あ、すみません。本日は本来なら、日曜日ですので旅行記事を発表する日なのですが、このブログは北朝鮮・拉致問題を大きなテーマとしているので、旅行の記事はいつでも発表できますので、拉致被害者家族会の前代表である飯塚繁雄氏がお亡くなりになった件の記事を書きます。
上にも書きましたように、拉致被害者家族会の前代表である飯塚繁雄氏がお亡くなりになりました。記事を。
>拉致被害者の家族会前代表 飯塚繁雄さん死去 83歳
2021年12月18日 8時30分
幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致された田口八重子さんの兄で拉致被害者の家族会代表として14年にわたって救出活動の先頭に立ってきた飯塚繁雄さんが18日未明、入院先の病院で亡くなりました。
83歳でした。
飯塚繁雄さんは、昭和53年に1歳と2歳の幼い子どもを残したまま北朝鮮に拉致された田口八重子さんの兄で、八重子さんの行方が分からなくなって以降、2人の子どものうち当時1歳だった耕一郎さんを引き取って育ててきました。
北朝鮮が、八重子さんを含む日本人の拉致を認めた平成14年の日朝首脳会談の後、拉致被害者の家族会の活動に加わり、当時の代表、横田滋さんを支えながら政府への訴えのほか、被害者の救出を求める署名や講演を続けてきました。
14年前からは、横田さんに代わって家族会の代表に就任し、埼玉県内の機械メーカーの工場で働きながら、救出活動の先頭に立ってきました。
平成21年には、北朝鮮当局の指示で八重子さんが日本語の教育係をさせられた大韓航空機爆破事件の実行犯キム・ヒョンヒ(金賢姫)元工作員との面会が実現し、耕一郎さんとともに韓国を訪れ、当時の状況について詳しい話を聞きました。
また、平成29年と令和元年には来日したアメリカのトランプ前大統領と面会し、被害者の帰国に向けた協力を呼びかけました。
持ち歩いている手帳に八重子さんの写真を挟み、子どもたちのもとに母親を取り戻してやりたいという信念で活動を続けてきましたが、この3年は病を抱えながらの活動となり、11月中旬、体調を崩して入院したのを機に家族会の代表を退いていました。
拉致問題がこう着状態にある一方、被害者家族の高齢化が進むことに危機感を募らせていた飯塚さんは、代表として最後の出席となった11月の集会で「絶対にあきらめるわけにはいかない。解決に向けた日程表を作り、それに対する答えを出してほしい」と、政府に具体的な取り組みを求めていました。
飯塚さんは、その後も入院先の埼玉県内の病院で治療を受けていましたが、18日未明、亡くなりました。
“拉致”と“爆破事件”のはざまで
北朝鮮による拉致と航空機爆破事件。
飯塚さんは、この2つの事件に人生を大きく翻弄されてきました。
“アルバム” に込めた思い
22歳だった八重子さんが幼い子どもを残したまま突然、消息を絶った昭和53年。
飯塚さんは自動車メーカーの技術者でした。
3人の小学生の子どもがいましたが、当時1歳だった八重子さんの長男、耕一郎さんを引き取って実の子として育てることを決めます。
本当の親子ではないことを悟られないよう、アルバムを作り、飯塚家の子どもとして耕一郎さんの名を記しました。
家計のやりくりは楽ではなかったということですが、家族としての思い出を残してやりたいと、時間を作っては旅行に出かけました。
航空機爆破事件で葛藤
八重子さんの失踪から13年後の平成3年。飯塚さんは、妹が北朝鮮にいることを思わぬ形で知ることになります。
115人が犠牲になった大韓航空機爆破事件。実行犯として韓国当局に逮捕された北朝鮮のキム・ヒョンヒ(金賢姫)元工作員の供述から、八重子さんが拉致され、李恩恵(リ・ウネ)という名で元工作員の日本語教育係をさせられていたことが明らかになったのです。
