すいません。今日は、きわめて安易な記事です。
野球選手・監督・野球評論家の川上哲治氏が亡くなったのは、今年の10月28日です。
で、とつぜん今年亡くなった私の父の話を始めて申し訳ございません。父は私とちがって野球が好きで、しかも巨人ファンでした(ただし川上さんのファンというわけではなかったみたいです)。それで、もちろん川上氏は私の父よりずっと年上ですが、川上氏の死を知った時、私は「ああ、川上さん長生きだったんだな」と思いました。93歳とのことですから、根本的にとても身体が壮健な方だったのでしょう。
ずいぶん以前「報道特集」で土井正三氏の特集をしていて(2009年3月29日放送)、川上氏に取材がされていましたが、氏は姿を見せず音声だけの取材でした。で、それからまもなくの土井氏の葬式で車椅子姿の川上氏が姿を見せて、Wikipediaによるとこれが最後の公での姿だったとのこと(2009年9月29日)。車椅子姿の自分を見せたくなかったのかは分かりませんが、ともかくしばらく公の場に顔を出すことなくお亡くなりになったわけです。
私は野球に詳しくないし、彼が監督をしていたのもはるか昔の話で私が直接見知っているわけがなく、あくまで歴史の人という印象でしたが、たまたま読ませていただいた、川上氏のご長男が川上氏のお別れ会で述べられたという謝辞が印象に残りました。もちろん(超)有名人である川上氏と無名(といいつつ、実は地域では父はわりと有名な人ではありました)の父とを比較しても仕方ないのですが、親を失ったばかりという点では、川上氏のご長男と私とでは、立場にさほどの違いはありません。その共通点の故に、私の印象にご長男の謝辞が残ったのでしょう。
というわけで本日は、川上哲治氏のご長男である川上貴光氏の謝辞を紹介させていただきます。ご長男はプロのライターだそうで、確かに素人ではこれだけのものは書けないと思いました。
プロ野球巨人のV9監督として知られる、10月28日に93歳で死去した川上哲治氏のお別れの会が2日、東京都内のホテルで行われた。長男の貴光(よしてる)氏(67)が謝辞を述べた。
謝辞 川上貴光(よしてる)
みなさま、本日はご多用の中、父・哲治のお別れの会にご参集たまわり、まことにありがとう御座います。王貞治さまには、ご丁重なるご弔辞をいただき、まことにありがとう御座いました。
去る10月28日、朝の10時に入院先の病院から「できるだけ早く来て下さい」と連絡があって、すぐに病室に駆けつけると、父は酸素マスクを付けて、荒い息をしながらベッドに横たわっておりました。前日には、見舞いに来た私の娘の顔を見て、笑顔を見せるほどでしたが、その夕方から血圧が下がるなど、様子が急に変化したそうでございます。
そして夕方の4時58分。私たち家族に囲まれながら、静かに息を引き取りました。近くにいたのに、息が止まったことに、すぐ気付かないほど、静かで穏やかな、本当に眠るような最期でございました。
父は生前、冗談とも本音とも言えない、こんなことを私たちに話しておりました。「オレは死ぬときは、坐禅を組んで、飯も食わん、水も飲まんで、木が枯れていくように死んで見せるからな。ようみておけ」
どこで見たのか聞いたのか、それが1番苦しまない、かっこいい死に方だ、と思っていたようです。しかし、最後の数カ月は、思考力も、意志の力も弱って、かなわぬことでございました。
それどころか、亡くなる少し前まで、食欲は旺盛で、出前のうなぎを食べたり、「すき焼きを作ってきてくれ」と言われて持っていくと、ぺろりと平らげたり、皆さまご存じの食いしん坊ぶりを発揮して、看護婦さんたちを驚かすほどでございました。
「テツ、メシば食わるっうちは、絶対死なんバイ」
父は、いかなる時も、自分の母のこの教えを信じ、固く守っておりました。どんなに連敗が続いたときも、風邪で熱があるときも、手術で入院したときも、食べ続けました。「病気は食べて治す」が父の口癖でした。しかし、亡くなる10日ほど前から、飲み込む力が衰えて、ついに口から食べることができなくなったのでございます。
