あんまり野球に詳しくないし興味もないので、明日から開催される今年の日本シリーズも特にテレビなどでも観る予定はないのですが、催行される球場についてちょっと興味を持ちました。ヤクルト球団が東京ドームで、オリックス球団が京セラ大阪ドームとほっともっとフィールド神戸で行われるとのことですね。まずはこちらから。
> ヤクルトは27日、「SMBC日本シリーズ2021」に出場した場合、ホームゲームとなる11月23日の第3戦からの3試合を東京ドームで開催すると発表した。
アマチュア野球の明治神宮大会と日程が重なるため、本拠地の神宮球場を使用できない。明治神宮大会は11月20日から25日(雨天順延)まで開催される予定。
こちらも。
>オリックス・バファローズがSMBC日本シリーズ2021に出場した場合、ホームゲームとなる第1戦、第2戦は京セラドーム大阪で、第6戦、第7戦はほっともっとフィールド神戸での開催となります。
つまり5戦目までに決着がつけば開催されませんが、ほっともっとフィールド神戸での開催がありうるわけです。神宮球場は学生野球を優先、京セラドーム大阪はすでにイベントが入っているというわけで、それ自体は仕方ないことではありますが、本来の本拠地とは違う球場の開催ということになりました。
かつてといっても1979年と80年ですからとっくの以前の話ですが、広島カープと近鉄バッファローズの日本シリーズが開催された際、近鉄側の本拠地である日本生命球場(日生球場)は、オールスターゲームや日本シリーズを開催できるだけの要件が満たされず(収容人員30,000人以下)、開催が不可であり、南海ホークスの本拠地である大阪スタヂアム(大阪球場)での開催を余儀なくされました。いくらなんだって、プロ野球球団の本拠地がそういったゲームの開催すらできない仕様というのはひどい話ですが、当時はまだそんな時代だったわけです。そしてその大阪球場も、
>この空間確保と狭い敷地に極力多くの客席を設けるという2つの目的によって、スタンドを急傾斜に設計したことから「すり鉢球場」と言われた。内野スタンドの傾斜は37度にも達し、打球音が銃撃音にも似た独特の反響を残すことは選手の間でも知られていた。
このグラウンドの狭さから、当たり損ねの打球が外野フェンスを越えて本塁打になってしまうなど、投手泣かせの球場であった。西鉄ライオンズOBの中西太は本球場でバットを折りながらも打球を外野スタンドへ入れたと言われ、杉浦忠、皆川睦雄ら南海黄金時代のエース級投手の絶妙な制球力はグラウンドの狭さによって培われたとの説もある。
というわけであり、大阪球場はまさに繁華街のど真ん中にある最高の立地ではありましたが、やはりプロがプレーする球場としてはよろしくないところがありました。ぼろっちい球場の代名詞といっても過言でない川崎球場はというと、
>この間も川崎球場の老朽化は著しく進行し続けた。開場以来一度も交換されていない機器まであったほどで、かつて放送席にあったボールカウント表示用のスイッチは川崎球場開場年の1952年(昭和27年)製造のものだった。スポーツライターの鉄矢多美子は1977年(昭和52年)から1987年(昭和62年)までロッテ球団で広報担当を務めていた傍ら、ウグイス嬢も兼任していたが、球場関係者から「壊れたら替える部品がないので、丁寧に扱ってください」と注意されていたという。
川崎球場のロッカールームは通気性の悪さから湿気が多い上、スタンドの座席は狭隘で座りにくく、トイレは男女共用の汲み取り式便所であり、鍵が壊れていることも常態化していた。当時主力だった有藤通世は「ロッカールームが湿気でジメジメしていて、バットやグラブ、スパイクを置いたまま1週間遠征に出るとカビが生えた。バットは一晩置いておくだけで20 g重くなった」と証言している。スタンドが低かったため、ファウルボールが一塁側場外に出ると選手用駐車場のロッテ選手の自家用車を直撃することもしばしばあった。
川崎球場は映画やテレビドラマのロケーション撮影でもしばしば使われた。刑務所のトイレのシーンの撮影がスタンド下のトイレで行われた。刑事ドラマの撮影にも使われ、犯人が追っ手を逃れ、古ぼけた野球場のスコアボード棟に逃げ込むシーンの撮影だったが、ドラマの監督は撮影場所を選んだ理由について「都内近辺でこんなオンボロのスコアボードがあるのは川崎しかない」と話していたという。1982年(昭和57年)に製作された映画『化石の荒野』(東映・角川映画)では球場のスタンドやフィールドがロケ地として登場している。
川崎球場の不入りぶりはマスメディアで何度も話のネタにされ、当時は成績も低迷していたことから、朝日新聞1983年10月12日付記事でロッテのフロントの無気力ぶりが批判されたり、週刊ベースボールの読者投稿欄「ボールパーク共和国」で川崎時代のロッテの弱さや不人気ぶりを揶揄するネタ、当時のロッテ球団フロントに対する批判投稿が頻繁に掲載された。
立地条件からフィールドの水はけも悪く、降雨の翌日になっても水が引かないため、雨天ではないのにもかかわらず「グラウンド状態不良」を理由に試合を中止せざるを得ないことも多々あったため、シーズン終盤になると川崎でのロッテ戦が数多く組まれるのが常態化していた。1984年(昭和59年)は秋季の日米野球開催に合わせてロッカールームとスタンド外周部の照明の改修をしたが、日米野球は雨天で中止となった。来日メンバーにオリオールズの新人だったカル・リプケンJr.や後にロッテの2軍監督などを務めたレン・サカタもいた。川崎で日米野球の日程が組まれたのはこの年の一回だけであった。
