どうも、前にも書きましたように、父の体調が悪くて入院をしておりまして、やや小康状態になったかと思われましたが、本日5月30日朝に亡くなりました。よって、このブログも申し訳ございませんが、しばらくお休みさせていただきます。再開予定は、6月8日土曜日です。
また、コメント欄も再び閉鎖させていただきます。ご了承ください。
どうも、前にも書きましたように、父の体調が悪くて入院をしておりまして、やや小康状態になったかと思われましたが、本日5月30日朝に亡くなりました。よって、このブログも申し訳ございませんが、しばらくお休みさせていただきます。再開予定は、6月8日土曜日です。
また、コメント欄も再び閉鎖させていただきます。ご了承ください。
しばらくブログをお休みしていました。申し訳ございません。
すでに記事でお知らせしましたように、私の父が5月30日早朝に亡くなりました。4月半ばに最後の入院をしたので、1カ月半の入院でした。
で・・・このような話は書かないほうがいいのかもしれませんが、実は私の父は、医師から筋委縮性側索硬化症(ALS)の疑いを宣告されていたのです。それを聞いたときはさすがにおどろきました。よりによって私の父がそんな難病にかからなくてもいいだろうとも思いましたが、しかし病気ですから仕方ありません。どうにもならないことです。
確定診断が出る前に父は死亡したので、正直実際のところはわからないのですが、やはりALSであった可能性が高いと思います。真相はともかく、症状が悪化する速さには語る言葉がありませんでした。
ご存知の方も多いでしょうし、またwikipediaなどで確認していただければお分かりになるように、ALSは治療法がありません。最終的には呼吸するための筋肉が衰えて死亡します。ただ現在は、人工呼吸器をつけて生き続けることもできます。
そして他の家族と医者、私との話し合いで、父には申し訳ないですが、人工呼吸器はつけないこととしました。残念ながら、そのようなものを装着しても、無益に父の苦しみを長引かせるだけだと判断したわけです。本来だったら父に前もって意向を確認すべきですが、父はそのような話をすることを非常に嫌う人間でしたので、聞くことができませんでした。
私が最後に父と面会したのは5月26日でして、その日父は私の手を取ろうとして、ALS(の疑いがある)にしては力が強いなと思いました。その日主治医が「あなたと話をしたかった」と言って、私に病状の説明をしました。その日はやや持ち直した?(ということもないのですが) という気すらしましたが、30日早朝「呼吸が悪くなった」という連絡をもらい、病院に駆けつけるとすでに心臓マッサージをしている段階で、心電図や脳波もフラットの状態でした。医師が「どうしましょうか」と最後の確認をしたので、延命措置は無用であると話をして、瞳孔の確認と心臓の鼓動を確認したうえでその時間が死亡時刻となりました。実際には、もっと前に亡くなっていたわけです。
主治医が不在だったので、当直医が説明をして、解剖の申し出がありました。私たち家族はそれを受け入れました。
通夜、葬式も終わり、私も仕事に復帰しています。平凡な日常にようやくもどりつつあります。それは私をほっとさせます。
通夜、葬式については、私は喪主ではないので、葬式会社との交渉・打ち合わせなどはすることもなく、私は頭を下げるばかりでした。で、今回の件でつくづく感じたことがあり、それは、自分の葬式は家族葬でじゅうぶんだということです。
香典その他も遠慮して、家族・親戚だけで弔ってくれればそれが私にとっていちばん気が休まります。上にも書いたように私の父は、葬式をどうするかとかそういう話を非常に嫌う人間でしたので、父の考えを確認できませんでした。家族の知る限りでは、父は一般の葬式をのぞんでいたようでしたので、 葬儀はそのようにしました。私は、家族葬を希望するということを話して家族の了解を得たので、私が死ぬ際はたぶん家族葬をしてもらえると思います。
ただ葬式の際に、私と仕事でかかわっている人が実は私の父のことをよく知っていたということがあり(先方も私も、そのことを知らなかったわけです)、その女性が大要「McCreary先生にはかつてお世話になった・・・」(父は親戚からも「先生」と呼ばれる人間でした)と私に語ったのには驚きました。たぶん彼女は、私から父を想像することができなかったのでしょう。父は小柄でやせていて、私は太っていて背が高い人間です。
あと、ここ最近会うことのなかった親戚が来てくれたのもうれしかったですね。今世紀に入って初めて会った従姉とあいさつできたのはよかったと思います。なお私は、なんの自慢にもなりませんが、ついに涙を流すことはありませんでした。たぶん私は、人間性とか感受性とかが欠けているのでしょう。
明日から通常運転の「ライプツィヒの夏」を再開します。また毎日更新いたしますので、これからもよろしくお願いします。また本日からまたコメント欄を再開いたします。
ジョン・モルダー=ブラウン(John Moulder-Brown)は、日本ではおもに1970年代前半の数年間人気のあった俳優です。実は彼は、私が好きなアニセー・アルヴィナと同い年の1953年生まれです。彼のほうが芸能活動開始は早かったのですが、残念ながら日本での人気がフェイドアウトしてしまったところまで似てしまいました。
なお、このブログでもおなじみのビョルン・アンドレセンは1955年生まれです。モルダー=ブラウンとほぼ同い年なのですね。モルダー=ブラウン自身ヴィスコンティ作品に出演しています(後述)。
実はつい先日、ジョン・モルダー=ブラウンは60回目の誕生日をむかえたのです。というわけで、私が見つけることのできた近影とわかった範囲での近況をお伝えしたいと思います。また、上の写真は1979年撮影ですので、彼が25〜26歳の時のものです。
なお、以下彼の出演作品について書きますが、日本で公開された作品中心に紹介させていただくことをご了解ください。
