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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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2015年10月17日の新聞には、個人的にいろいろ印象深い人の訃報記事が載った

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最近は、お亡くなりになってもすぐにその死を公表せず、数日、時にもっと長く経ってから新聞その他で報じられるということが多くなったように思います。時代の変化というやつでしょうが、前の記事である熊倉一雄氏の死亡記事も、亡くなったのが12日で、発表されたのが16日です。それで、10月17日の新聞を読んだら、熊倉さん以外にも、わりと私が印象に残っていた方々の死亡記事がありました。亡くなった日はばらばらですが、何らかの理由でその前の日の16日に逝去が報道されたということでしょう。ちょっとその件で、簡単なコメントを記したいと思います。

まずは こちらの方から。

橘家圓蔵さん死去 81歳 黒縁眼鏡となぞかけで人気

スポニチアネックス 10月16日(金)12時38分配信

 一般社団法人落語協会相談役の橘家圓蔵(たちばなや・えんぞう、本名・大山武雄=おおやま・たけお)さんが7日午前3時30分、心室細動のため死去した。81歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者で執り行った。

 52年に七代目橘家円蔵に入門、橘家竹蔵を名乗る。65年に真打ちに昇進、三代目月の家円鏡(えんきょう)となった。60年代から80年代にかけて「ヨイショの圓鏡」と呼ばれ人気に。トレードマークの黒縁眼鏡、得意のなぞかけと軽妙な語り口で落語家としてだけでなく、テレビCM、映画、ラジオのDJなども務め、「うちのセツコが…」のギャグが大当たりとなった。

 78年の落語界内紛のときには、師匠の七代目円蔵らとともに一度は落語協会脱退を表明したが、定席を求めてすぐに協会に復帰。82年に八代目橘家円蔵を襲名した。「うまいのは(古今亭)志ん朝、(立川)談志は達者。だからアタシは面白い落語家を目指す」が口ぐせで、どこまでも面白さを追求した。

 最近では高齢のため、口調にきれがなくなり、3年前から高座の出演は控えていた。

 ▼三遊亭円歌さんの話 いつも誰かを喜ばせなくてはと考えている人だった。楽屋に入るとパーッと明るくなる。偉くなってもキャーキャー騒いでいた。そういう方はなかなかいません。落語は、聴いているうちに忘れてしまうことが多いが、お客さまが覚えて帰ってくれるはなしをするのが魅力です。亡くなってしまうとあの芸がなくなってしまう。それが残念です。ご冥福をお祈りします。

 ▼落語協会顧問の三遊亭金馬さんの話 ずいぶん会わなかったのでびっくりしている。テレビやラジオで忙しい時期もあったが、彼の落語は筋にこだわらない八方破れのところが面白い。お客も人情話ではなく、腹を抱えるほど笑わせてくれるのを期待した。その無鉄砲さが魅力だった。亡くなって寂しい。

こちらの記事によると、

>落語協会は16日、協会相談役の八代目橘家圓蔵(本名・大山武雄)さんが今月7日午前3時30分、心室細動のため逝去していたことを発表した。

とありますから、ご家族は落語協会に発表とかは任せていたということですかね。

私は落語とかに全く不案内な人間でして、この人のお名前も、知っていはいますがまともに噺を聞いたことはありません。で、そういう人間がこういうことを書いてはいけないんでしょうが、この方は「月の家円鏡」の時代に一番知名度があり、その後はファン以外にはあまり知られることはなかったと思います。上の記事でも

>60年代から80年代にかけて「ヨイショの圓鏡」と呼ばれ人気に。

とありますし、Wikipedia記事にも、

>前名の月の家圓鏡(つきのや えんきょう)が未だに通る点で特筆に値する。

>1960年代から1980年代初頭まで、CMキャラクターとしてもお茶の間でお馴染みの存在になっていた。

とあります。彼が円鏡から円蔵に改名したのが82年ですから、だいたい改名時に、芸人としての道を軌道変更したということですかね。記事によればすでに3年くらい高座には出ていなかったようで、もう落語ができる状態ではなかったんでしょうね。あるいは認知症などもあったのかもしれません。

