ニュージーランドのラグビー選手だったジョナ・ロムーの死を知りました。記事を。
>ラグビー界の世界的スーパースター、ジョナ・ロムーが死去。40歳。
ラグビーリパブリック(ラグビーマガジン) 11月18日(水)12時3分配信
オールブラックスのレジェンド、ジョナ・ロムーが亡くなった。11月18日あさ、オークランドで息を引き取ったという。40歳だった。ニュージーランドのメディアが一斉に報じた。『3NEWS』によれば、今年のワールドカップでプロモーション活動をおこなったあと、家族とドバイで休暇を楽しみ、前夜にイギリスから帰国したばかりだったという。
まさに伝説の男だった。トンガ人の両親のもとにオークランドで生まれ、身長196センチ、体重120キロ前後あったロムーは、1994年にオールブラックス史上最年少の19歳45日でデビュー。翌年に南アフリカでおこなわれたワールドカップでは、準決勝のイングランド戦で4トライを挙げるなどパワフルな走りで世界中を驚かせ、「怪物」「空飛ぶ巨象」「暴走機関車」と呼ばれた。1994年から2002年にかけてテストマッチ63試合でプレーし、37トライ。ワールドカップは1995年と1999年の2大会に出場し、大会通算最多の15トライを記録している。
ラグビーがプロ化されてまもなく現れたエキサイティングなスーパースターに世界中は興奮し、アメリカンフットボールのNFLチームも彼の獲得に動いたことがある。シャイで優しい性格も多くの人に愛された。
グラウンド上では屈強な大男だったが、1996年にネフローゼ症候群(重い腎臓疾患)と診断され、やがて楕円球を手に走ることはできなくなった。2003年に腎臓機能が悪化して人工透析を開始。しかし2004年に移植手術を受けて成功し、翌年、ラグビープレーヤーとして復活する。ノースハーバー(NZ)、カーディフ(ウェールズ)、国内のクラブチームでプレーを続け、2007年のワールドカップ出場をめざした。その夢は叶わなかったものの、己に克ち、闘い続けた勇敢なファイターだった。
ラグビーを引退したあと、ボクシングイベントやボディビルの大会にも出場していたロムーは、トレーニングや激しいダイエットも影響したか、やがて腎臓の機能が低下する。2011年の自国開催ラグビーワールドカップで開会式に登場して大歓声を浴びた数日後から、再び透析治療などを受けていた。
その後、病と闘いながら、ラグビー大使として世界中を飛び回り、学校や病院も訪問していくつものチャリティーワークをおこなうなど、精力的に活動していた。ユニセフ・ニュージーランド親善大使のほか、2019年ラグビーワールドカップ日本大会のアンバサダーでもあった。
なお、上の写真のキャプションには、
>ロムーが2008年にサントリーを訪問した際の貴重なショット。写真左からエディー・ジョーンズ、ジョナ・ロムー、ジョージ・グレーガン、清宮克幸の4氏。(撮影:BBM)
とあります。これも今となってはなかなか貴重なショットです。
本当に急死だったようですね。私の勝手な考えだと、たぶん国外へ長く滞在していたのが相当に身体に悪かったのかなと思います。なんともいえませんが。ロムーの体調が良くない、腎臓病を患っているというのは知っていましたが、現実に亡くなったというと、いろいろな点で驚きます。あるいは、過日のワールドカップにおける活動もかなりの無理があったのかもです。
オールブラックスのメンバーとしては、1995年と99年のワールドカップに出場しましたが、優勝にはいたりませんでした。「インビクタス/負けざる者たち」でも描かれた95年の決勝の動画をご紹介します。その時のウォークライ(「ハカ」)では、南アフリカの選手にまさに飛び掛らんばかりに近づいていったのが印象に残ります。写真はその時のものです。南アフリカ選手の至近でジャンプしているのが彼です。
Rugby World Cup 1995 New Zealand vs South Africa
ロムー以前は、彼の体格でしたら、FWが当然の時代でした。たぶんロックにでも選ばれたかもですが、彼は大男で足も速いというまさにプロ時代のラグビー選手にふさわしい選手でした。95年がちょうどラグビーがプロ化するときでしたが、そう考えると1975年生まれの彼は、まさに新しいラグビーの時代にふさわしい人物だったということでしょう。
ところがそれでもワールドカップで優勝できなかったのは運命のめぐり合わせですかね。サッカーでも、ウヴェ・ゼーラーやパオロ・マルディーニなど、自分がワールドカップに出る前と後の大会では優勝できたのに、自分が出場した時は自国が優勝できなかった不運な選手がいますが、ロムーの母国ニュージーランドも、1987年に優勝してからは、2011年まで実に24年間優勝を待たなければなりませんでした。
2011年のニュージーランドで開催されたでも彼は開会式でも中心の役割を果たしていたくらいで、単にすごい選手というだけでなく、時代の変化を象徴する立場だったのだなと思います。そう考えると、サッカーのヨハン・クライフみたいな選手に近いところもあったと思います。クライフも、やはりトータルサッカーのリーダーとして、サッカーの変化を具現した選手でした。
これは単なる偶然ですが、そういえばクライフもワールドカップ優勝はできませんでした。もっともクライフは、私が見た何かのインタビューで、でも我々(オランダ代表)は、新しい時代を作ったよ、みたいなことを言っていた記憶があります。1974年のオランダ代表と1995年のニュージーランド代表では立場も状況も違いますが、いずれにせよそのチームや時代を象徴する選手であったことは確かです。そしてロムーは、屈強な体格と相反して、健康にはめぐまれませんでした。ご冥福をお祈りして今日の記事を終えます。