ジョン・モルダー=ブラウンは、1953年6月3日、英国ロンドンに生まれました。幼いころ両親が離婚し、父親に育てられます。5歳ごろから演技を学びはじめ、IMDbによると早くも58年には5本も映画に出ています。ただしクレジットされているのは1本だけです。ほかはその他大勢の役だったのでしょう。また、1959年には、シモーニュ・シニョレが出演した「年上の女」(シニョレはこの作品で、アカデミー賞とカンヌ映画祭の主演女優賞を獲得)にも出演しています。ただしこれもクレジットはされていません。
日本で公開された映画では、「ベケット」(1964 クレジットなし)「テレマークの要塞」(1965 クレジットなし)「心を繋ぐ6ペンス」(1967 クレジットなし)などに出演しています。68年ごろからテレビドラマ、テレビ映画に起用されるようになり、そして1968年、米国NBC製作のテレビドラマ「アルプスの少女ハイジ」(題名は、allcinemaより)にペーター役で出演します。それなりの大きな作品での大きな役は、これが初めてでしょうか。なお、このドラマは日本でもテレビ放映はされたとのこと。ハイジを演じたのは、ブレイク・エドワーズの娘(ってことは、ジュリー・アンドリュースの娘(血はつながっていませんが))であるジェニファー・エドワーズ、ほかにもマイケル・レッドグレイヴ(ヴァネッサ、コリン、リンの父親)やマクシミリアン・シェル、ジーン・シモンズが出演しているなかなか面白そうなドラマです。米国ではDVDが出ているから取り寄せてみるか。英語版wikipediaによると、現在でも定期的に放送されているようで、評価は高いようですね。
そしてついに、1969年にスペインで製作された映画「象牙色のアイドル」に主役級で出演します。映画の内容は
>根暗な少年ルイスは女校長である母親に女生徒達と顔を合わせることを禁じられている。だが彼はひそかに少女イザベルと密会していた。そんな中、彼女が何者かに殺害された。やがて他の娘たちも次々と姿を消して行き……。古びた寄宿学校を舞台に展開するサスペンス・ホラー。
だそうです。日本で公開されたのは72年ですので、たぶんモルダー=ブラウン人気にあやかって公開されたのだと思われます。なにしろこの映画の宣伝文句が
>〈初恋〉のジョン・モルダー・ブラウンが美しい少女をコレクションする!
ですから。「早春」の公開直後に続けざまに公開されています。
写真は70年の彼。
さらに70年トゥルゲーネフ原作の「初恋」に当時新進女優だったドミニク・サンダとともに主演します。実はこの映画は、マクシミリアン・シェルが監督・脚本・出演をしていまして、たぶん上記「アルプスの少女ハイジ」で共演したモルダー=ブラウンを気に入って起用したのでしょう。
同じ年、彼は「早春」に出演して、年上の女性(ジェーン・アッシャー)を恋する少年を演じました。この作品が彼の代表作になりました。たぶんこの映画に出演していなければ、彼は今ほどにも記憶に残る役者ではなかったでしょう。
写真は、「早春」撮影時のスナップとのこと。
「初恋」の日本公開が71年12月末で、翌年8月に「吸血鬼サーカス団」が公開されています。そしてこの後、モルダー=ブラウンの出演作品が日本公開されることは長きにわたってありませんでした。詳しくはわかりませんが、たぶん日本でのモルダー=ブラウンの人気はこの72年に最高潮に達し、その後は彼についてあまり消息が伝わらずにやきもきしたファンも多かったのではないでしょうか。いまならネットなどでいろいろな情報を収集できる時代ですが、当時はたぶん映画雑誌以外に情報を得る手段はあまりなかったと思いますので、もどかしい想いをしたのではないかと。
写真は、1973年に日本の映画雑誌で発表されたものとのこと。「スクリーン」か「ロードショー」でしょうが、出典は未確認です。
モルダー=ブラウンは、1972年にヴィスコンティの「ルードヴィヒ」に出演しています。彼の役は、主人公バイエルン国王ルードヴィヒ2世(ヘルムート・バーガーが演じました)の弟でルードヴィヒ2世後のバイエルン国王であるオットー1世です。世間で知名度の高い映画の出演は、これが最後でしょう。
ついでながら「ルードヴィヒ」は、前出のバーガーのほかにも、ロミー・シュナイダーやゲルト・フレーベのようなドイツ語圏俳優のほかに、モルダー=ブラウンにトレヴァー・ハワード(ワグナーを演じました)らの英国の俳優、シルヴァーナ・マンガーノなどのイタリア人俳優など、まさに欧州中から俳優を集めたすさまじい映画です。もともとヴィスコンティという人は、米国人のバート・ランカスターを主演に起用するなど、幅広いキャスティングをする人でした。
1982年の彼。
1984年の彼です。
その後彼の出演作品が日本で公開されることもありませんでしたが(「ルードヴィヒ」自体日本で公開されたのは1980年ですからずっと後です)、彼自身は主に英国のテレビドラマに出演していました。日本では、「ミス・マープル」などが放映されています(ソフトも発売されています。彼の出演したエピソードは、「スリーピング・マーダー」)。その出演も、1992年で途絶えました。
なお、彼自身は1997年に英国サセックスで演劇学校みたいなものを設立したのですが、これのHPには現在彼の名前を確認できません。運営その他から手を引いたのか、あえて名前を出していないのかはわかりません。wikipediaにも記述があるので、興味のある方はお読みになってください。
ところで彼自身は、最近映画出演を再開しています。なにかの心境の変化があったんですかね。こちらは「Young Alexander the Great 」 より。
イギリス映画『早春 DEEP END』/リマスター版☆公開記念インタビュー
またこちらは、2011年の彼の動画です。上の写真ではなんともわかりませんが、この動画を見た限りでは、彼ぜんぜん顔が変わっていませんね。ただし大人の役を演じるという点では、やや線が細いというところもあったかもしれません。あえて書いてしまえば、美男子すぎて今の時代には対応できないというか、あまりお呼びではないところもあったのでしょう。
こちらの写真は、上の動画と前後しての時期の撮影かと思われます。
