以下の文章で、敬称は略しますことをご理解ください。
元プロ野球選手の方が、若くしてお亡くなりになりました。記事を。
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元阪神・横田慎太郎さん死去、28歳 昨年3月に脳腫瘍が再々発 家族に見守られて旅立つ
[ 2023年7月18日 20:00 ]
阪神で14年から6年間プレーし19年に現役引退した横田慎太郎(よこた・しんたろう)さんが18日、死去した。28歳。鹿児島県出身。現役引退の原因にもなった脳腫瘍が昨年に再々発。治療を終えて今春から療養に入っていた。現役時代は持ち前の全力プレーでファンの心を揺さぶり、引退試合では“奇跡のバックホーム”で感動を呼んだ。近年は自身の経験を伝える講演活動に力を注ぐなど利他の心でセカンドキャリアも邁進。多くの人に勇気を与え、記憶にも刻まれた“背番号24”が静かに旅立った。
横田慎太郎は、いつまでも変わらない“全力疾走”で太く短い生涯を駆け抜けた。17年に発症し、引退後も脊髄に転移した脳腫瘍が再々発したのは昨年3月。今春には治療を終えて、療養に入っていた。
息を引き取ったのは18日午前5時42分。横田さんが愛し、尊敬し、支えられてきた父・真之さん、母・まなみさん、姉・真子さんの家族に見守られながら静かに旅立った。療養期間中は毎日、両親が寝食をともにしてサポート。真子さんも可能な限り時間をともにした。時には涙もあったが「最後は明るく送り出してあげたかったんです」(まなみさん)と笑顔を絶やすことなく、最後の時間を家族揃って過ごすことができた。
短くて1週間、長くて2週間と余命宣告されたのは5月中旬。母・まなみさんが「慎太郎は本当によく頑張ったと思います。生きたいという思いがあったんです。何度も良くなって、回復して。本当に頑張りました」と明かしたように「生きる」ということを最後まで諦めなかった。それは背番号24のプレースタイルそのもの。6月9日、28回目の誕生日を迎えられたことが何よりの証明になった。
プロ6年間は一瞬の輝きと、長い苦闘で占められた。13年ドラフト2位で鹿児島実から入団。走攻守3拍子揃った大型外野手で次代の中軸候補として期待された。スポットライトを浴びたのは高卒3年目の16年。当時の金本知憲監督がそのポテンシャルに着目し、春季キャンプの1軍メンバーに抜てき。実戦でライバルを圧倒する結果を残し、2番・中堅で3月25日の中日戦の開幕スタメンに名を連ね、その試合でプロ初盗塁を記録。2戦目にはプロ初安打もマークし、この年は1軍で38試合に出場した。
だが、更なる飛躍を期した17年2月に頭痛の症状などを訴えて脳腫瘍が判明。18時間にも及んだ計2度の手術など約半年の闘病を経験した。同年9月に選手寮の虎風荘に戻って復帰を目指すことを宣言。ただ、視力低下という厳しい後遺症に苦しみ19年9月に現役引退を決断した。引退試合となった同26日のウエスタン・リーグ、ソフトバンク戦では途中出場で中堅守備に入ると、二塁走者の本塁突入を阻止する“奇跡のバックホーム”でラストプレーを飾り、チームメート、ファンの感動を呼んだ。
野球を愛し、野球に生きた男。療養期間中には現役時代のチームメートの名前を口にすることが多くなったという。病魔におかされても、タイガースのユニホームを着て高校時代から憧れの場所だった甲子園でプレーした6年間は宝物の記憶としてずっと横田さんに残った。
引退後のセカンドキャリアは自身の経験を伝える講演活動に力を注いだ。「苦しんでいる誰かの力になりたいんです。諦めなければ何かが起こるということを伝えたいんです。何か1つでも良いので目標を持っていればうまくいくと思う」。そんな言葉を全国の人に投げかけ、多くの脳腫瘍患者、その家族に活力、勇気を与えてきた。人生の第二章で野球とは違う生きがいを見つけたからこそ病状が悪化していた昨年も12月までリモートでの講演活動を継続。右目が失明し、両手をついて階段を上り下りしてまでも会場に駆けつける時もあった。引退後だけで2度の再発という過酷な現実を前にしても「利他の心」を失うことなく前進した。
「一緒に乗り越えましょう!」
昨年に入って講演の参加者にはそう呼びかけるようになったという。大好きだった野球、そして生きること…すべてを決して諦めなかった。だからこそ、最後は拍手を送りたい。横田慎太郎に「ありがとう」を込めて。 (遠藤 礼)
うーん、気の毒ですね。ご冥福をお祈りいたします。
私はあまり野球に詳しくないので、脳腫瘍になった野球選手の話は聞いていましたが、「横田慎太郎」という名前はよく知りませんでした。
それにしても脳腫瘍ですか。以前こんな記事を書いたことがあります。1年弱前の記事です。
膠芽腫というのも非常に危険な病気だ膠芽腫というのは非常に悪性度の高い脳腫瘍であり、なったら正直どうしようもない病気ですが、脳腫瘍というのも悪性度もさまざまです。私の知っているところでは、現役中に脳腫瘍に罹患し亡くなった日本のプロ野球選手には、津田恒実と盛田幸妃がいます。津田は、たぶん1990年の暮れごろから頭痛を訴えるようになり、91年の4月14日に最後の登板をして翌日入院、脳腫瘍であることが判明し、一時的な回復はあったものの、93年の7月20日(ちょうど30年前です)に亡くなっています。盛田は、1998年に脳腫瘍が見つかり、同年摘出手術、復帰し、2002年まで現役を続けられましたが、05年に再発、骨に転移するなど、以後転移と手術の繰り返しになり、2015年に亡くなっています。たぶんですが、おそらく津田は、膠芽腫かそれに近い悪性の脳腫瘍だったのではないかと思います。盛田は、最初は、良性の髄膜腫とされましたが、実際には悪性の腫瘍だったということのようです。ただ膠芽腫ほど一直線に悪化しなかったということでしょう。そう考えると、横田も具体的どういう脳腫瘍かはわかりませんが、盛田のように一進一退の性質のものかもしれません。ただ盛田より、彼のほうが悪性だったということなのでしょう。
それにしてもほんと、医療の力が及ばない病の中でも、命を奪う病に若くしてり患して亡くなるというのは本当に悲惨ですね。上の記事中、治療を終え療養に入ったというのは、一定のめどがたったからというのでなく、これ以上に治療は本人の負担になるだけと医者が判断したということです。それはしょうがないですが、やはり本人もご両親もお姉さんも、ほんとつらかったと思います。ご両親ばかりでなく、お姉さんも臨終に立ち会ったというのは、ほんと仲がよい関係だったのでしょう。肉親の愛情に恵まれたというのは、せめてもの救いだったのかもしれません。
横田慎太郎さんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。