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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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若い芸能人の訃報を知って、ある演歌歌手を思い出した(村上幸子)

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先日こんな記事を目にしました。

>2020-12-05 09:36 
金城茉奈さん、病気のため死去 享年25歳 『リュウソウジャー』龍井うい役で出演

 女優の金城茉奈さんが1日、病気のため亡くなったことがわかった。享年25歳。5日、金城さんのツイッターを通じて、所属事務所のGrickが発表した。

 Grickは、金城さんのツイッターを通じ「弊社所属の女優 金城茉奈が12月1日、病気のため享年25歳で永眠されましたこと、ご冥福をお祈りするとともに、謹んでお知らせ申し上げます」と発表。「昨年よりお休みをいただき、復帰のために治療を頑張っていましたが、叶わぬこととなってしまいました。今まで金城茉奈を応援してくださったみなさま、支えてくださった方々に心よりお礼申し上げます。本当にありがとうございました」と伝えた。

 最後は「不器用だけど頑張り屋、何事にもまっすぐ取り組む金城茉奈。これからも、夢に向かっていた彼女の笑顔を忘れないでいただけたらと思います」と結んでいる。

 沖縄出身の金城さんは、167センチの身長を生かして2016年4月から女性ファッション誌『non-no』専属モデルとして活躍。透明感たっぷりのルックスでファッションショーや「2代目 マイナビウエディングガール」も務めてきた。2019年にテレビ朝日系で放送されたスーパー戦隊『騎士竜戦隊リュウソウジャー』にはリュウソウジャーたちを支える龍井うい役で出演していた。

病名は公表されていないようですが、がんのようですね。大変気の毒です。ご冥福をお祈りいたします。

今の時代、20代で病死となると、その多くは白血病などをふくむがんでしょう。昨年25歳で早逝したプロゴルファーの大山亜由美もがんでした(こちらの記事参照)。

それで私が思い出したのが、もう30年も前に亡くなった演歌歌手のことです。村上幸子という人で、1958年に生まれ、1990年に悪性リンパ腫で亡くなりました。31歳でした。

ちなみに1958年生まれの女性歌手というと、たとえば石川さゆり(早生まれ)、岩崎宏美八神純子(早生まれ)といった人たちがいます。また「花の中三トリオ」は彼女と同級生ですが、山口百恵は1959年の早生まれです。森昌子桜田淳子は1958年生まれです。海外の歌手では、ケイト・ブッシュマドンナなどが同い年です。また彼女は、ホリプロに所属していたので、石川とか百恵、森昌子らとは同じ事務所でした。百恵とは、たぶん同時期には在籍していなかったかな?

村上は、新潟県出身、高校を卒業して上京、1979年に歌手デビュー、80年代半ばくらいから注目されます。そしてWikipediaから引用すれば、

>1988年にリリースされた「不如帰(ほととぎす)」を自らの勝負曲と位置づけたが、歌詞中の「泣いて血を吐く ほととぎす」という表現が、当時昭和天皇が重体だったことから「時期的にも適切な表現とは言えない」として放送自粛になった

という状況でした。ここからさらに飛躍しようとしていた1989年に体調を崩し悪性リンパ腫と診断されます。予後が悪いものだったようで、90年7月23日に亡くなりました。

彼女も、もちろん駆け出しのころはアルバイトに励んだりずいぶん苦労もしたのですが、亡くなるまでコンスタントにレコードも出せたので、歌手としてはかなり恵まれた人だったと思います。ここで、彼女の故郷である新潟県の県紙である新潟日報の記事をご紹介します。今年の記事です。写真も、記事より。

>村上幸子の心打つ歌声 聴き継いで
村上出身 没後30年、36曲入りアルバム

 1990年に31歳で亡くなった新潟県村上市出身の演歌歌手村上幸子の36曲入り2枚組アルバム「永遠の村上幸子~時代を超えて咲いた花~」が8月下旬にリリースされた。没後30年、今なお新たなファンが増え続けていることから企画が進んだという。発売元の日本クラウンは「ファンの声を聞きながら選曲したら収録曲がどんどん増えていった。保存版として聴き継いでほしい」としている。

 村上は79年デビュー。88年に「不如帰(ほととぎす)」で30万枚を超えるヒットを記録し、NHK紅白歌合戦出場が有力視されたが、同年昭和天皇の体調が悪化。歌詞の「泣いて血を吐くほととぎす」が「不適切」として曲の放送が自粛され紅白出場はかなわなかった。90年7月、悪性リンパ腫のため亡くなった。