ではお次の方

古代史研究家の古田武彦氏死去

時事通信 10月16日(金)10時47分配信

 古田 武彦氏(ふるた・たけひこ=古代史研究家)14日午後10時13分、京都市西京区の病院で死去、89歳。
 福島県出身。自宅は京都府向日市。葬儀は行わず、近親者のみでお別れの会を開く。責任者は長男光河(こうが)氏。
 東北大で日本思想史を学び、高校教師、龍谷大講師を経て昭和薬科大教授に着任、定年まで勤めた。「魏志倭人伝」に記されているのは「邪馬台国」ではなく「邪馬壹(いち)国」と主張。著書に「『邪馬台国』はなかった」などがある。

古田氏といえば、かつてはそれなりにファンもいたのですが、『東日流外三郡誌』などの和田家文書にかかわりこれを絶対支持したために、実に多くの人間から見限られてしまいました。それはご当人の不徳の致すところで仕方ないでしょうが、ご本人の暴走をついに周囲は止めることができず、かなり晩節を汚した感があります。参考文献はいろいろありますが、興味のある方はまずはこちらの本をどうぞ。古田氏の行動そのものの本ではありませんが、古田氏の珍行動がいろいろ書かれています。

偽書「東日流外三郡誌」事件

もともとそういう素質があったということですが、晩年というか、和田家文書に関係してからの彼は、完全なトンデモだったと思います。それもどうかです。

最後にこちらの方

脳腫瘍乗り越えた「奇跡のリリーバー」盛田幸妃氏死去

スポーツ報知 10月16日(金)20時25分配信

 プロ野球の大洋(横浜、現DeNA)、近鉄で主にセットアッパーとして活躍し、脳腫瘍からの復活で「奇跡のリリーバー」と呼ばれた盛田幸妃(もりた・こうき)氏が16日午前、東京都内で死去した。45歳。葬儀・告別式は未定。近年は腫瘍が再発し、闘病生活を続けていた。

 盛田氏は1969年11月21日、北海道鹿部町で生まれた。函館有斗(現函館大有斗)では甲子園に3度出場。速球で注目された。87年のドラフト1位で大洋(現DeNA)に入団した。

 5年目の92年、才能が開花する。150キロ近いストレートと鋭いシュートを武器に、主に中継ぎとして52試合に登板。14勝6敗2セーブ、2・05で最優秀防御率のタイトルも獲得した。この年は外国人打者を被本塁打0に封じた。「大魔神」佐々木主浩とのコンビは「ダブルストッパー」と呼ばれ、8回を担って一時代を築いた。

 97年オフにはトレードで近鉄に移籍。だが98年には脳腫瘍を発症し、「二度と野球はできない」とも言われた。歩行も困難になり、選手生命も危ぶまれたが、約12時間にも及ぶ摘出手術と壮絶なリハビリを乗り越え、99年には1軍のマウンドに戻った。01年には1082日ぶりの白星を挙げ、34試合に登板。パ・リーグの優勝に貢献し、カムバック賞を受賞した。「奇跡のリリーバー」として人々に勇気を与えた。

 中日・谷繁元信監督「大洋に入団したときから、野球をお互い必死に取り組み、プライベートでも良くしていただいた。体調が悪いことは知っていた。いろんなことを考えると本当に寂しい」

 楽天・斎藤隆投手「良き友であり、良きライバルでした。あのえぐるようなシュートは今でも鮮明に覚えています。何よりもマウンド度胸がすごかった。あまりにも若すぎます」

 中日・大塚晶文投手コーチ「突然のことで信じられない。病気から復活するという諦めない気持ちを教わった。僕が5回の手術をしてマウンドに戻るという気持ちを持てたのは盛田さんの姿を見たからこそだった」

野球については詳しくないので、この方のことも「そういう人がいた」くらいの知識しかありませんが、熊倉氏以外のお2方もそれなりのご年齢での死ですが、盛田氏は45歳ですか・・・。お若いですね。その後も腫瘍が再発したとのことなので、相当闘病生活も苦しかったのではないですかね。氏の死亡の状況はあまり詳細には発表されていないようですが、死の直後の発表だったということですね。本当に気の毒です。

死亡記事についての記事を書いていると、なんで「生まれた記事」は書けないんだなんてことを考えることがあります。有名人の子どもでなければ生まれた瞬間にその人のことを他人が知ることはほとんどないわけだし、またその時点では文字どおりその子どもについて何も知ることはないわけですから、そんな記事を書けるわけもありませんが、死亡記事しか書けないのは、正直あまり気持ちのいいものではありません。

なおこの記事は、10月17日の午後11時ごろの更新ですが、都合により10月20日の記事にします。


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