あ、すみません。今日はまずは、こちらの記事に目をお通しください。
「見殺しにしてしまった」「たまたま助かった」津波恐れず家に留まった2人の男性、後悔の13年間お読みいただけたでしょうか。で、衝撃的な部分を引用します。
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「手、離せー!」その場に残し、逃げた
薄磯地区。おばあさんを背負った大谷さんは家を出て、高台の神社に向かって走り始めた。神社につながる石段はすぐ目の前、自宅から5,6メートルほど。しかし、バランスを崩してしまった。もう一度背負い直そうと腰を落とした瞬間だった。
「すぐ後ろの家が津波で壊されて、砂埃が勢いよく舞った…」。
津波は大谷さんたちのすぐ後ろまで迫っていた。おばあさんの手を妻ともう一人の女性が握っていた。このままではみんなが波の飲まれてしまう…。大谷さんは叫んだ。
「ばっぱ(おばあさん)の手、離せーーー!!!!」
大谷さんは石段を駆け上った。
「結果的には私の家内ともう一人の女性(77)は助かりました、私が背負ったおばあちゃんは亡くなっています。私自身が発見しています。3日後に…」
前にこんな記事を書いたことがあります。
このような場合どう判断し行動すべきか本当に難しいその記事から、当時の事件についての報道を引用します。
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祖母を助けに?中学生も… 住宅火災で2人死亡 葛飾
2017年11月17日11時25分
17日午前4時55分ごろ、東京都葛飾区金町3丁目で火事があり、木造2階建て住宅の2階部分約30平方メートルが焼けた。警視庁などによると、住人の赤津和枝さん(72)と孫で中学生の理紗子さん(15)が2階から救出されたが、いずれも搬送先の病院で死亡が確認された。理紗子さんは赤津さんを助けようとして巻き込まれた可能性があるという。
亀有署によると、赤津さんは理紗子さん、理紗子さんの母親(42)との3人暮らし。母親も煙を吸って病院に運ばれたが、命に別条はない。赤津さんは足が不自由だったという。
出火当時、赤津さんは2階の部屋で1人で寝ていた。理紗子さんと母親は2階の別の部屋で寝ていて火事に気づき、1階に避難しようとしたが、理紗子さんは下りてこずに赤津さんを助けにいったとみられるという。(後略)
上の火災の真相は不明ですが、上の記事で私の書いた記事を引用しますと、
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津波てんでんこの話にもあるように、津波とかの場合は、ともかく自分が助かることを第一に考えろとよく言われます。これは、家族などを助けようとして、それで死ななくてもいいあまたの命が失われたという過去の教訓からのものです。飛行機とか客船の事故の際、乗組員とかが率先して逃げるというのではお話になりませんが、ともかく自分の命最優先で一般の人間は逃げるしかありません。それはもう当然のことです。
ということになります。
そういうわけで、私は、最初の記事での「大谷さん」の行動を責める気は全くありません。責める人もいないでしょうが、ともかくここは、大谷さんほかの方々は助かったので良しとするべきです。
が・・・そういった「正論」はともかくとして、やはりこれは、大谷さん自身としては、何とも様々な複雑な思いが交差するでしょうね。読者の皆さまもどこかで聞いたことがあるかもですが、「サバイバーズ・ギルト」という言葉があります。Wikipediaから引用すれば、
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サバイバーズ・ギルト (Survivor's guilt) は、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のこと。「サバイバー」 (survivor) は「生き残り・生存者・遺族」を、「ギルト」(guilt) は「罪悪感」を意味する英語。
というものであり、さらに「概説」として、
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ナチスによるホロコーストを生き延びた人々などに見られたケースが有名である。日本においては、2001年6月8日に発生した附属池田小事件や、2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故において、生存者の間にこの種の感情が見られると報道されたこともあって認知度が高まった。また、太平洋戦争中に行われた特別攻撃隊、本土空襲、沖縄戦、広島市への原子爆弾投下、および長崎市への原子爆弾投下で生き残った高齢者が当時を回想するとき「あの状況で見殺しにするしかなかった」「助けられた命を見捨てた」など証言する場合も、このサバイバーズ・ギルトに当たる。心的外傷後ストレス障害 (PTSD) を起こして心理的な援助を必要とする場合もある。
とあります。大谷さんの証言も、まさにこの「サバイバーズ・ギルト」になります。で、私も戦艦大和 が沈んだ際に生存者の方が非常にそれを負い目に感じたという話を読んだことがあります。大谷さんの場合、最高に重度の「サイバーズ・ギルト」にはからずも陥ってしまったということになりそうです。
これは話の次元が異なりそうですが、調教師の西塚十勝は、ばんだい号墜落事故で、
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1971年7月3日に、西塚と同じ北海道出身の同僚で友人だった柏谷富衛調教師と共に東亜国内航空63便函館行に搭乗予定で、車で待ち合わせ場所の丘珠空港へ向かった。直前に知人と立ち寄った料理屋で女将が白米を炊き忘れたことから出発が遅れ、「これは(飛行機に)間に合いそうにないな」と、宿泊する宿のことを考えた。10分遅れで丘珠空港に到着した際、偶然にも飛行機はまだ離陸していなかった。西塚は最初は搭乗しようとしたが(チケットは二人分、柏谷が持っていた。)、航空会社が既にキャンセル待ちの人を乗せたのを見て「一度乗せてあげた人を降ろしたらかわいそうだから」と搭乗を辞退した。「札幌で一泊しないか」と柏谷を誘うも、カウンターでずっと待ち続けていた柏谷は「俺はお前ほど暇じゃねぇんだ!」と怒り(この時、自厩舎の主な管理馬に天皇賞馬リキエイカンがおり、柏谷の仕事が忙しいのは事実だった。)、一人で乗り込んだ。「ばんだい号」は函館を前にして横津岳に墜落し、柏谷を含む乗員・乗客全員が死亡した。西塚は命拾いしたが、「あの時、柏谷をもっと強く引き止めておけば……。」と終生悔やんだ。
ということがあり、やはり人間このような場合は、「自分は運がいい」と喜んでばかりもいられないもののようです。なお西塚氏は、ほかにも関東大震災や洞爺丸事故、ホテルニュージャパン火災でも奇跡的に難を逃れているすさまじい強運の持ち主として知られます。
ともかく「サバイバーズ・ギルト」と私たちは無縁であり得ません。そう考えると、羽田空港地上衝突事故で、海上保安庁のクルーは5名もの命が奪われましたが、日本航空516便は乗客乗員に死者が出なかったことは本当に幸いだったと思います。
関係者のご冥福を祈ってこの記事を終えます。