 現在もユーチューブなどで村上の歌唱動画が多く上げられ、昨年末にはネットニュースで没後にファンを増やしていることなどが取り上げられた。現役時代を知らないファンと話し、アルバム制作を働き掛けたという、村上の音楽担当プロデューサーを務めていた小野芳文(68)は「押しつけがましくない歌唱が、何度も聴きたくなる彼女の歌の魅力。インパクト重視の今の演歌と違い、しみじみと人の心に響き、ファンが増えているのだと思う」と語る。

 2枚組アルバムの1枚は「酒場すずめ」などシングルカットされた代表曲18曲を収録。もう1枚の18曲は、ファンの要望を反映した。「宵待草」など村上の歌唱が歌のイメージに合っていると選ばれたカバー曲や、歌謡曲調で歌いやすいとファンから人気が高い「人生に四季があるなら」など、隠れた名曲が並ぶ。

 ファン歴4年という「村上幸子と生きる会」の武中秋一代表(74)=新潟市=は、「彼女の澄んだ歌声にほれた。このアルバムにより、確実に村上幸子を歌い継いでもらえる。若い人に聴いてほしい」と喜んだ。4800円。

2020/09/28 13:00

ここで正直に告白しますと、私は演歌なんてまず全く聞かない人間です。というわけで、村上幸子という人は知っていましたし、若くしてお亡くなりになったことも知っていましたが、その歌を聞いたことはありませんでした。耳に入ったことはありますが、聞いたことはほとんど記憶にない。が、昨年来彼女のことがいろいろネットで記事にされていることであらためて彼女に注目したわけです。

ところで新潟日報の記事にある 

>昨年末にはネットニュースで没後にファンを増やしていることなどが取り上げられた。

というのは、たぶんこちらの記事のことです。

31歳で夭逝した美しき天才歌手・村上幸子をご存知か

昨年(2019年)の12月6日発表の記事であり、だいたい去年の今頃の発表のわけです。私も、昨年中に読んだのか今年になって読んだのかは定かでないですが、この記事を読みまして、けっこう驚きました。つまり、2019年で講談社のサイトが、彼女を大きく紹介する記事を出したということにです。ただこの記事を読む以前に、次の記事は読んでいました。

>29年前急逝した演歌歌手ファンクラブの笹山さん(阿南)、ネットで全国のファンや遺族と交流
2019/10/27 

 29年前に31歳の若さで急逝した新潟出身の演歌歌手、村上幸子のファンの輪が今も全国に広がっている。2015年に発足した四国のファンクラブ「四幸会」の中心メンバー、笹山隆義さん(63)=阿南市新野町、会社員=も、近年になって彼女に引き付けられた一人。知る人ぞ知る歌手のファンが増える背景には、インターネット時代がもたらした中高年層の新たなコミュニケーションの形があるようだ。

 「SNS(会員制交流サイト)やユーチューブ(動画投稿サイト)を誰もが使える時代だからこそ、魅力を知ることができた」。笹山さんはファンになった理由をそう語る。

 12年、ネット上で著名人の墓参りができるサイトで偶然、村上幸子の名前を見つけた。「昔、彼女の『酒場すずめ』を聴いたことがあったなあ」。そう思ってサイトにコメントを書き込んだことが、熱心なファンと交流する始まりとなった。

 抜群の歌唱力と実直な人柄、そしてスターへの階段を駆け上がる直前に無念の死を遂げた悲運の人生。幸子を知れば知るほど、引き込まれていった。

 14年1月には、幸子の故郷に立つ遺影碑に手を合わせようと、新潟県村上市を車で訪ねた。その後、幸子の母鈴木一子さん(84)とも親睦を深め、毎年1、2回は村上市に足を運ぶ。一子さんに阿南のタケノコを送ったり、米を送ってもらったり。孫を新潟に連れて行ったこともある。

 「最近はさっちゃんの曲を歌う歌手の近江綾を一緒に応援している。全国のファンを自宅に迎え入れて昔話をしてくれる一子さんの温かい人柄も、さっちゃんが愛される理由でしょう」と話す。

 幸子は他界後も根強い人気があった一方、昔ながらの後援会は高齢化が進み、次第に会員も少なくなっていた。再びファンの裾野が広がったのは16年、笹山さんと親しい東京のファンの一人が、幸子のホームページ「愛をありがとう」を開設したのがきっかけだった。過去の軌跡を詳しく紹介し、サイトには月に1万件を超えるメッセージが寄せられた。

