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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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『人間の証明』は、『砂の器』のパクリだと思う(たぶん森村誠一は、第二の松本清張を目指したところもあったのではないか)

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氏が亡くなりましたね。記事

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230724/k10014140681000.html

を。

作家 森村誠一さん死去 90歳 「人間の証明」など
2023年7月24日 17時23分 

小説「人間の証明」などで知られる作家の森村誠一さんが24日、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。90歳でした。

森村誠一さんは1933年に埼玉県で生まれ、大学卒業後、東京や大阪のホテルに勤務しながら執筆活動を始めました。

1969年にホテル勤めの経験を生かしたミステリー作品、「高層の死角」が江戸川乱歩賞を受賞して人気作家となり、1973年には原子力をめぐる研究者や企業による利権争いを題材にした「腐蝕の構造」で日本推理作家協会賞を受賞しました。

敗戦後の混乱に端を発した殺人事件を通じて人間の本性を描いた作品「人間の証明」や、自衛隊を題材にした意欲作、「野性の証明」は、映画にもなって大ヒットしました。

また、ノンフィクション作品「悪魔の飽食」では、細菌兵器の開発にあたった旧日本軍の「731部隊」について描きました。

出版社の「KADOKAWA」によりますと、森村さんは24日、肺炎のため都内の病院で亡くなりました。

90歳でした。

森村氏といえば、護憲派・リベラル派の小説家だったと思います。まずはご冥福をお祈りいたします。なお以降森村氏およびほかの方々への敬称は略しますことをお許しください。

森村誠一というと、彼の代表作はやはり『人間の証明』ということになりますかね。これは、角川春樹をプロデューサーとする角川春樹事務所(角川映画)製作第二弾として映画化され、メディアミックス戦略となり大ヒットとなりました。批評家からは高い評価を得たわけではありませんが、やはり映画の1つの新しい可能性を切り開いた作品の先駆けであることは間違いないところです。森村自身、角川春樹には相当な恩義を感じていたようで、角川が薬物関係の不祥事を起こした際も、彼に対してさほどひはんて気ではありませんでした。

で、その『人間の証明』ですが、 これは私は、松本清張の『砂の器』のパクリだと考えています。以下ネタバレを防ぐためあいまいな記述にしますが、殺人の動機、被害者のバックグラウンド、断片的な言葉が捜査の上で決定的に重要であることなど、いろいろ似ています。とくに言葉については、「それやったら、『砂の器』と同じじゃん」と言われたって仕方ないと思います。

さて森村は、ノンフィクションも手掛けています。『悪魔の飽食』シリーズです。関東軍731部隊の悪行を記したこの本はベストセラーとなりましたが、残念ながら続で、収録写真に問題があり、光文社の版は絶版の憂き目にあいました。のちに改訂版が、角川書店から出ています。Wikipediaによると、角川春樹は

角川書店の角川春樹はこのことについて後に「内容がどうのこうのということより、作者が森村誠一さんであったことと、こうした脅迫に屈したら日本の出版の自由は退歩すると考え、退かなかった」と述懐した。これを出版したことで、角川書店にも右翼活動家が乗り込んできたことがあったという。

と語ったそうで(注釈の番号は削除。以下同じ)、角川自身も認めるように、森村作であることは決定的ですが、それでもあえて火中の栗を拾った角川の姿勢は称賛に値するでしょう。たぶん森村も、こういった恩義もふくめて、角川春樹の不始末にもあまり厳しい態度を取らなかった部分があったのではないか。

で、こういうところも、松本清張と似ているといえば似ていますね。彼も、ノンフィクション日本の黒い霧』や『昭和史発掘』など、小説以外の分野でも大活躍したわけです。これらの書物は、時代の制約や時代の進行による様々な史料の開放や発掘もあり、『日本の黒い霧』では、Wikipediaから引用すれば、

発表当時、読者からの共感と大きな支持を得たこの作品には、長い時間の経過とともに新たな見方や当時明らかになっていなかった事実が現れている。その例としては、『革命を売る男・伊藤律』が挙げられる。

発表当時、伊藤は生死不明の状態であったが、1980年9月に中国から29年ぶりに帰国を果たした。彼から当時の状況について弁明がなされ、新たに判明した資料や事実に基づく複数の研究によっても「伊藤律=スパイ」説が否定されている。このため、文春文庫版では上巻の巻末に「作品について」(2013年)という文が掲載され「伊藤律のスパイ説は認めがたいものになった」という大意が記されている。

ということにもなったわけです。

が、それはともかく。伊藤律が帰国したのは1980年であり、森村が『悪魔の飽食』を日本共産党の『赤旗』に連載しはじめたのが1981年とだいたい同じ年ですが(取材・執筆に関しては、『赤旗』記者の下里正樹の協力を得ました。実質共作といっていいのではないか)、たぶんですが、森村がこれをドキュメントとして仕上げる過程においては、松本清張を意識したんじゃないんですかね。しなかったと考えるのは不自然ではないかと思います。森村は、松本をいろいろなところで意識していたのではないか。自分も、松本と同様の左派・リベラル派の小説家であるということも大いに意識したでしょうし、たぶん自分は、清張ですらなかなかできなかった日本軍の暗部にメスを入れたというような高揚感もあったのではないか。いや、わかりませんけど。でも森村が、松本清張を意識していたのは間違いないと私は思っています。

資質の問題もあるでしょうが、けっきょく森村は、松本清張ほど非小説にのめりこむことはありませんでしたが、『悪魔の飽食』の(大)成功と挫折は、おそらく彼の作家人生を左右するものだったはず。写真の間違いがなければ、彼はそちらの方向により向かった可能性があったのではないかと私は考えています。

ところで下里正樹も、昨年お亡くなりになったようですね。知りませんでした。この記事を書いていて、Wikipediaなどを閲覧して知りました。彼も共産党とトラブルを起こして共産党を除名、縁切りになってしまいました。なお彼は、「奥山紅樹」名義で将棋の観戦記者や将棋本の執筆もしていました。なかなか多才な人だったようです。除名に関して、共産党と下里のどちらが悪いのかは私は判断できませんが、下里氏(ここは敬称をつけます)のご冥福をも祈ってこの記事を終えます。


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