著しく老朽化し、かつ川崎市も施設改善する構想すらしていなかった川崎球場では、これ以上の誘客が望めないとして、ロッテは1980年代以降、千葉県千葉市の千葉県野球場や栃木県宇都宮市の宇都宮清原球場など、首都圏の他都市への本拠地移転を検討したことがある。しかし施設面や交通の便、および行政側の影響などでいずれも頓挫した。これとは別に、1984年(昭和59年)に稲尾を監督に招聘する際、将来的に本拠地を当時福岡県福岡市にあった平和台野球場へ移転させる計画があるという話を球団側が持ち掛けたこともあった。
とまでWikipediaに書かれる始末です(注釈は削除)。さすがにこれらの球場は、日生球場は、1984年から藤井寺球場にナイター設備が完備したので近鉄球団の多くの主催試合が藤井寺にシフト、1996年までに日本生命が97年での球場閉鎖を発表、そのようになりました。大阪球場は88年いっぱいで南海電鉄がダイエーに球団を売却、90年まででプロ野球の興行も行われなくなり、住宅展示場などにもなったりしましたが(私は野球を観たことはありませんが、この時期に大阪球場に行ってみたことがあります)、1998年に閉場、解体となりました。川崎球場は1991年いっぱいでロッテ球団が去り、2000年3月31日にて閉場、解体されアメリカンフットボールを中心とする競技場になっています。
日生球場と大阪球場が1950年竣工、川崎球場も1952年の竣工で、この時代は日本も貧しく、建築技術も不十分であり、建築資材すらよろしくなく、また自治体(川崎市)や親会社(日本生命、大阪球場は南海電鉄以外に数社出資)も、なかなか本格的な改修をするにいたりませんでした。よって球場も、狭いし選手たちのロッカーもひどいものだし、観客席もぼろっちいにもほどがある(大阪球場には、こんなエピソードもあるくらいです。こちらの記事参照)といったかんじで、半世紀弱でどの球場も閉場に追い込まれたのはなるべくしてなったというものでしょう。どっちみち球場を本格的に存続させるためには建て替えをする必要がありましたし、それもなされなかったわけです。なにしろ近鉄バッファローズの某外国人選手は、日生球場や藤井寺球場のロッカーほかのひどさに気を悪くして(住居として提供されたマンションもよろしくなかったとか)、早々の帰国をしたという話もあるくらいです。
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1970年代ならまだしも、これ1984年のことであって、さすがに当時の日本の経済力にそぐわない状況だったといわれても仕方ないと思います。また大阪球場は、関西国際空港開港にともなう難波地区の再開発もあり、どっちみち取り壊しは時間の問題でした。
ところで野球場でなく大相撲の蔵前国技館は、1954年竣工の84年閉館で30年間の開館でした。上でとりあげた3球場とほぼ同時期に竣工したこちらもやはり、あまり資材ほかがよろしくないところが、早めの閉館の理由だったのかと思われます。
これらの不十分な球場の閉鎖以降も、阪急西宮スタジアム(西宮球場)が2002年閉場、前出の藤井寺球場が2005年閉場、広島市民球場 (初代)が2010年閉場で、ほかにも平和台野球場なども閉場、新しい球場が作られ、またナゴヤ球場も1996年までで中日ドラゴンズ一軍の本拠地としての役割を終え、以後二軍のグラウンドとして照明塔の撤去など改修が行われています。個人的には、かつてのナゴヤ球場のあの独特のやぼったい雰囲気けっこう好きだったんですけどね。
今年の日本シリーズの球場変更は、日本シリーズの開催が例年より遅かったことによる問題ですのでいかんともしがたいのですが、あるいはですが、79年と80年の日本シリーズで近鉄が負けた理由の1つが、慣れない大阪球場でのプレーだったという話もありますので、それが決定的な要因になる可能性はあります。もっともそういうことを言えば、1978年の日本シリーズでヤクルトスワローズは、当時最強だった阪急ブレーブスに、後楽園球場をホームとした試合で勝っています。
>第7戦、ヤクルトの大杉勝男のレフトポール際への本塁打の判定を巡って監督の上田が1時間19分の猛抗議をするも判定は覆らず。
というので知られるシリーズでした。なおプロ野球の球場についてはずいぶん以前に
追憶のスタジアムという書評記事を書いておりますので、ご興味があればお読みになってください。もう12年も前に書いた記事です。著者の佐野正幸氏も、すでに亡くなっています。佐野氏の本については、川崎球場が球場史上もっとも盛り上がった日についての書籍についても記事を書いています。いまからすると、どちらの書評記事も、きわめて生意気で非常に恥ずかしいところもある記事ではありますが、しかし私の本音が書かれてもいます。佐野氏への追悼記事もリンクしておきます。
1988年10月19日の川崎球場はすごかった あるスポーツライターの死を追悼する