昨日(2022年9月28日)面白い記事を読みました。そう、日中国交回復50年ということは、日台断交50年でもあるということです。
>台湾孤立化「世界の流れ」 蒋介石、部下に吐露―日台断交50年
2022年09月28日07時11分
【台北時事】日中国交正常化50年を迎える29日は、日本が一方的に中華民国(台湾)と断交してから50年でもある。当時の台湾政府は「背信行為だ」と日本を強く非難した。ただ、蒋介石総統は断交前年の1971年に国連を脱退する前から「中国共産党政権を受け入れ、われわれを追い出すのは世界の流れだ」と吐露。国際的な孤立化を覚悟していた蒋総統は日台断交を予見していた可能性がある。当時の部下が明らかにした。
◇国連演説案を却下
元国民党幹部の陳鵬仁氏(91)は、69年に台北で行われた党の全国大会で蒋総統と交わした会話を、今もはっきりと覚えている。38歳だった陳氏は、蒋総統が国連に自ら赴いて国連の中国代表権問題について演説するよう進言した。
「ルーズベルト(米)、チャーチル(英)、スターリン(旧ソ連)が亡くなり、残る世界四大領袖(りょうしゅう)は蒋総統一人だ。国連で演説すれば、われわれの議席は保てるのではないか」。陳氏がこう訴えると、蒋総統は「いい提案だ」と評価しつつ「3年、4年は持つかもしれないが、必ず追い出される。時代の流れは変えられない」と率直に語り、却下した。
蒋総統は72年半ばから病床に伏せ、同9月の日台断交時には意識がはっきりしない状態だった。当時、陳氏はニューヨークにいた。断交の報道をテレビで見たとき、「日本にとっては正解だ。小さな台湾とつき合ってもメリットがない」と驚かなかったという。
◇排除の始まり
台湾各紙は日中国交正常化の翌朝の紙面で、一斉に日本の田中角栄政権を批判した。日本研究で旭日中綬章を受章した李永熾・元台湾大教授(82)は、当時の台湾での田中氏バッシングを「大変なものだった」と振り返る。
李氏は台湾が国連を脱退した時点で、国際社会に居場所が無くなったと感じていた。カナダやイタリアなど、「断交ドミノ」もすでに広がっていた。それでも「日本がこんなにすぐに台湾と断交するなんて」と衝撃を受けた。今後自分たちはどうなるのか、大きな不安が台湾社会を覆うのを感じた。
(以下略)
記事に登場する陳鵬仁氏と李永熾氏のプロフィールはこちら。
>◇陳鵬仁氏略歴
陳鵬仁氏 1930年12月、台湾南部・台南市(旧台南州)生まれ。明治大、東京大、米シートン・ホール大、米コロンビア大に留学。74年対日交流窓口機関の亜東関係協会東京事務所職員、96年国民党中央委員会党史委員会主任委員。96年東京大国際関係学博士号取得。日本留学時代に早稲田大生だった故・小渕恵三元首相と親交を深めた。
◇李永熾氏略歴
李永熾氏 1939年11月、台湾中部・台中市(旧台中州)生まれ。66年台湾大修士修了、67年東京大大学院留学、71年台湾大歴史学部副教授、75年台湾大歴史学部教授。2005~06年民進党・陳水扁政権の政策顧問。22年、旭日中綬章を受勲。
お二人ともそうとうな知日派のようですね。
読めば読むほど非常に興味深い記事ですね。それで私がこの記事を読んで思ったのが、なんだかんだいって蒋介石という人物は、いろいろ現実感覚のある人だなということですね。Wikipediaによると、台湾は大陸反抗を1965年に事実上放棄、72年に最終的に計画を放棄しています。そう考えてみると、69年に蒋が上の記事にある発言をしたというのもそれなりに理解できますね。蒋としては、やはり大陸反抗ができなければ、大陸側が国連ほかを代表する中国の座に就くことは時間の問題と考えていたということでしょう。それはそうですよね。蒋介石が現実性のある人間でしたら、そう考えざるを得ないでしょう。そして蒋には、そのような現実性があったということです。
さてさてそうとなると、私がずいぶん以前にご紹介したわが日本の昭和天皇はどうなんですかね?
