「新・午前十時の映画祭」で、「ラストエンペラー」を見ました。主要な出演者のほとんどがアジア人(レジナルド・ジョンストン役のピーター・オトゥールを除く)であり、坂本龍一が音楽、出演をしていることもあり、日本でも知名度・人気ともに高い映画だと思います。
それで見ていますと・・・いろいろずっこける映画です。なお、以下(たいしたことはありませんが)ネタバレがあるので、知りたくない人は読まないでください。
いいですか? では書きますよ。
映画の最初から、登場人物がみな英語を話します(笑)。
ね、ね、ね、ね、ね。なんで清朝の人たちが英語を話すの(笑)?
この映画が製作されたのが80年代後半で、まだこの時代の映画界は、中国人が中国で英語を話すことがOKだったわけです。このあたり、この映画が今日に製作・公開されたらさすがに中国語で会話され、英語(その他)の字幕がつくと思いますが、どうなんですかね。
余談ですが、字幕(進藤光太でした)で「パパ」というくだりがあり、確かに実際の台詞でも「パパ」みたいなことが言われていましたが、清朝の人が話す言葉としては「パパ」ってのはさすがに妥当とは言いかねるんじゃないんですかね。このあたりは誤訳という問題じゃないので、いや、自分はそうは思わんといわれれば仕方ないですが。
あと、最後のコオロギは、あれ変ですよねえ(笑)。たぶんあれ、「市民ケーン」の「ばらのつぼみ」を意識(あるいは同工異曲)しているのかと思いますが、まあこれは、現実のシーンでなく、溥儀の夢・幻覚と解釈すればいいんですかね。なぜか溥儀が消えちゃうし。そういえば「西鶴一代女」にもそんなシーンがあったかな。田中絹代が消えちゃうってのが。完全なフィクションの映画と、実在の人物を取り上げた映画を比較してもしょうがないけど、それもどうかです。そもそも論として、溥儀が故宮のあんなところまで単独でいけるはずもありませんが。
余談ですが、コオロギのたぐいってのは、多産のイメージがあるみたいですね。台北の故宮で、お約束の有名な展示物に豚の角煮と白菜がありまして、白菜にはバッタ、キリギリスの彫刻があります。なお溥儀に子どもはいません。
ほかにも幼少期の溥儀は、どう考えても成人してからジョン・ローンみたいな顔にはならないと思うぞとか、つまらんことを考えます。それにしてもジョン・ローンは、この映画以降あまりいい活躍ができませんね。アジア系の俳優としての活動の狭さみたいなものがあるのかもしれません。