拉致の被害者なのに、八重子さんが爆破事件に加担したように見られることに心を痛め、中学生になっていた耕一郎さんに真実を伝えることはできませんでした。
打ち明けた真実
耕一郎さんが自分の生い立ちを知ったのは、それから7年後の平成10年。
21歳の時にパスポートを作ろうと取り寄せた戸籍謄本に「養子」と記されていたのです。
飯塚さんは自宅近くのすし店に耕一郎さんを誘い、そこで全てを打ち明けました。
それでも、耕一郎さんが拉致問題の渦中に巻き込まれないよう、前年に結成されていた拉致被害者の家族会に加わりませんでした。
平成14年の日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認め「八重子さんは死亡した」と説明したのをきっかけに、公の場に出て事実を追及しようと決断。
「子どもたちのもとに母親を取り戻してやりたい」。その覚悟だけが飯塚さんの救出活動の支えでした。
田口八重子さんの長男 飯塚耕一郎さん「再会がかなわず無念」
田口八重子さんの長男で、母親が拉致されたあと飯塚さんに育てられた飯塚耕一郎さん(44)がコメントを出しました。このなかで耕一郎さんは「生前、父が本当に全国の多くの方々にお世話になり大変感謝しております。改めて息子である私からも御礼申し上げます」としています。
そのうえで「ただ、田口八重子さんとの再会がかなわなかったことが無念であり、非情な結果となってしまった形です。2002年に父、飯塚繁雄が妹を救う活動を公の場で開始して以降の長い年月がすぎてしまいました。もう少しなにかできなかったものかと悔悟し、今後、私個人として、この悲しみ、怒りをどうすべきかとも考えております」とコメントしています。葬儀は家族葬で行い、別途、お別れの会などを開く予定だということです。
以下は、横田の奥さんやめぐみさんの弟さんらの談話ですので、引用は省略します。
最近代表が、飯塚氏から横田拓也氏に交代したので、あるいは体調が悪いのかなとも思っていたのですが、もちろんこんなに早くお亡くなりになるとは思っていませんでした。ご冥福をお祈りいたします。
私も飯塚氏の著書を読んだことがあります。
2004年に発売された本とのことで、いつ頃読んだかは定かでないのですが、たぶん発売後そんなに時間がたっていない時期だという記憶があります。写真を見ていると、飯塚氏、田口八重子さん、飯塚氏の甥であり田口さんの息子さんである飯塚耕一郎氏はみな美男美女であり、たぶんそういう家系なのだろうなと思いました。
飯塚氏は、田口さんとは年齢も17歳違いとのことで、兄ではあっても保護者的な意味合いもあったかと思います。そして田口さんが行方不明になった際に、1人残された耕一郎氏をひきとり、そして正式に養子として育てたわけです。なおもう1人耕一郎氏の姉に当たる人がいますが、彼女は飯塚氏の妹さんが引き取りました。ですから、姉弟の関係は、対外的には、いとこの関係だったということになります。お姉さんと飯塚氏の妹さんは、あえて前面に出ず、飯塚氏と耕一郎さんがそちらの方面は担当するということなのでしょう。
それで昨年から今年にかけて、有本恵子さんの母親の有本嘉代子さんがお亡くなりになり、横田めぐみさんの父親の横田滋氏が亡くなりました。そして飯塚氏のわけです。家族会の初代(横田氏)と2代目の代表がお亡くなりになったことになります。
これいろんな意見はあるのでしょうが、お孫さん(と曾孫さん)の所在が確認されている横田さんと、田口さんの消息が定かでない飯塚氏らとではまた立場が違うので、こちらも滅多なことは言いにくいのですが、けっきょく横田氏といい飯塚氏といい、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(略称「救う会」。拙表記では、「巣食う会」)に、言うべきことを言えない人だったなとしか言いようがないですね。
