>原節子さん 9月に死去していた 95歳「東京物語」「晩春」
スポニチアネックス 11月25日(水)22時38分配信
昭和の大スター、元女優の原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった。95歳。横浜市出身。1963年(昭38)の映画出演を最後に表舞台には出ず、その後の生活はほとんど知られていなかった。
原さんは1920年(大9)6月17日生まれ。実家の生活苦のため、女学校を中退し、35年(昭10)に日活多摩川撮影所に入社。同年の映画「ためらふ勿れ若人よ」でデビュー。役名「節子」をそのまま芸名にし「原節子」となったという。日本とドイツが急接近しつつあった37年、ドイツのアーノルド・ファンク監督による初の日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされると、日本人離れした容姿は国内だけでなく外国でも話題となり、一気にスターとなった。
その後東宝へ移籍。戦時中は「ハワイ・マレー沖海戦」、「決戦の大空へ」、「勝利の日まで」など戦意高揚映画に数多く出演した。
戦後も化粧品会社のカラーポスターで暗い世相を明るくすると、黒澤明監督の戦後初の作品「わが青春に悔なし」に出演。47年には東宝を離れフリーとなる。「安城家の舞踏会」「青い山脈」「お嬢さん乾杯」など戦後を代表する作品に出たが、49年に初めて小津安二郎監督と組んだ「晩春」に出演。61年の「小早川家の秋」まで小津作品に計6本出演した。
「永遠の処女」など、さまざまなキャッチフレーズが付けられたが、何度か体調不良が伝えられ、そのたびに引退がささやかれたが、62年の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」が最後の映画出演となった。63年に小津監督が亡くなり、その通夜に出席したのを最後に表舞台から遠ざかった。神奈川・鎌倉で妹夫婦と生活しているとされ、写真週刊誌などが何度も“スクープ”を狙ったが、50年以上その姿をとらえたものはなかった。
こちらは、今年の4月に発表された記事です。
>原節子さん 親族が「元気は元気」…デビュー80年記念上映会
大阪・九条の映画館シネ・ヌーヴォで元女優原節子さん(94)のデビュー80年を記念した特集上映会「原節子のすべて」が始まり、作家の石井妙子さんが26日、トークショーに出演した。
原さんは代表作「東京物語」を撮った小津安二郎監督が亡くなった1963年、声明を出すことなく引退。独身とあって結婚が噂された2人について石井さんは「恋愛感情があったかは分からない。尊敬し合っていたと思うが結局、ファンの原への思い入れの深さが伝説や神話をつくった」と分析。現在は神奈川県鎌倉市で暮らす原さんの近況についても、「去年自宅へ行くと“元気は元気です”と親族の方が話していた」と報告した。
今秋、原さんの評伝を出版予定。「静かで激しい、セリフがなくても何かを訴えることができる女優。一方で引退から半世紀余り、一度も復帰しない潔さ」と公私両面の魅力も語った。
[ 2015年4月27日 08:08 ]
年齢が年齢ですので、各マスコミも予定稿・記録映像の準備はしていたと思われますが、その死が3か月弱伏せられていたというのも、いかにも彼女らしいといえば彼女らしいというべきかもしれません。では彼女の写真を。
この写真は、1960年のものとのこと。
来年「午前十時の映画祭」で、小津安二郎の「東京物語」が上映されます。もちろんこの映画はすでに私は観ていますが、再見してあらためて彼女を追悼したいと思います。