こちらは2011年の写真、ジェーン・アッシャーと。彼は結婚指輪をしていませんね。モルダー=ブラウンが独身かどうかは未確認です。
そして彼は、「Summer Night, Winter Moon」「Margery Booth: The Spy in the Eagle's Nest 」という映画にも出演するそうです。日本公開は望み薄かもしれませんが、いちおう紹介しておきます。
モルダー=ブラウン自身は、現在第一線で活躍している俳優とはいいかねますが、しかしそれなりにがんばっていますね。彼の演じる姿を日本で見るのはなかなか難しいところもありますが、今後も彼の近況や近影を私なりに追っていきたいと思います。
過日、坂本九についての記事をwikipediaで読んでいまして、そのつながりで(JAL123便犠牲者つながり)で、北原遥子という人の記事を読みました。彼女は、宝塚歌劇団出身の女優です。坂本九と同じ日航機に搭乗していて、不慮の死を遂げました。
彼女の名前とかは私は知っていましたが、wikipediaの記事を読んだのはそのときが初めてだったかもしれません。彼女がどんなお顔をしていたかというと、下のような風貌です。
すごい美人ですね。ここまでの美女はそんなにいないと思います。1961年生まれの彼女は、1979年に宝塚入団、宝塚を去った翌年に24歳の若さでこの世を去りました。
宝塚に挑戦する前は、彼女はちょっと名の知れた体操選手でした。高校の神奈川県大会で優勝したとかいう成績でしたから、オリンピックとまではいわずとも、全日本選手権で活躍するくらいなら全く現実的でない目標ではなかったかもしれません。日本はモスクワ大会をボイコットしましたから、どっちみち彼女はオリンピックにはいけなかったでしょうが。また、時代はチャスラフスカ(前記事を書きました)のような女性らしい肉体の選手より、コマネチのような骨と皮のような選手が主流の時代になり、小学校6年生当時身長158cm、体重48Kgという彼女は、体操選手としての自分の将来にやや限界を感じていたのでしょう。
で、その記事を読んでいて「おや」と思う記述がありました。宝塚の女役として将来を嘱望されていた1983年の話です。
>しかし、あるテレビドラマのカメラテストを受けるよう依頼されて出かけた先で、本番の撮影の被写体になることを頼まれ、顔を映さない条件で応じたもののその約束は守られず、結果的に出演と言うことになってしまった。劇団を通して事前の出演依頼がなかったことで歌劇団の規定に明らかに違反する事態であり、歌劇団とTV側の意見の食い違いの責任を北原が取らされる形で退団が決定(事実上の懲戒免職である)。病気と言う名目で(同年の『風と共に去りぬ』)謹慎休演後の退団で、最後の舞台を踏むことも、袴姿でのファンへの挨拶もできず、本人は大変悔やんでいたという。
けっきょく彼女は、宝塚に在籍していたのは5年、実際に舞台で活躍したのは3年でしかありませんでした。
で、このwikipediaの記事はいろいろぼかされている部分もありますが、実態は下のようなものだったようですね。彼女について取材した本より。なお引用文中、漢数字は算用数字に、年号の元号は西暦に変えさせていただきました。また、段落にはスペースを入れました。
>一枚の新聞記事を母は見せてくれた。
この記事が由美子(引用者注:北原の本名)から聞いた事実をかなり正確に伝えていると思います」
*「サンケイスポーツ」1984年5月2日付
宝塚歌劇団雪組のホープ、北原遥子(きたはらようこ)=本名・吉田由美子(23)=が退団する。北原は、体調不良を理由に、現在大劇 場で公演中の『風と共に去りぬ』(5月8日まで)を休んでおり、17日、歌劇団に退団 届を提出、受理された。歌劇団では、退団は「あくまでも本人の意思です」といっているが、北原が歌劇団に無断でテレビドラマ出演したのが、原因と見られている。
北原は81年4月に初舞台。翌年1月には早くも、朝日テレビ系「おはよう朝日・土曜日です」のアシスタントに起用されたホープ。清楚な美人で、将来の娘役トップスターと目されていた。3月23日から始まった『風と共に去りぬ』でも、準主役のファニー・エルシング役に抜擢されていたが、3月9日放送の読売テレビ系ゴールデンドラマ「密会」に、歌劇団に無断で出演していたことから急きょ役を降ろされた。
宝塚歌劇団では生徒(劇団員)が外部出演するときはすべて宝塚企画を通し、ここでとりしきることになっている。北原は、その許可とらずに、日頃親しくしている東京のプロダクション「愛企画」の吉川愛美社長のマネジメントで、「密会」に出演。役は宅間伸のお見合い相手として2,3シーン。セリフはなかった。
歌劇団では、北原遥子の退団について”本人の意思”を主張。「(北原は)歌がうまくないし、貧血気味で体調も不十分なので、やめさせてほしいといってきた」と、いってある(引用者注:原文のまま)。しかし、北原は「密会」の放送直後、『風と共に去りぬ』のケイコ中に呼び出されて休演を通告されており、”テレビ出演”が原因との見方が広まっている。
無断テレビ出演事件は、前年の9月にさかのぼる。
後日、母が娘から聞いた事実関係はこうである。
「その頃、知人を通して知り合いになったあるプロダクションの女性プロデューサーから、テレビドラマのカメラテストを受けてみないかと言われ、由美子は、あまり深く考えず出かけていったそうです」
カメラテストのつもりで行ったところが、現場では本番を収録していて、プロデューサーから、ほかの人は用意していなかったからと、無理やり出演を頼まれる。それでも断ろうとする彼女を、「セリフはないし、顔は花瓶の花で隠れるように撮ってもらうから、大丈夫」とプロデューサーが説得、押し切られる形で撮影されてしまった。だが、画面には花とともに若い女性の姿がくっきりと映り込み、彼女を知る者ならだれでもそれと分かる形で編集されてしまう。(p.135〜p.137)
