元女優・参議院議員の山口淑子がなくなりました。記事を。時事通信です。
>山口淑子さん死去=女優「李香蘭」、政治家として活躍−94歳
「李香蘭」の名で戦前・戦中に人気を集め、戦後も女優、歌手として活躍し、参院議員も務めた山口淑子(やまぐち・よしこ、本名大鷹淑子=おおたか・よしこ)さんが7日午前10時42分、心不全のため東京都内の自宅で亡くなった。94歳だった。中国東北部(旧満州)出身。葬儀は近親者で済ませた。
父親が南満州鉄道(満鉄)に勤務していた関係で中国で育つ。1938年に満州映画協会(満映)の映画「蜜月快車」の主演でデビュー。中国人向けに映画を作っていた同社の方針で中国人「李香蘭」として映画に出演し、故長谷川一夫さんと共演した「支那の夜」など数々の作品をヒットさせた。歌手としても人気を博し、代表曲に「蘇州夜曲」「夜来香」などがある。
戦後も山口淑子名で舞台や映画で活躍、「暁の脱走」(谷口千吉監督)、「醜聞(スキャンダル)」(黒澤明監督)、「白夫人の妖恋」(豊田四郎監督)などの話題作に出演した。51年に彫刻家のイサム・ノグチさんと結婚したが、数年で離婚。その後再婚し、一時芸能界から引退したが、テレビのワイドショー「3時のあなた」の司会として復帰、日本赤軍幹部の重信房子氏との会見などが話題となった。
74年、自民党公認候補として参院議員全国区で当選し、政治家に転身。92年に引退するまで3回の当選を重ね、環境政務次官などを歴任した。
著書に「誰も書かなかったアラブ“ゲリラの民”の詩と真実」「李香蘭 私の半生」(共著)など。自叙伝は劇団四季によってミュージカル化され、ロングランヒットを記録。同劇団のレパートリーとなった。 (2014/09/14-13:15)
もうひとつ。日経新聞の記事を。
2014/9/14 14:01
戦前・戦中に「李香蘭」の名で人気を集め、戦後も女優、歌手として活躍し、参院議員も務めた山口淑子(やまぐち・よしこ、本名=大鷹淑子=おおたか・よしこ)さんが7日午前10時42分、心不全のため東京都千代田区一番町20の10の507の自宅で死去した。94歳だった。告別式は近親者のみで行った。
旧満州(現中国東北部)で育ち、1938年に満州映画協会から「李香蘭」の芸名でデビュー。日本でも長谷川一夫さんと共演した「支那の夜」などが爆発的な人気を呼んだ。歌も「支那の夜」の劇中歌「蘇州夜曲」などが大ヒット。41年の日劇公演では入場券を求める人々が劇場を取り囲み「日劇七回り半事件」と呼ばれた。
戦後、日本名の山口淑子で、「暁の脱走」や黒沢明監督の「醜聞(スキャンダル)」などの映画に出演したほか、米国の舞台や映画にも出演するなど活躍の幅を広げた。
51年に米国の彫刻家イサム・ノグチさんと結婚するが後に離婚。外交官との再婚を機に一時芸能界から身を引いたが、テレビ番組の司会者として復帰し、ベトナムやパレスチナ問題のリポーター役を務めた。
74年、自民党から参議院全国区に出馬して当選。92年まで3期務め、環境政務次官などを歴任した。
著書に「『李香蘭』を生きて」「李香蘭・私の半生」(共著)など。時代の流れの中で2つの祖国を生きた半生を描いた作品は、テレビドラマやミュージカルの舞台でも取り上げられた。
2004年8月、日本経済新聞に「私の履歴書」を連載した。
ご自宅でお亡くなりになったということで、終末医療は自宅で、というお考えだったのかもしれませんね。
私にとって「山口淑子」って、「昔『李香蘭』だった人」、「参議院議員をやっていた人」というイメージばかりで、女優としての活動としては「過去の人」だし、政治家としてもそんなにイメージがないのですが、彼女自身はまさに戦中・戦後を激しく生きた女性でした。自民党の国会議員でもありましたが、日本赤軍の最高幹部と会見をしちゃうなど、ある意味なかなか枠に収まりきれない方でもあったかと思います。1973年には、北朝鮮を訪れて、金日成主席とも対談しています。
彼女についての死亡記事その他は、たぶんだいぶ以前から予定稿、予定コーナーみたいなものが作成されていた推察されます。それは当然であって、そうでなければ変ですが、こういうことを書いては良くないのでしょうが、まだ存命だったんだと考えた人も少なくないはず。
さて、山口淑子と同い年で、そして彼女と同様に早くに女優業から身を引いた超有名女優がいます。原節子です。
山口と同じ1920年に生まれた原は、1962年の東宝「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」が、その最後の出演作品です。ただこれは忠臣蔵ものでオールスター映画ですので、原節子といえどもスターの1人でしかありません。彼女の役は、大石内蔵助の奥さんであるりくです。その翌年に小津安二郎が亡くなった際に通夜に姿を見せたのが、彼女が公の場に姿を現した最後、ということになっています。グレタ・ガルボ同様彼女も、隠遁した人生を送っていることになります。笠智衆が亡くなった際(1993年)、あるいは原が弔問に来るかも、と期待した向きもあったようですが、やはりというか空振りに終わりました。
それにしても、女優業引退後の山口と原の軌跡というのは、あまりに対照的です。山口は、やはり引退しただけではおさまらず、原は、引退してからが安らぎの人生だったということでしょうか。たまに、パパラッチによって「その後」が報じられることもありました。彼女にとっては、本名の会田昌江としての自分が優先するものだったのでしょう。
山口はお亡くなりになりましたが、原はまだご存命です。山口淑子さんのご冥福を祈るとともに、原節子さんのこれからの穏やかな人生を祈念しまして記事を終えます。