昭和天皇というのも、時代錯誤な人だ当時私が引用した記事をお読みいただければ幸いですが、1971年の時点で昭和天皇は、当時の首相佐藤栄作に
>日本政府がしっかりと蒋介石を支持する
と依頼したといいます。記事は、
>蒋介石の行く末を案じた天皇の意向は、台湾擁護にこだわった佐藤の姿勢に少なからず影響を与えたのではないか
という
>井上正也・成蹊大学法学部准教授
の談話を紹介していますし、またこの記事を書いた時事通信の記者(氏名記載なし)も、
>昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。
と評しているわけで、井上氏といい時事通信の記者といい、どんだけ馬鹿なんだよですね。うんなもん佐藤だって義理とか行き掛かり上動いたという側面が大きいだろうし、国民党より共産党の方が日本や日本人に対して過酷に対応したなんて事実もないでしょうに。事実佐藤は、台湾から大陸に国連の代表権が移ってからは、日中国交回復に動いています。すでに佐藤の自民党総裁としての任期も終わりが近かったし、また周恩来が佐藤をひどく嫌っていたせいもあり、国交は実現しませんでしたが、佐藤もさすがに台湾に固執するほどの頑迷ではなかったということです。この件では、こちらの本が参考になりますので、興味のある方は乞うご参照。下で引用する記事でもご紹介しました。
いずれにせよ前に書いたことを繰り返せば、
>別に共産党政権だから日本に蒋介石より過酷だなんてことはなかったんじゃないんですかね。たとえば戦犯うんぬんということを言いだせば、中帰連の人たちはどうなんですかね(笑)。1人の死刑も出さずに帰国しましたけど。アカの洗脳を受けた連中のことなんか知らん、ですかね。
つまりは、蒋介石は戦争した相手であっても最終的には仲間だが、毛沢東や周恩来らはなんだろうが付き合いたくない、絶対嫌だ、っていうレベルの話でしょう。要は、昭和天皇の反共理念の発言以上のものではないと思います。どちらにしても、時代錯誤な脳みその持ち主です。
ということでしかないでしょう。だいたい戦後の日本は、天皇の政治権限をはく奪しているわけで、それを代償として、天皇制は維持されたし、昭和天皇も天皇の地位を奪われなかったわけです。いくら米国が、天皇制を日本支配のツールとして活用したいと考えていても、天皇にさまざまな政治権限を与えたままでそのようなことを遂行するということはできないでしょう。
ともかく私が言いたいことは、昭和天皇の時代錯誤ぶりと馬鹿ぶりはひどいということです(苦笑)。いくらなんだって、1971年の時点で、首相に大要国連での台湾の議席維持に動いてくれと頼むなんてまるで自分の立場を理解していないし、あんたどんだけ時代錯誤の反共なんだよです。そんな世迷言を米国大使に話す佐藤という野郎もひどい人間ですが。そんなことを言われたら、天皇をたしなめるレベルの話でしょう。だいたい昭和天皇の話をマイヤー大使に佐藤が伝えたのが6月2日、キッシンジャーの秘密訪中が1か月強後の、7月9日です(笑)。ニクソン大統領による発表があったのが同月15日です。詳細は下記を参照してください。
まあでも、昭和天皇としては、たぶんこの時点で、「ああ、だめだ」とは思ったのでしょうね。前の記事でも指摘しましたけど、田中角栄による日中国交回復に関して、昭和天皇が反対の意向を示したという情報は、現段階私は知りません。そして蒋の指摘する
>中国共産党政権を受け入れ、われわれを追い出すのは世界の流れだ
というのも、そして陳氏の語る
>日本にとっては正解だ。小さな台湾とつき合ってもメリットがない
というのも、まことにごもっとも、当然の話ですよね。しょせんケンカにならない、そういうことです。これは、中国本土と香港の関係もご同様。かつては、香港は、中国発展のためのなくてはならないツールでしたが、もはや本土の力で香港は繫栄している。つまりは、すでに香港は、中国における大都市ではあっても、かつてのような別格の位置にあるというものではないわけです。京都大学・慶應義塾大学名誉教授である大西広氏らも、著書でご指摘になっています。下の記事参照。
けっきょく香港の中国における相対的地位の低下、利用価値の低下に話は尽きると思うというわけで私が何を言いたいかというと、経済が強いところが一番強いわけです。政治より経済の方が強い。これは私がいつも指摘していることです。おかげで一部のチベット馬鹿からずいぶん嫌われましたが、連中も私の指摘を否定はできません。すべて同じことです。