このときに彼女のマネージャーみたいな人(つまり、宝塚歌劇団の立場を代理できる人)もいなかったようですね。そしてあるいは勘違いその他があったのかもしれませんが、けっきょく彼女が懲戒解雇に近い状態で宝塚歌劇団を追い出されたとなると、それはどうもなあです。撮影の時点で、宝塚側に連絡を取って事情を説明すれば、またちがった展開になったのでしょうが。
しかしこの撮影の話はひどいですね(呆れ)。関係者に話を聞けば「いや、それは違う」ということになるかもしれませんが、北原の立場からすれば、これはこのプロダクションのプロデューサーその他に損害賠償請求ものじゃないんですか? 裁判で勝てるかどうかは分かりませんが、どうみてもこのプロデューサーの責任は甚大です。宝塚が、その団員の芸能活動にはかならず歌劇団に事前に話を通すなんてことは、宝塚になんの知識のない私だって知っている程度の話ですし(いまもそうなのかな?)、まさか芸能関係者が知らないなんてことはありえません。このプロデューサーが彼女をはめようとしてここまでやったのかどうかはわかりませんが、それにしてもどこまで他人に迷惑をかけるんだか。非常識にもほどがあるというものです。
ちなみに、ドラマで彼女の相手役だった宅間伸は、現在も件の「愛企画」所属のタレントです。やっぱり北原ははめられたんですかね。
真相はタイムマシンにのってその現場に行かなければ分かりはしないでしょうが、すくなくとも彼女が好きで宝塚を出て行ったわけではありません。もちろん私は、この件で北原側に問題がなかったとは思いませんよ。むしろ彼女の対応に相当な不備はあったと思います。
本の中で著者も指摘(p.137)しているように、最悪でも撮影があった後早急に宝塚歌劇団側に報告していれば、退団は免れない事態になったとしても、ある程度円満な退団という形でおさめることができたのではと思います。報告が遅くなって決まっていた役を降ろされるという最悪の形になり、彼女は金融機関のイメージキャラクターをつとめるくらい期待されていた立場でもあり、クライアントにも迷惑がかかったので、宝塚側も厳しい対応になったのであろうかと思います。
ただ、彼女は知的能力は高い女性だったと思いますが、高校を2年で中退して、その後宝塚に入った当時22歳の女性ですからねえ…。つまりは一般の大学4年生の女性より、たぶんはるかに世間にうといわけで、しかも宝塚という特殊な世界での生活でしたから、まずい事態になった場合に自分が損をしないためには(そして宝塚にも迷惑をかけないためには)どう行動をすればいいかといったことにもなかなか知恵がまわらなかったのでしょう。
私は小物ですから、さいわいこんなひどい目にあったことはいまのところありません。しかし世の中ですから、「なんでまた」というふうにそんな状況に放りなげられることもあるでしょう。そうなったら…。それにしても同じことをくりかえしますと、彼女の行動に問題があったのは確かにしても、ここまでひどい迷惑をなんで彼女は受けなければいけなかったんですかね。彼女も周囲も身内も「なぜ…」とさすがに絶句したんじゃないのかな。世の中ここまで他人に迷惑をかけるクズがいるということです。
けっきょく彼女は、宝塚側があるていど頭を下げてまで守ってくれる対象ではなかったのでしょう。本の中でも、宝塚の関係者が何とか円満解決できないかと動いたり(しかし適いませんでした)、彼女をモデルにした金融機関に謝罪に行ったりしたことが紹介されていました(p.139〜p.140)。確かにこのようなことがあれば、宝塚としても厳しい態度になるのは仕方ないのでしょう。それはともかくとしてやはり彼女は気の毒です。巨人の原監督など、暴力団関係者との関係が報道されたりと非常に重大な事態になりながらも(wikipediaを参照してください)なにはともあれ守ってもらっています。
原と北原を比較しても仕方ありませんが、北原遥子はいろいろな点で気の毒だったと思います。そして、何をいまさらながら、北原遥子さんこと吉田由美子さんのご冥福をお祈りいたします。
ホテルで朝食を取ります。本日は、昨日ほどは日本人はいませんでした。
ホテルをチェックアウトします。
メトロでブリュッセル中央駅へ。ここで荷物を預けて、友人Nの希望の場所「楽器博物館」へ行きます。Nは音楽好きなのです。
昨日と同じところを歩いて・・・。
ブリュッセルでキャサリン・ジェンキンスのポスターを見るのも、「おや」です。ジェンキンスとは、ウェールズ人に多い名前で、彼女もウェールズ出身です。
楽器博物館の前にたむろっていると、私たち以外にも客が集まり始めました。ドアが開いて私が最初に入ります。いちおう2013年最初に足を踏み入れた客は私です。ただし私がチケットを買っていたら、チケットをあらかじめ持っている客が中に入ったので、最初の入場者が私とは言いかねます。
中には、いろいろな楽器がありました。番号のふってある楽器に近づいて機械をかざすと、その楽器による音色が聞こえるというすぐれものの博物館です。
20131-2 ブリュッセル楽器博物館1
20131-2 ブリュッセル楽器博物館2
まわった限りでは、日本の楽器は見当たりませんでした。私が見つけられなかっただけかも。
みやげ物屋に行きますが、ここならでは、というものはありません。楽器でも買うのでない限りそのようなものはないのでしょうが。そして楽器は、私が見た限りではありませんでした。
仕方ないので、絵本を買いました。本文朗読CDがついているので、フランス語の勉強に役立つと考えたわけです。モーリス・ラヴェル関係の本で、音楽つながりではあっても、あんまり楽器とは関係ないような気がします。
こちらが「楽器博物館」の外観です。
イザベル・ユペールの公演があるんですね。それは行きたいなあ。
正面の看板は、いちおうオランダ語とフランス語で説明がありますね。
駅へ向かいます。とちゅう普通のコークのつもりでチェリーコークを買ってしまい、飲んでみるとドクターペッパーのような独特の味わいでした。私の趣味ではなかったな。
ルクセンブルク行きの切符を買います。私の前に並んでいたなかなかきれいな女性です。ごめんね、写真撮ってブログにまで載せちゃって。
ルクセンブルク行きの切符を買えました。