横田氏は、1回だけお孫さんと会いましたが、それきりでした。つまりは奥さんと息子さんたち(双子の弟さん)が、お孫さんたちと会うことにいい顔をしなかったということだったのでしょうが、それに対して「いや、自分はどうしても孫に会いたいのだ」といって面会を強行するというタイプではありませんでした。日本政府だって「会いたい」といえば「会うな」とも言わないでしょうが、どういう過程で会えるようになったかはともかく、つまりは奥さんを説得したのか奥さんが「会いたい」といったのかは不明ですが、自分の口から積極的に「会いたい」と訴える人でなかった。横田滋さんが代表になった理由の1つは、彼が巣食う会にものをいう人間でなかったからでしょう。現在でも家族会は独自のHPすらなく、家族会と合同のHPとなっています。巣食う会からすれば、ものをいう人間はお呼びでない。その結末が、蓮池透氏を家族会から追い出したなんともお話にもならない顛末です。そしてこれに、家族たちがなんら抵抗しなかったので、それ以降巣食う会と家族会の関係は、巣食う会側のヘゲモニーが完全に確立したわけです。それからの家族会は、巣食う会側にまともなことも言えない始末です。
ところでちょうどこのような首相の発言がありましたね。
>飯塚さん死去に「申し訳ない」
首相、拉致問題の解決に決意
2021/12/18 17:36 (JST)12/18 17:39 (JST)updated
© 一般社団法人共同通信社
岸田文雄首相は18日、北朝鮮による拉致被害者家族の飯塚繁雄さんが死去したことについて「妹の田口八重子さんと再会できずにお亡くなりになり、心から申し訳ない思いでいっぱいだ」と述べた。拉致問題解決に向けて「あらゆるチャンスを逃さないと心に刻む」と改めて決意を示した。東京都内で記者団の取材に答えた。
拉致問題担当相を兼ねる松野博一官房長官は、神戸市内で拉致問題に関する政府主催の集会に出席。健康上の理由で家族会代表を退いた飯塚さんについて「回復を心からお祈りしていたが、残念でならない」と記者団に語った。
それは岸田も、「申し訳ない」とは思っているでしょうが、しかし現実は、家族会の意向に沿うとか称して、平壌に連絡事務所を開設することすら逃げていてはねえ。お話もならない。いくら横田拓也氏(飯塚氏から代表の座を受け継ぎました)が
>拉致被害者達を帰国させず、双方の国に事件究明の為と称する連絡事務所の設置や調査委員会の立ち上げと言う「聞こえの良い隠蔽工作」には絶対反対する立場を私達は貫きます。
と主張したとしても、そこは連絡事務所の開設くらいは動いてくれないとしょうがありません。しかし当の横田氏が新代表なのだから、当分そのような態度を家族会は取るでしょうし、その意向に従うとして政府も拉致問題や北朝鮮問題に正面からぶつかるのは逃げ続ける可能性が高い。そういったコースを確定させた家族会メンバー中心人物が飯塚氏だったわけで、これまたどうかです。彼が長きにわたって家族会代表を続けていた背景には、けっきょくは巣食う会の意向に従い続けたという側面がある。横田滋氏は、内心では必ずしも巣食う会の意向に同意していなかったところがあったかと思います。飯塚氏はどうか。内心はわかりませんが、けっきょく巣食う会の意向のままでしたから、これといった成果を上げられず代表を退任してお亡くなりになるという事態は避けられなかったのではないか。これも国交回復なり連絡事務所を設置する方が、田口さんが御存命であればもちろんお亡くなりになっていたとしてもいろいろと分かることも多いでしょう。しかしそういった話には絶対ならない。それはけっきょく巣食う会が望む方向であり、それに飯塚氏はこれといって異を唱えられませんでした。つまりは成果がなかったわけで、非常によろしくないなということになるでしょう。巣食う会にとって使い勝手のいい「代表」では、それでは拉致問題も前向きなことにならないのも道理です。