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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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災害時ほかの緊急事態には、鬼にならなければいけないこともある

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私が直接見た話ではありませんが、ずいぶん昔私の家の奥の部屋に、ネコが上がって居座ったことがあります。置いてあった布団の上にネコが乗っかっていたというのです。

で、私の親が、ネコを追い出そうとして、手で払ったら、絶対動きません。しまいには、ほうきで頭をたたくことまでしたそうですが、やはりじっと親のほうをにらんでいます。

ここまでしてネコが逃げないというのは、もしかしたら・・・というので、1度外して、ネコがいなくなった(餌でも探しにいったのでしょう)隙に布団をみてみたら・・・。いました、ネコの子3匹。

母は私に、大要「動物の愛情というか、本能ってすごい」と語りました。それはそうですよね。もちろん我が家はネコを殺したりはしませんが、ネコはそんなことを判断できないもんね。

けっきょく布団は外に出しておいたそうですが、その後ネコは子ネコを連れて去ったそうです。

子どもをつれた動物は必死です。小グマをつれた母グマに遭遇したりしたらやはり危険です。

さて、以上は動物の話ですが、一説によると本能が壊れた動物ともいわれる人間も、子どもについてはやはり必死になります。子どもに関しては、必ずしも合理的対応ができない。そういうことの関連で、この間、災害の対応についての講演会をきく機会がありまして、講師の人がくりかえし力説したのが、ともかく逃げろということです。他人よりも自分の命を優先させろということです。

すると、ここで大きな難問が出てきます。親子の問題です。

他人なら、さすがに自分の命を犠牲にして助けるというのは現実性に欠けますが、親子ですとそういうことがありえます。親が子どもを捜して津波にやられたということは2011年の災害の時も指摘されたことです。

それで、講師は、そのような災害教育を児童にする際、次のように話をするそうです。

(大要)「お父さんとお母さんには、ぼく(私)は自力で逃げるから、大丈夫だ、といいなさい」

親の立場からすると、確認が可能な距離にいれば子どもを助けたいのが人情というものでしょうが、そこで子どもを捜しにいくと津波の被害にあってしまうわけです。親も、子どもを信じるしかありません。

たぶん親としては子どもが無事か確認してから自分が逃げたいというのはやまやまでしょうが、そこは心を鬼にして、自分を第一に考えて逃げなければいけません。あるいは子どもはどうにもダメで死んでしまうかもしれませんが、それは親の力でもどうにもならない場合だということです。「あの時自分が・・・」と考えたくなるのは、人情としては理解できますが、そこは残念ながら割り切らなければいけません。人間、時間的、距離的その他の制約で、どうにも助けられないこともたくさんあるのです。

ずいぶん以前ですが、ヨットだかなんだかで、子どもが1人海に落ちてしまい、それを親が飛び込んで助けようとしたら、やはり亡くなってしまったことがありました。そしてその時ヨットには、別の子どもが乗っていました。そういう場合、やはり親は、海に飛び込んではいけないと思います。その人は泳ぎに自信があったのかもしれませんが、子どもを1人(あるいは他の子どもともども)ヨットに残してはいけないでしょう。そこは、まさに心を鬼にしなければいけない瞬間だと思います(なお、いまの話は、私の記憶で書いていますので、いつのどのような事件だったかは書けません。事実と違っていたら、その点はお詫び申し上げます)。

いずれにせよ、火事で燃えさかる家に「子どもがいる」といって飛び込もうとする親がいたら、私は「やめろ」と止める人間でいようと思います。


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