6月下旬に何回か沖縄戦関係の記事を書いていますが、今回はこちらの本に注目したいと思います。
沖縄戦当時、沖縄県の官選知事(最後の官選知事でした)は、島田叡でした。内務官僚だった島田は、当時は大阪府の内政部長でしたが、前任の泉守紀が東京に出張として滞在していて、新沖縄県知事としての打診を1945年1月10日に受けました。沖縄に米軍が上陸することは確実と考えられていたので、沖縄に知事として赴任することは非常に危険でしたが、彼はこれを受託、沖縄に飛びます。
島田は、当時悪化していた沖縄県と軍の関係の改善に努めます。4月に米軍が上陸した後壕を転々としますが、たぶん6月末ごろに沖縄のどこかで死亡します。死体も未発見ですので、死因他も不明です。この時は、警察部長だった荒井退造も一緒だったと思われます。彼は、夜学で苦学して高等試験に受かっているので、知事の島田より1年年上でした。
世間では、泉を「死ぬのがこわくて逃げた」と厳しく批判し、島田は「それに対して」と高い評価です。そのような評価になるのは仕方ないところでしょうが、ただ泉に対するそのような評価については問題も多いと指摘する本もあります。それが上の本です。
読んでいないので(これから読む予定)、この本、およびその記述に対する私の感想は現段階書けませんが、彼のWikipedia によれば
>野里洋は、転出工作は事実だが、泉なりに県民の生活や生命を守る職責には取り組んでおり、転任実現も本人の希望が容れられたというより、軍との協力円滑化のための措置であったとの仮説を、著書の『汚名』で提示している。野里は、古井喜実(内務次官)ら元内務省関係者などからの聞き取りを行い、「逃亡行為は懲戒免職に値する行為で、他県の知事に任命されるようなことはありえない」旨の証言を得ている。そして、泉と第三十二軍司令部の不仲は内務省や大本営でも把握されており、本土決戦に向けた体制作りの観点から、軍に協力的な知事との更迭が図られた可能性が高いとする。野里は、対立継続の場合には軍が戒厳令を発するおそれがあり、内務省にとっては行政権を確保し続けるためという省益に関わる面もあったと指摘する。転任のタイミングが沖縄戦直前だったことについては、野里の調査によると、すでに知事更迭の方針は早くから内定していたものの、後任が決まらずにずれ込んでいただけであるという。
とのこと(注釈の番号は削除)。
上のような評価が「泉に甘すぎる」「事実と違う」かどうかは当方判断できませんが、多分に島田への高評価というのは、泉の低評価と表裏一体なわけです。コインの裏表というものでしょう。島田は県(行政)と軍の関係を改善しましたが、それが果たして住民保護にどれくらいつながったかということも考えた方がいいかもしれません。いや、そういうことを言うのなら、住民疎開などにもあまり積極的でなかったという泉流の態度が住民保護につながったかというとそうでもなさそうですが、つまりは泉という人は、軍隊に対しても物を言う人間だったわけです。それに対して島田は、少なくとも泉ほど軍に敵対的な人間ではなかった。いわば使い勝手のいい知事だったわけで、そのあたり島田はどう考えていたのかなと思います。島田がそのようなことを認識していなかったとは思えないし、またそれを「仕方ない」「彼はやるべきことはやった」といって免責するには、沖縄戦ではあまりに多数の住民が死んでしまったわけです。前に記事にした林博史氏の見解も、そういうことでしょう。
この本で沖縄戦を勉強したい上の本を読むことでそのような疑問について何らかの示唆が得られるか定かでありませんが、やはりいろいろな観点から沖縄戦についても学んでいきたいと考えます。沖縄はまさに戦争中捨て石の存在でしたが、その捨て石の場所に本土から一種の植民地総督のような位置付けでもあった沖縄県知事に就任した2人の内務官僚について勉強していくことにより、まさに捨て石の中の捨て石だった第32軍についてもより深く理解したいと思います。