ルクセンブルク行きの列車の出発時間までそんなに時間がないので、近場の店で済ませます。いくつかのぞいてみて、こちらの店にしました。この店を選んだ理由は、数件の店の中でいちばんこんでいたからです。このような場合、地元で人気のある店に行くにかぎります。
パンを選んで、ローストビーフ、チーズその他を注文してはさんでもらいます。
お昼はこのようなところで済ませるのがいいですね。金もかからない。旅行者だから思い切って金も使いますが、やはりこういった地元あるいは準地元の人が食べるところで食事ができるといいなと思います。
(つづく)
ホームで列車を待ちます。
この機関車は、回送列車もしくは貨物列車をけん引しているものです。
ルクセンブルク行きが入線しました。
鉄道に乗ります。とくに意識したわけではないのですが、私は先頭の車両に座りました(自由席です)。これで思わぬ得をすることを私はもちろん気づきませんでした。私の隣と前にベルギー人(だと思う)男女が座りました。フランス語で会話しています。
男性が先に降りたので、夫婦ではないことに気づきました。ちょっと女性と話をします。
といっても私のフランス語能力ではたいした話はできませんが、たとえば日本人が知っているベルギー人はサッカー選手が多いとか、毎度おなじみの話をしました。昔の選手ですが、2000年ごろにオーストリアやクロアチアで地元の人に、ポルスターやシュケルの話をすれば、先方も悪い顔はしません。クロアチア(ザグレブ)では、「ミウラを見たよ」といわれました。三浦知良は、ザグレブでプレーしていたのですね。
でも私最近のベルギーのサッカー選手のことよく知らないんだよね(苦笑)。80年代は欧州選手権で2位(80年)になったり、ワールドカップで4位(86年)になったり強かったんですが、最近は往年の強さはありません。
で、名前を出したのは、クーレマンスとかゲレツやプロドームなど、昔の人ばっか。女性のほうからジャン=マリー・パフの名前も出ました。やっぱり黄金時代は、記憶が鮮明なのかな。私は言いました。
私「シーフォはイタリア人なんですよね?」
女性「ええ、そうよ・・・(以下理解不能)」
やはりもう少しフランス語を勉強しなければいかんなと決意を固めます。それにしても今回は、関係代名詞を使ったフランス文を話して相手にちゃんと通じたのがうれしいですね。ずいぶん昔サンフランシスコで過去完了進行形で話をしてちゃんと通じたときのうれしさにつながるものがあります。
イタリア人といえば、かつてブリュッセルの安ホテルでレセプションのイタリア人とフランス語で話をして、いつのまにか英語で話をしている自分にがっかりしたことがあります。ホテルの人だから英語も当然話せますが、一般の人の英語の理解力は、ベルギー人だからたいていの方は話せるのかなと勝手なことを考えていましたが、実際はどんなもんですかね。この女性は、あるいは英語は話せないのかも。たぶんオランダ系ベルギー人のほうが英語は話せるでしょう。
さらに私はよせばいいものを、かなり失礼な質問をしてしまいました。
私「あなたは、オランダの言語は話しますか」
女性「いえ、話せないわ」
非常にそっけない口調でした。あるいは彼女「私がオランダ語なんか話すわけないでしょ」くらいの気持ちだったかも。
ちなみにオランダ系ベルギー人はフランス語を話せる人が多いそうです。フランス系ベルギー人は、やはりオランダ系より外国語とかは苦手なようです。というかする意思に欠ける部分もあるのでしょう。
なお、私「オランダ語(le néerlandais)」 という単語を知らなかったので、「オランダの言語(la langue des Pays-Bas)」というまだるっこしい言い方をしました。ちゃんと通じましたが。
彼女は列車を降りました。「Au revoir.」で別れました。あとでNが、いっしょの写真撮ったのにといいました。そういわれてみれば撮ってもらえばよかったかな。損をした。
列車はえんえんすすみます。事情は不明ですが、ベルギー国鉄の制服を着た人が、運転席に入り込みました。いわゆる当局の監視なのか労働組合などの関係か、それとも私的なものかは分かりません。
ルクセンブルク国境手前の駅に到着します。すると、ベルギーの運転士からルクセンブルクの運転士に交代します。運転士の交代ははじめてみましたが、運転席までしっかり見えました。お、私は運がいい、とばかりに写真を撮ったところ、ルクセンブルクの運転士が私に中に入って撮れ、とすすめます。
いいの!? そこまでしてくれて。
中に入って写真を撮ります。これは運がいい。日本では、そもそも客室から乗務員が運転席に座るなどということはないでしょうが、私のような一般の人が運転席の中に入れる(運転中ではないとはいえ)なんてこれは運がいい。日ごろの正しい生活態度の故でしょう。
画像処理をかけているのでお分かりにならないでしょうが、私かなりのドヤ顔です。
20131-2 ルクセンブルクの車窓
ルクセンブルクの駅に着きました。運転手の人が降りたので、礼を言います。が、いっしょに写真を撮ればよかったと後悔しました。こういうのもタイミングで、逃してしまうとなかなか声がかけられません。断られてもいいのだから、頼めばよかった。
(つづく)
片山さつきについては、このブログでもそのひどい行動を2回ほど紹介したことがあります(こちら、こちら)。どちらも正直まともとは思えません。彼女の支援者らも、ちょっと彼女の行動にはあきれているというか、手に負えないものを感じている人が少なくないんじゃないかな。
今回は、他ブログさんの記事を紹介した他ブログさんの記事をさらに紹介した他ブログさんの記事を私が紹介するというもので、あんまり気がすすまないところもあるのですが、しかし片山の非常識きわまりない行動についてぜひ私のブログの読者の皆さんにも知っていただきたいので記事にします。今回は、ものの考え方とかイデオロギーとかの話ではないので、彼女をかばう人はあまり多くないでしょう(笑)。なお、引用した元のブログの管理人さんは、自民党(保守系無所属とかではない)の埼玉県会議員の方です。
>2013/5/20 月曜日「片山さつき」を糾弾する!
