今日は地震とかいろいろ書きたいネタがありますが、こちらから。
>野村克也さん “大阪球場”へ帰ってきた 愛用の品々が「南海ホークスメモリアルギャラリー」に展示
[ 2021年2月14日 14:20 ]
昨年2月11日に84歳で亡くなった野村克也氏の偉業をしのぶ「おかえり!ノムさん 大阪球場(なんばパークス)に。」の記念イベントが14日、大阪ミナミの商業施設「なんばパークス」(大阪市浪速区)で開かれ、リニューアルされた「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、野村氏の写真、愛用したキャッチャーミット、三冠王記念盾などが初めて展示された。
南海時代に野村氏とバッテリーを組んだ野球解説者・江本孟紀氏(73)らが発起人となり実現。「やっとノムさんに(ギャラリーに)入ってもらい、ホッとした」と江本氏。式典冒頭には、江本氏が投手、野村氏の孫で、楽天・野村克則捕手育成コーチ(47)の長男・忠克さん(19)が捕手役を務めて始球式を披露した。孫の忠克さんは日大野球部の外野手。大阪球場のホームベース跡に作られたレプリカのベースの後ろに座り、江本氏の投球をキャッチ。「普段は優しいおじいさん。ホームベース付近で祖父を感じられた気がします」と感無量の面持ち。「祖父を超えられる選手になれるよう努力して頑張ります」と語り、江本氏は「すぐ超えられると思う。あんまりたいした成績やない」と冗談エールで笑いを誘った。
クラウドファンディング(20年11月11日~21年1月11日)で2388人から集まった支援金4351万1500円を活用して同ギャラリーをリニューアル。外壁の写真も野村氏が優勝時に胴上げされたものなどに変わり、館内には野村氏の展示コーナーを新設。往年の名選手のパネル、映像、南海ホークスの歴史年表も一新された。
野村氏は1954年から77年まで、南海ホークス(現ソフトバンク)の捕手、選手兼任監督として活躍した。本塁打王9回などタイトルを獲得。65年には戦後初、パリーグ初の三冠王に輝いた。77年シーズン終了直前に監督を解任。当時の騒動を理由に、大阪球場跡地に建てられた「なんばパークス」内の記念ギャラリーに自身の写真だけでなく、名前の記載さえも拒んだ。江本氏は近年、野村氏に翻意を促し、亡くなる前には軟化していたそうだ。
息子の克則コーチのコメントを孫の忠克さんが代読。克則コーチは阪神在籍時に記念ギャラリーを訪れたが「写真も記録もなく、残念な思いをした」そうで、「江本さんから提案があり、ぜひとお願いしました」と経緯を語った。
いろんな意見はあるかもですが、いや、こんなことを嫌がる人間は、野村の奥さん以外にあまりいないかもですが、ともかくよかったですね。私は以前このような記事を書きました。
野村克也も、けっきょく南海との和解はなく亡くなった(追記あり)その記事で私は、
>私としては、上のメモリアルギャラリーに、野村の名前を出すくらいのことはOKにしてもよかったのではないかと考えますが、ご当人いろいろあってそうはいかなかったのでしょう。それは仕方ないですが、あとは野村の息子次第ですかね。すぐというわけにはいかないかもですが、ほとぼりが冷めたあたりで少しは考えなおしてくれればです。彼自身は、別に南海への悪意はないでしょうから、それもできない相談ではないと思います。
と書きました。それで私としては、数年のタイムラグのあとに、野村の名前が出てくれればと考えていました。しかし
野村克也の記念品が、南海ホークスの本拠地だった大阪球場跡地にあるメモリアルギャラリーに展示されることになり良かったと思うの記事にも書いたように、その年の11月に野村の名前が出ることが決定、昨日(2021年2月14日)お披露目があったわけです。
お披露目での野村克則のあいさつ(代読)にもあるように、江本孟紀の尽力があったし、また克則自身
>写真も記録もなく、残念な思いをした
>江本さんから提案があり、ぜひとお願いしました
というのが事実であれば、やはり克則も「なんとかしなければ」という想いはあったのでしょうね。母親はもちろん、父親存命時でも、現実問題としては野村の名前をメモリアルギャラリーに出すのは難しかったかと思いますが、江本も「ここぞ」というタイミングで声をかけてくれたので、実現したということでしょう。江本にも敬意を表したいと思います。
それにしてもねえ(苦笑)、野村の奥さんが南海について怒ったというのを私も理解しないではないですが(そういった話の詳細は、拙記事およびその記事にリンクしたWikipediaなどの記述をご参照ください。また
野村沙知代という人も、劇薬のような一種の天才だったと思うもよろしければお読みになってください)、あの件は、少なくとも南海(電鉄、球団複数の意味合いです)側が一方的に悪く、野村夫婦が一方的に被害者というものでもないでしょう。野村の最初の奥さんは、南海の幹部の娘だったわけで、また野村の奥さんがいろいろ専横なことをして関係各方面に迷惑をかけたことも確かでしょう。いや、後に明らかになった経歴詐称や脱税とかでなく、南海ホークス関係だけでのはなしです。
それで野村克也は、奥さんの脱税ですら可能な限り奥さんを公の場でかばいました。それかばっちゃまずいでしょと私は思うし、実際それは「ひいきの引き倒し」でしかありませんが、たぶんですが野村は、彼自身の持っていたであろう発達障害もあって(こちらの記事を参照してください)異常に奥さんに依存していました。たぶんいまさら奥さんを怒るとか別居するということもできなかったのでしょうが、そういう意味ではあのカップルは、双方にとっても最高の相方だったのでしょうね。たぶん大抵の人間なら、奥さんに愛想が尽きて家から追い出すなりなんなりしたでしょうが(経歴を詐称していたのですから、離婚の際にも裁判で有利になるでしょう)、野村はそんなことすら奥さんをかばったわけです。こんな最高の夫、野村の奥さんにとっているわけがない(笑)。ある意味彼女は、最高の宝くじに当たったようなものでしょう。だってそんなめちゃくちゃなことをしていても、最終的に野村克也はすべて彼女を許したのだから。こんな都合のいい話あるわけがない。
そうなると、たとえば野村が楽天球団の監督を退いて、現役の指導者としては一応の終止符を打った時点とかで、自分の名前をギャラリーに出すことをOKするというのも1つのタイミングだったのでしょうが、奥さんは許さないしね。いや、そんなこと奥さんはともかく野村はある時点からはそんなにこだわっていなかったのではないかと思いますが(たぶんですが、息子が早急に江本の話に応じたのは、野村のそのような態度をある程度感じていたのではないですかね。上の記事によれば晩年は、江本の話に耳を貸していたようだし。他人にそうなのなら、身内にはもっとそうでしょう)、やはり野村としては、奥さんの考えをその死後も無視はできなかったのでしょう。そういう父親の様子は、やはり野村克則にしても見るに見かねるところもあったのではないか。
ご当人の死後という形ではありますが、これにて旧南海ホークスをはじめとする「南海」と野村家(そうです、野村「家」です)の間では和解が成立したということになるのでしょう。南海と野村の関係というのは、他人が見ていてあまり気持ちのいいものではなかったので、これは私のような関係ない善意の第三者からしても大変良い結末だったと思います。こんど関西方面に行く際は、ここに寄ってみたいと思います。読者の皆様も、ご興味がありましたら是非どうぞ。