先日報道された件を。
>【日本カメラ休刊のお知らせ】
「日本カメラ」は、この2021年5月号をもって休刊いたします。
1948年10月の「アマチュア写真叢書」、1950年3月に「日本カメラ」と改題して創刊以来、長きにわたり、ご愛読いただきました皆様に、心より、お詫びと御礼を申し上げます。
創刊当初より、多くの写真家、アマチュア写真愛好家にご愛読いただき、カメラの最新情報、第一線で活躍する写真家の作品紹介とともに、写真コンテスト等を実施してきました。
カメラの魅力と写真撮影の楽しさを多くの方に伝えたいとの思いから、これまで力を尽くしてまいりましたが、雑誌媒体の出版を継続することが困難となり、通巻964号となる今号をもって、残念ながら休刊することになりました。
73年間、「日本カメラ」を愛読してくださったみなさま、本当にありがとうございました。
【日本カメラよりお知らせとお詫び】
■フォトコンテストへご応募いただいている皆様へ
休刊に伴い、日本カメラ月例フォトコンテストも、5月号掲載発表分をもって終了いたしました。年度の途中でこのようなご報告をしなくてはならないことは、編集部にとっても申し訳ない気持ちでいっぱいです。なにとぞご理解いただけましたら幸いです。
6月号、7月号掲載発表分としてご応募いただいた作品、今年度、2020年度の入賞・予選通過でお預かりしている返却希望の作品につきましては、順次返却させていただきます。また、6月号入賞者の賞金は5月末日までにお支払いいたします。
■定期購読をご契約の読者の皆様へ
お支払いいただいた購読料のうち、未発送相当額を返金させていただきます。返金方法などに関しましては、4月末日までに郵送にてご連絡いたしまして、5月末日までに順次お支払いいたします。富士山マガジンサービス経由でご購読の方には、メールにて詳細をご連絡いたします。
ご連絡が届くまで今しばらくお待ちくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
報道もご紹介。
>株式会社日本カメラ社は4月15日、月刊誌「日本カメラ」の休刊を発表した。4月20日発売の2021年5月号(通巻964号)が最終号となる。同社は4月30日もって解散する。
同誌は1948年10月の「アマチュア写真叢書」を1950年3月に「日本カメラ」と改題して創刊。カメラの最新情報、写真家の作品紹介、写真コンテストなどを実施してきた。休刊の理由は、雑誌媒体の出版を継続することが困難になったためと説明している。
なお、同社出版物の注文・出荷は、4月14日受付分をもって終了しているという。
「日本カメラ」が、休刊(廃刊)は仕方ないとして、会社の清算というのもねえ。実際「日本カメラ」を継続できなければ、この雑誌を発刊しているのが会社の命ですから、会社も継続できないのは理も当然であり、どうしようもないとはこのことです。「日本カメラ」のWikipediaから引用すれば
>『カメラ毎日』(1954年-1985年)休刊後は、『アサヒカメラ』とともに、カメラ雑誌の二巨頭として君臨し続けてきた。その『アサヒカメラ』も2020年6月19日発売の同年7月号をもって休刊し、日本カメラは唯一のカメラ雑誌となった。
ということであり、昨年「アサヒカメラ」がアウトになった時点でこうなるのは、まあ時間の問題だったのでしょうね。ていうか、私も昨年「アサヒカメラ」休刊の際に記事を書いています。
老舗カメラ雑誌の休刊とオリンパスのカメラ事業の撤退から、いかにカメラ(写真)業界がよろしくないかわかるというものだで、「アサヒカメラ」がだめなら、発行元が比較の対象にならないくらい小規模な「日本カメラ」(どうでもいい話ですが、私ずっと「にほんかめら」と呼んでいましたが、「にっぽんかめら」ですね)が存続が厳しいのは、まったくもって容易に予想がつくというものであり、「やっぱりな」ですね。たぶんそんなことは、多くの人間が予想していたようなものでしかないでしょう。
それで私が書きたいことは、上の記事で書き尽くしている感があるので、同じようなことを再度書く気もしませんが、けっきょくデジタルカメラがネット社会ときわめて親和的であり、デジタルカメラが、その進化形として携帯電話に装備され、それがスマートフォンの目玉となって写真・カメラというものがきわめて大衆化、一般化した時点で、いわゆる3大カメラ雑誌からカメラ雑誌ニ巨頭となった両誌は、すでに存在価値も存在意義もなくなっていたでしょう。上の記事で、拙ブログの常連コメンテイターであるブラウさんが、
>>カメラというものがすでに「高級」とかそういう意味合いのある商品ではなくなった
ご意見に同意するとともに、私が個人的に考えるところでは、カメラと同時にそもそも写真そのものの価値も著しく下落したということがあると思います。
デジタルカメラの出現とそのテクノロジーの進歩によって、撮り手の一定の知識と技術と経験に支えられていた「撮影の一回性」という写真本来の命ともいえるものがほとんど消失したということです。
銀塩の時代にコンパクトカメラやレンズ付きフィルムが広く出回って、何の撮影知識もない人でも手軽に写真が撮れるようになったことは、写真の大衆化に寄与したとは思います。
しかしその延長線上で導入されたデジタルテクノロジーによって「写真」はいつの間にか「画像」と呼ばれるようになり、撮影後の画像の補正・加工すらお手軽にできるソフトウェアまで登場します。
スマホの出現に至っては超高解像度の撮像素子と極めて明るいレンズが搭載され、そのうえかつての職業カメラマンのモータードライブすら超える連写速度で撮影することすらできる。
どうかすると、動画データからお好みのタイミングと構図で画像を切り出すことすら可能です。ここまでくると「写真撮影」という行為ですらありません。
撮影というものの奥深さを知る一部の昭和世代の遠吠えにすぎないと言われればそれまでですが、もはやかつて写真がまとっていたある種の神秘性のごときものは完全にはぎ取られ、単なる「状況の記録データ」と化しているわけです。これも時代か、と溜息をつくばかりですね。
とコメントをお書きになっているのが、まさにすべての本質をとらえているように思えます。正直な話、デジタルカメラ時代であっても、2014年~15年に北京・天津紀行で使用した古いコンパクトデジタルカメラ(コンデジ)より、iPhoneでもすでに旧式であるiPhone8(2017年購入)で撮影した写真のようが、ずっときれいに撮影できています。もちろんそれは、私の技術向上のためでなく、道具の進歩のためでしかありません。そのような時代では、カメラや写真の魔力がどんどん消え失せていったのも当然のことではあります。
そうこう考えると、まさにこの時は来るべくしてきたし、またタイトルにも書いたように
>カメラと写真が、根本的に次の時代に入った
ということなのでしょう。
最後に、「日本カメラ」のスタッフの皆様、読者の皆様、関係者の皆様お疲れ様でした。私は「アサヒカメラ」派だったので、「日本カメラ」は購入した記憶がないので申し訳ありませんが、特に最後の数年はそうとうな苦労があったはずです。本当に、お疲れ様でした。またブラウさん、貴コメントを勝手に全文引用させていただき申し訳ございませんでした。ご容赦いただければ有り難く感謝いたしますが、問題があればご連絡いただければ幸いです。