カテゴリー: 全般 ? admin @ 20:22:41
先に行われました「さいたま市議会議員補欠選挙(見沼区)」において、たかこ景さんの事務所での出来事であります!
選挙戦某日。。。応援弁士を頼んでもいないのに「応援に行ってやる!」との突然の電話から、たかこ事務所に訪れた「片山さつき」参議院議員。事務所に入るなり、事務所内を一望すると見る見る顔色が変化し「何で私の為書きが貼ってないの!」と激怒!「私の為書きを貼っていない候補者なんて応援できないわ!」と狂ったように怒鳴りちらし、事務所内はパニック状態に陥らせた。ちなみに、為書きとは「必勝祈願ポスター」のことで、「○○候補の為に、必勝を祈ります」的な意味合いで送るポスターであります。
事務所的には、送って頂いた為書きを忘れている可能性があったので、たかこ候補の事務所やら自宅やらを選挙中にも関わらず大忙しで探すことに・・・。このドタバタ騒ぎの途中、私が事務所に入ったところ事務所内は異様な空気でありました。
1時間半もの間探したのですが、その間「片山さつき」女史は「見つけるまで帰らない」と事務所内に居座り、「ド素人集団が・・・」「なんなのこの地域は・・・、だから長沼候補(市長候補)も苦戦するのよ!」などと暴言を吐く始末。たかこ選対の選対本部長である私は、「責任者として申し訳ない」旨謝ると、「あんたがだらしないから、見沼区は惨敗なのよ!」と市長選に絡み因縁を付けられたのであります。
その後、事務所スタッフで謝罪すると「では、帰る!」と言い出し見送る体制をとろうとしたとき、「せっかく来たから、選挙カーに30分だけ乗ってやるわ!」と言い出し、選挙カーに乗ることに・・・。慌てて選挙カーを準備し、運転手とウグイスのご協力のもと30分をやり過ごして頂き、見送ったという出来事がありました。
その後、ウグイスに聞いた話では、ベテラン運転手に向かって「あんた、道知ってるの!?大丈夫!?」「(東新井団地を指し)何この団地。人が住んるの!?」とマイクが入っている中暴言を連発するなど、散々だったとの報告を受けました。また、ボランティア中心で運営していた事務所は、片山さつきの散々の暴言のおかげで、お手伝いが減少するという異常事態を招いたのであります。
長々と記載しましたが、「応援」に来ているのか「邪魔」に来ているのか分からない始末であります。感情の赴くままに、怒鳴りちらし、暴言を連発する国会議員に、国民の生命と財産を預ける分けにはいきません。謙虚さの「け」の字も感じられない輩であります。また、地域には地域の特色がありますし、選挙もそれぞれの事務所や戦法で体制は違うものであり、一概に自分の価値観のみを押し付けるこのような輩に政治家を務める資格は無いと感じます。
また、そもそも、問題の根本的原因であった「為書き」でありますが、翌日の調査で「片山事務所」の配送ミスであったことが判明する始末。片山さつきの秘書に議員自身からの謝罪を要求しましたが、未だに連絡すらないところであります。更に後日聞いた話では、たかこ候補が村井ひでき衆議院議員の秘書であったことから、片山事務所から村井議員に連絡が入り「今回の一件について、片山議員に謝ってほしい」旨の連絡があり、財務省、そして、国会議員の先輩である片山女史に村井議員は謝罪を余儀なくされたと言います。
一連の出来事から、感じたのは『「片山さつき」に議員としての資格なし!』の一言であります。こういう輩が、大げさに言えば「国を滅ぼす」のであり、国会議員を即時辞職して頂きたいと思います。また、自民党も勘違いされないように、除名処分を行ってほしいと思います。今後も、片山さつきを糾弾して参りたいと思います!