 時期を前後して15年、東京のファンクラブ「東幸会」が発足。一方、笹山さんも四国在住者や出身者の仲間10人余りと「四幸会」を立ち上げた。SNSの普及によって新しいネットワークが生まれ、この頃から7月の幸子の命日には全国ののファンが新潟に集うようになる。

 「四幸会」では年3、4回、愛媛県八幡浜市で懇親会を開き、福岡や岐阜からも会員が駆け付ける。9月21日にも13回目の会を催し、居酒屋で幸子談議に花を咲かせ、カラオケで幸子の曲を歌い合った。

 「会費も会則もなく、職業も住んでいる場所も違う人たちが幸子を好きになって皆で集まる。それが何とも言えず楽しいんです」と笹山さん。

 一昔前なら、全国の不特定多数の人たちが幸子の歌を聴き、情報を共有するのは難しかった。しかし今、ネットが人と人をつなげ、亡き歌手をしのぶファンたちの交流を深めている。それは現代を生きるシニア世代が趣味で集う、一つのモデルケースかもしれない。 

 村上幸子 本名鈴木幸子。1958年10月21日、新潟県荒川町(現村上市)生まれ。79年、「雪の越後を後にして」でデビューし、84年の「酒場すずめ」で人気を得る。88年、「不如帰(ほととぎす)」がヒットし、年末の紅白歌合戦の初出場も視野に入れたが、歌詞に「泣いて血を吐く」という言葉があり、当時重体だった昭和天皇の病状から「適切な表現ではない」との理由で放送自粛の憂き目に遭う。90年7月23日、悪性リンパ腫でスターの座を目前にしながら死去。

この記事を読んだとき私は、亡くなって30年近く(当時)たつのに、村上幸子はやはり忘れられないところがあったのだなということです。ただ

>ネット上で著名人の墓参りができるサイトで偶然、村上幸子の名前を見つけた。

>ネットが人と人をつなげ、亡き歌手をしのぶファンたちの交流を深めている。そ

というのを読むと、まさにネットで彼女は息を吹き返したということになるのだなと思います。1990年に亡くなった彼女は、インターネットとは無縁の生涯を送ったわけで、ほんと、彼女が亡くなってから長い年月が経ったのだと思います。

それでは彼女の写真をご紹介。時系列というわけでなく、順不同なのは乞うご容赦。写真の大きさも、そのままです。

以上アルバムやシングルのジャケットからの写真をご紹介しました。一部のジャケットは、演歌というよりなんとなくシンガーソングライターのような印象もありますね。しかしだんだんに着物姿でジャケットにうつることが多くなり、仕事も着物が増えてきます。

これは1986年の写真です。

村上幸子は容姿にも恵まれていたので、たぶんですがもう少し活動していたら紅白も出場できたのでしょうね。今頃もしかしたら演歌の大御所みたいな立場になっていたのかもです。それにしても彼女、「美人薄命」とはこのことだという感がありますね。下の写真は、亡くなる年の正月に地元で撮影したとのことで、これが彼女の最後のフォトセッションだったようです。

うーん、彼女美人ですね。最初この記事を「美女探求」のカテゴリーにしていたのですが、やはりそれでは彼女に悪いと思ったので、「音楽関係(CD、コンサート、歌手、楽器その他)」にしました。

そういうわけで彼女の曲をYouTubeから何曲かご紹介。

引用した記事に「歌いやすい」と書かれている曲です。

村上幸子 人生に四季があるなら

正直方言が入るのは、ややあざとい気がしないでもありません。

村上幸子 新潟弁入り 酒場すずめ

記事でも紹介されている「不如帰」です。

「不如帰」 村上幸子(1989 OA)

彼女の遺作となった「京の川」です。

村上幸子 京の川(動画)

最後に彼女のラストメッセージとなったというラジオ番組「走れ!歌謡曲」で流された彼女の音声です。亡くなる3か月前のものです。彼女はこの番組でDJ(1986~89)をしていました。その「走れ!歌謡曲」も来年3月で打ち切りです。

村上幸子の最後の音声

ほかにもいろいろ動画もありますので、興味のある方はご鑑賞ください。それでは新潟日報の記事にあったアルバムを最後にAmazonにリンクさせてご紹介。私も購入します。

永遠の村上幸子 ~時代を超えて咲いた花~

彼女がご存命だったら、あるいは私は彼女を追っかけていたかもです。村上幸子さんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。もしかしたらまた、彼女について記事を書くこともあるかもしれません。また村上幸子さんのファンサイトはこちらです。興味のある方はぜひご覧になってください。かなり充実しています。


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