、1946年から、アフリカ系の子どもが産まれはじめたわけで、その中に、衣笠や山中のような人たちもいたわけです。それ以前にも、米国やラテンアメリカ、あるいはアフリカなどで数はわかりませんが、、日本人とアフリカ系の間に子どもは生まれているはずですが、しかしたぶん米軍兵士との間ほどの大量のアフリカ系の子どもの出産は、たぶん日本の歴史始まって以来でしょう。

その後日本に、あまりアフリカ系日本人のアスリートが出てきたわけでもないのですが、最近世間で注目を浴びているアスリートに、アフリカ系の人が多くなってきていることは、私が述べるまでもないでしょう。例えば、

オコエ瑠偉

ケンブリッジ飛鳥

大坂なおみ

サニブラウン

などは、日本を代表するアスリートであり、またアフリカ系日本人です。なお、オコエがナイジェリア系、ケンブリッジがジャマイカ系、大坂がハイチ系、サニブラウンがガーナ系なわけで、昔のアフリカ系の日本人は、米軍兵士が父親であるケースが多かったかと思いますが、昨今そうでない人も多いようです。もうちょっと昔のケースですと、大和田正春をノックアウトしたことで知られるプロボクサーにも、大和田正春がいまして、彼は1961年生まれで父親が在日米軍兵士です。沢木耕太郎がルポを書いたので有名なカシアス内藤も父親が米軍兵士で、朝鮮戦争で戦死しているとのこと。内藤は1949年生まれ、父親が戦死したのが1951年です。

それで、スポーツライターの生島淳が指摘しているように、黒人ばかりでなく昨今の日本スポーツ界に外国人の遺伝子を持つ日本国籍のアスリートが活躍しているようになっているのは、日本の国際化が進んでいることの表れだと思われます。生島氏の記事を引用します。なお記事中の「ベイカー」とは、柔道のベイカー茉秋のことです。彼は、父親が米国人です。

> ケンブリッジが生まれたのは1993年、ベイカーが誕生したのは1994年だ。彼らに限らず、1990年代に生まれた選手たちの背景を探っていくと、両親のうちどちらかが、バブル経済の繁栄に沸く日本にやって来てパートナーと出会い、子どもをもうけたケースが多い。

 法務省の在留外国人統計(旧登録外国人統計)を見てみると、1980年代後半から在留外国人の数が大きく増えており、その視点から考えるならば、バブル経済の残滓がハーフの選手たちの活躍につながっているのである。

 (略)

 この流れが今後も加速していくだろうと予測されるのは、法務省が発表した統計によれば、1995年から2015年末までの20年間に、在留外国人の数は136万人から223万人へと、およそ6割の増加が見られるからだ。特に1990年代末からの増勢が目立っており、21世紀に入ってから日本で家庭を持ったとするならば、その子どもたちはいま中学生にあたる。すでに各種競技のジュニアレベルではハーフの選手の活躍が顕著であり、シニアレベルに登場してくる日は近い。

1998年にサッカーのワールドカップで優勝した地元チームのフランス代表が、さまざまな国の移民出身者が集まっているというのが話題になりましたが、日本も規模はまだ大きくないですが、そういった方向に進んでいるのは確かでしょう。そう考えると、在日中国人やコリアン以外であまり外国の系統を受け継いでいなかった時代から、アフリカ系という日本ではマイナーな立場で20年以上にわたってプレーし続けた衣笠という人は、まさに時代を先どる立場に、文字通り期せずしてあったわけです。いまとは比較にならないくらい厳しい差別や侮辱などに耐えながら、彼は国民栄誉賞を受賞する立場にまでなりました。その苦労たるや、他人が想像しにくいものでしょうが、たぶん氏は、日本でもっとも有名で、そして父親のことが語られないアフリカ系日本人だったのかもですね。少なくとも現役時代は、彼はきわめて知名度が高かったと思いますが、しかし父親のことは公然とは語られにくかったし、語られる際は時に差別のニュアンスがあったわけです。

それにしても亡くなる4日前までテレビ中継で解説の仕事ができたのはご当人にとってもよかったですね。当然これが最後の仕事という覚悟だったのでしょう。

いずれにせよ1人の偉大なアスリートが亡くなりました。ご冥福をお祈りします。


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