どうでしょうか。そうとう常軌を逸しているように私には思えます。
想像ですが、やはり09年の総選挙での小選挙区惨敗が、彼女を狂わせたというか、人間としてまともでなくなった最大の理由なのだと推測します。すくなくとも役人だった時や、05年〜09年の衆議院議員だったときの彼女は、ここまでひどい人間ではなかったでしょう。
しかし上の話、迷惑ですよね(笑)。いや、私は部外者だから笑っていられますが、当事者からすれば「迷惑にもほどがある」「どれだけ勘違いしているんだか」「馬鹿、クズ、カス」「非常識もいい加減にしろ」っていうものでしょう。困ったものです。
で、この件にかぎらず、たぶん片山に注意する人間なんかいないだろうしね(笑)。こんな馬鹿に注意したって不愉快になるだけです。安倍晋三あたりが注意するべきでしょうが、片山は変にプライドが高いから安倍なんか徹底的に馬鹿にしているだろうし、安倍も片山なんかに注意するような火中の栗を拾うことはしないでしょう(笑)。
いずれにせよ、この女のクズぶりがどれだけ悪化しつづけるか、今後も興味深く観察していきたいと思います。また、田村たくみさんと秋原葉月さん、村野瀬玲奈さんにお礼を申し上げます。
お約束どおり、ロミー・シュナイダーの美しい写真をご紹介します。ほんと彼女は、稀有の美しさを持つ女性だったと思います。
同じフォト・セッション時の写真ですかね。せっかくですから、ロミーのヌードを。
白人女性にしてはペチャです。
すいません、当ブログは大きい写真は縮小せず収録する方針です。
アラン・ドロンとロミーは、結ばれることはありませんでした。
美女は眼鏡をかけてもさすがです。
1963年の写真。25歳のころ。
次に彼女の特集は、彼女の誕生日(9月23日)にしたいと思います。また、いずれは、彼女についての本格的な記事を書きたいと考えています。
野中広務が、尖閣諸島問題で、1972年に棚上げで日中が合意していたということを田中角栄氏(いうまでもなく、日中国交回復時の日本の首相)から聞いたという発言をしました。それに対しての産経新聞の対応です(こちら、こちら、魚拓1、魚拓2)。
>【主張】
尖閣棚上げ論 中国の宣伝戦に手貸すな
2013.6.5 03:29 (1/2ページ)[尖閣諸島問題]野中広務元官房長官が北京で中国共産党の劉雲山政治局常務委員ら要人と会談し、「尖閣諸島の棚上げは日中共通認識だった」と伝えたことを、会談後の記者会見で明らかにした。
1972(昭和47)年の日中国交正常化交渉の際、当時の田中角栄首相と中国の周恩来首相との間で合意があったという趣旨の話を、田中氏から後に聞いたという内容だ。しかし、伝聞に基づく発言で、確たる証拠はない。
岸田文雄外相は「外交記録を見る限り、そうした事実はない」と否定し、「尖閣諸島は歴史的にも国際法的にも日本固有の領土だ。棚上げすべき領土問題は存在しない」と述べた。当然である。
尖閣棚上げ論は、中国の最高実力者だったトウ小平副首相が持ち出したものだ。日中平和友好条約調印から2カ月後の78(昭和53)年10月に来日したトウ氏は「10年棚上げしても構わない。次の世代の人間は、皆が受け入れる方法を見つけるだろう」と述べた。
その年の4月、中国の100隻を超える武装漁船群が尖閣諸島周辺で領海侵犯による威嚇を繰り返した事件から半年後のことだ。当時の福田赳夫内閣はトウ氏の発言に同意しなかったものの、反論しなかった。不十分な対応だった。
しかも、中国はトウ氏の「棚上げ」発言から14年後の92(平成4)年、尖閣を自国領とする領海法を一方的に制定した。そもそも、中国に「尖閣棚上げ」を語る資格はない。
野中氏の発言に先立ち、シンガポールのアジア安全保障会議で、中国人民解放軍幹部が「(尖閣の領有権)問題を棚上げすべきだ」と蒸し返した。これに対し、菅義偉官房長官が「尖閣に関し、解決すべき領有権問題は存在しない」と反論したのも当たり前だ。
尖閣棚上げ論には、1月下旬に訪中した公明党の山口那津男代表も「容易に解決できないとすれば、将来の知恵に任せることは一つの賢明な判断だ」と述べた。同じ時期、鳩山由紀夫元首相は中国要人に、尖閣は「係争地」との認識を伝えた。
今回の野中氏の発言も含め、中国メディアは大きく報じた。中国の真の狙いは尖閣奪取だ。訪中する日本の政治家は、自身の国益を損ないかねない発言が、中国の反日宣伝に利用される恐れがあることを自覚すべきである。
産経新聞らしい対応ですが(「中国の真の狙いは尖閣奪取だ。」とか、誇大妄想ぶりにもうんざりします)、「棚上げすべきだったかどうか」という話と、「棚上げがあったかどうか」という話は、違う次元のことじゃないですかね。そういうことをいっしょくたに議論しても仕方ないでしょう。
どっちみちこの時点で日本側に棚上げ以外の選択肢があったとは思いませんが、産経新聞あたりは「だから日中は国交回復をするべきでなかったんだ」くらいのことを(そこまであからさまにはいわずとも)考えていそうですが、どちらにせよ無責任なことを主張する人たちです。
この件で日中双方が「棚上げ」で合意していたなんて、ほとんど社会常識のたぐいだと思いますが、世の中そういうことを認めたがらない産経新聞のような人たちもいます。しかし国会答弁においてすら外務大臣がそれを認める趣旨のことを述べています。1979年5月30日の衆議院外務委員会より。園田直外相の発言です。なお中国副主席の名字は、漢字からカタカナに変更させていただいたことをご了解ください。
>○井上(一)委員 大臣がお見えになりましたので、尖閣列島のことについてのみ午前中に大臣に対する質問をいたしたいと思います。
外務大臣は今回の尖閣諸島に対するわが国のとった行動を事前に承知なさっていらっしゃったのでしょうか。まずお伺いをいたしたいと思います。
○園田国務大臣 中国の今回の申し入れを従前に知ってはおりませんでしたが、きのう内閣委員会で答弁したとおり、尖閣列島の調査開発その他のことは慎重にやらなければ不測の事態が起きるという心配をしておるという意思表明はいたしましたが、向こうから申し入れがあるということは事前には存じませんでした。