長男として生まれた私は、60年あまり、いつも父を近くに見て暮らしてきました。生まれたときにはすでに野球人で、私が小学校の6年のときに現役を引退、その後、コーチ、監督として懸命に生きる姿を見て育ちました。
仕事柄、華やかなスポットライトを浴びることもありましたが、反面、批判、中傷の嵐に晒されるときも何度となくありました。肥後もっこすの頑固者。口下手、言葉足らずで、誤解されることも多い父でしたが、言い訳や、反論が大嫌いでした。そのため、逆風の高波を家族がかぶることもしばしばでございました。
しかし、父は実に運に恵まれた人でした。
「これだけの努力を、人は運といい」と、運で片付けられることが不満だった父に叱られそうですが、どこか天から守られていたような強い運気を持っていたように思います。
小さなころから家が貧乏で、高校時代に下宿先で苦労し、「阿蘇の火口に飛び込んで死んでやる」と阿蘇山に向かったら、様子が変だと父親に通報が行って、すんでのところで助かるということがありました。
戦時中、飛行場にいたところを敵機来襲の爆撃に遇い、カンが働いたのか、それまで非難していたところから部下数十人を引き連れて別の場所に移動しました。その数秒後に、元いたところが直撃弾でやられて、全員が命拾いをしたということがありました。
やはり軍人時代、軍服姿で自転車に乗っているとき、今度は艦載機に銃撃されました。この時はとっさに田んぼのあぜ道に飛び込んで助かったそうでございます。
その後も、早期の胃がんが定期検査で見つかって、事なきを得たり、4年前、自宅で脳梗塞に襲われたときも、運ばれた医療センターの当直が脳外科の先生で、瞬時に処置していただくという幸運があって、全く後遺症も残りませんでした。
亡くなってから、発売された雑誌の追悼文の中に、「あまり知られていないが、川上は家庭を大事にした人だった」という記事がありました。監督時代、キャンプ地から、選手の奥さんに、また独身の選手には親御さん宛てに手紙を書く。「何々君は毎日頑張っています。寂しいでしょうが、しっかり留守を守って応援していて下さい」
そんなエピソードが紹介されていました。実際、家庭人としての父は、優しい父親でした。武骨で口下手。「愛してる」「好きだよ」なんて言葉は死んでも口にできない。しかし、私たち家族は、いつも大きく包み込まれるような父の愛情を感じて育ちました。
私は生意気な息子でしたが、殴られたことは一度もありませんでした。ただ一度、母の心を傷つける言葉を吐いた私に、猛烈に怒ったことがありました。母を泣かせてしまったのです。いきなり私を素っ裸にして、家の雨戸を開けると、横かがえに持ち上げるや、庭に放り出したのです。外は一面の雪で、何十センチも降り積もっていました。そしてぴしゃりと雨戸が閉められたのです。小学生だった私は、泣き叫んで雨戸をドンドンたたきましたが、開けてくれません。
その15分間のお仕置きについて、父は後にどこかでこんな風に話していました。
「いやあ、あのときは、雪がこれくらいの深さなら、放り出してもケガはせんだろう。それくらいの計算はありましたよ、ワッハッハ」
烈火のごとく怒ったように見えたのに、うーん、敵もさるもの、案外冷静だったんだ、と思ったのを覚えています。キャンプに出る前にお灸を据えておけば、留守中2カ月は安心だ。そう考えていたに違いありません。後に監督になって、選手たちにもこんな計算した叱り方をしたのかなあ、だから連覇もできたのだろうか、などと考えてみたこともございます。
私たち家族の大きな危機は、昭和39年、12月のころでした。36年に監督になった父は、幸運にもその年初の日本一に輝きます。しかし、翌年は4位、その翌年に再び日本一になるものの、次の39年は3位に沈みました。父の口下手、説明不足に起因する、一部選手やコーチとの摩擦やトラブルが表面化し、連日のようにマスコミからたたかれました。批判記事が載らない日がないほどの大騒ぎになったのです。
家族はもろにその波をかぶりました。まだ学生だった私や妹はそれほどでなくても、母が耐えきれずに倒れたのです。激しい下痢が何日も止まらず、どんどん痩せていく。はじめはガンが疑われましたが、潰瘍性大腸炎という診断でした。
先生から「ストレスからくるので、やっかいな病気です。完治は難しい」と聞かされました。難病指定のこの病気に、当時は特効薬がありません。
父は毎日夕方になると病院に行き、朝まで病室の簡易ベッドに泊まり込むようになりました。しかし、病状はいっこうに良くならない。父は私や妹に話しませんでしたが、母はもうこのまま家に戻ってくることはないだろうと思っていたようです。
ところが、母は敬愛していたある先生から、諄々と諭されたことをきっかけに、奇跡的な回復をみせたのです。病室まで足を運んでくださって、その先生はおっしゃいました。
「あなたは、死ぬんじゃないかと自分の心配ばかりしている。マスコミにたたかれて、あなた以上に苦しんでいるのはご主人の方じゃないですか。自分がどんなに心配をかけているか、そこに気が付けば必ず病気は治ります」
快方に向かい、一時帰宅を許されて自宅に戻った母に、父が言いました。
「このまま監督を続ければ、いつかお前を殺してしまう。いつ監督を辞めてもいい、正直に言ってくれんか」
父の言葉を遮るように母が言いました。
「あなたから野球を取ったら何が残るんですか。私はもう大丈夫です。思う存分、野球をやってください」
安心してキャンプに出かけていった父から、1通の電報が届きます。
何十年もあとに、私が母から見せてもらった電文にはこう書いてありました。
「過ぎた20年昨日のごとし。雨あり風あり晴天あり。変わらぬ誠に感謝す。今日あり、明日あり、苦楽あり。喜びに満ちて、生きて行こう。 テツ」
その日、2月4日は父たちの結婚記念日でした。
そして、その年から9連覇が始まったのです。
父はこの3月の誕生日までは元気でしたが、春先に転倒して入院し、それからは日一日と目に見えて弱っていきました。しかし入院の5カ月間、父は自分の望んでいた通りの日々を過ごすことができたのではないかと思っております。
「災難にあう時節は災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛さんの言葉がございます。今の自分の状況をありのままに受け入れる。じたばたしないで、病気の時は病人になりきり、不自由なつらい思いもやり過ごす。もうだめとなったら、最後は静かに死を受け入れて、大自然に戻っていく。そんな姿を私たちに見せてくれたような気がいたします。
今日はお別れの会、別れの場でございます。しかしこれまで父がご縁をいただいた、たくさんの方々が一同にお集まりくださった今日の日は、出会いの場であるとも言えるのではないでしょうか。父をしのんで、昔話をしてくださり、そしてそれがまた新しい人と人との出会いになるなら、人の心のつながり、家庭の和、チームの結束を大切にしていた、父の本望ではなかろうかと思う次第でございます。皆さま方には、今日はどうぞ笑顔でお帰りいただきたいと存じます。
これまで、父を支えてくださった野球関係の皆さま方、ゴルフや釣りなどの遊びにお付き合いいただき、たくさんのご迷惑をおかけしたであろう皆々さま、そして終生変わらぬ温かい声援をいただいたファンの皆さま方、本当にありがとうございました。
最後に、今日のこの場をご用意下さった読売巨人軍のご厚意、弔辞をいただいた王貞治様、OBの皆さま方、そして東京ドームの関係者の皆さまに心からの感謝を申し上げ、お礼のごあいさつとさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。
[2013年12月2日17時19分]