○井上(一)委員 大臣、私の質問は、わが国がとった尖閣諸島に対する調査に踏み切った行動を事前に御承知だったでしょうかということです。
○園田国務大臣 勘違いをしておわびをいたします。
この問題は、御承知のとおり予算に計上してございます。したがいまして、当初から私は知っておりましたが、これに対しては絶えず次のような議論をしてきました。
少し長くなりますけれども、尖閣列島は御承知のとおりに中国とわが方は立場が違っております。わが方は歴史的、伝統的に日本固有の領土である、こういうことで、これは係争の事件ではない、こういう態度、中国の方は、いやそれは歴史的に見て中国の領土である、日本と中国の間の係争中の問題であるという差があるわけであります。そこで北京の友好条約締結のときに、トウ小平副主席と私との間で、私の方から話をしまして、尖閣列島に対するわが国の主張、立場を申し述べ、この前の漁船のような事件があっては困る、こういうことを言ったところ、向こうからは私の主張に反論なしに、この前のような事件は起こさない、何十年でもいまのままの状態でよろしい、こういうことで終わったわけです。
その後中国のトウ小平副主席が日本に来られたときに、共同会見のときにたな上げだという言葉を初めて使われ、わが方は依然としてわが方の領土であることは明白であるといういきさつがあるわけでありますけれども、少なくとも日本と中国の友好関係の現状からしまして、この前のような、漁船団のような事件は起こさない、二十年でも三十年でもいまのままでよろしいということは、わが方から言えば現在有効支配しているわけでありますから、ことさらに中国を刺激するような行動、これ見よがしに有効支配を誇示するようなことをやれば、やはり中国は国でありますから、自分の国であると言っているわけでありますから、これに対して異論を出さざるを得ないであろう。そうでない状態が続くことを私は念願しております。
したがって尖閣列島についてはわが国の領土ではあるけれども、こういういきさつがあるから刺激しないように、付近の漁民または住民の避難のため、安全のためにやむを得ざるものをつくるならば構わぬけれども、やれ灯台をつくるとか何をつくるとか、これ見よがしに、これは日本のものだ、これでも中国は文句を言わぬか、これでも文句はないかというような態度は慎むべきであるということを終始一貫議論をしてきた経緯があるわけであります。
国交樹立の時の話ではないとはいえ、中国とこの件で合意している旨が堂々と陳述されているじゃないですか(笑)。棚上げ合意があったのは明々白々でしょう。inti-solさんのブログ経由で知ったその翌日5月31日の読売新聞の社説は、たぶんこの国会答弁をも念頭に入れているのでしょう。そちらの社説も。
>尖閣諸島の領有権問題は、1972年の日中国交正常化の時も、昨年夏の日中平和友好条約の調印の際にも問題となったが、いわゆる「触れないでおこう」方式で処理されてきた。つまり、日中両国とも領土主権を主張し、現実には論争が"存在"することを認めながら、この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた。
それは共同声明や条約上の文書にはなっていないが、政府対政府のれっきとした"約束ごと"であることは間違いない。約束した以上は、これを遵守することが筋道である。
それにしても、当時の自民党政府の認識といい、読売新聞の社説とともに、まともだよね(笑)。園田の息子は現在日本維新の会所属の議員であって、彼の認識はいかに?
inti-solさんにお礼を申し上げます。
ルクセンブルク駅というのは、いかにも欧州の鉄道の駅っていう感じです。非白人(黒人ら)も予想以上にたくさん街を歩いています。
この光景、私大好き。
ルクセンブルクは、基本的にフランス語が第一言語です。よってしばらくフランス語の世界がつづきます。
駅近くのホテルを選んだので、ホテルまでは徒歩で向かいます。レセプションのお姉さん(このホテルは、スタッフは女性中心でした)とフランス語で話をしてチェックインをします。ホテルの人だからとうぜん英語は話せるわけで、そんなに見栄をはらなくったっていいんだけどね。
すこし疲れたのでうとうととしてしまいました。今日は観光は省略して夕食だけいただくことにしましょう。Nには悪かったかな。
歩きます。夜の欧州の街を歩くのもけっこう怖いところもありますが、ともかく歩きます。
ガイドブックにあるレストランへ。ルクセンブルクというのは案外グルメな国です。
私はアラカルト、Nは定食でした。Nのほうが得だったかな。
よせばいいものを、レストランの女性と会話を。
私「ルクセンブルクの方は、英語は話せるんでしょ?」
女性「いえ、そうでもありませんよ」
そういうもんなんですかね。
帰りはバスに乗って駅に向かいます。めでたくホテルにもどれました。今日はこれでおしまい。おやすみなさい。
(つづく)
土曜日は、ラグビーのテストマッチ、日本対ウェールズ戦があり、日曜日早朝にサッカーのコンフェデレーションカップのブラジル対日本戦がありました。
ラグビーのウェールズも、サッカーのブラジルも、日本とはずいぶん格がちがいますが(もちろんウェールズやブラジルの方が上)、サッカーは(予想通り)だめでしたが、ラグビーは勝っちゃいましたね。しかも23-8の15点差で。
もちろんこれには理由があるわけで、今回のウェールズ代表は、主力選手を15人(!)ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズのメンバーに拠出しているので、フル代表というわけではありません。フル代表だったら、日本が勝てる可能性はぜったいありません。サッカーでは「ぜったい」という表現は使えませんが、ラグビーなら使っちゃいます。
また、日本の蒸し暑い気候がウェールズ代表の体力を大幅に奪い、彼らのフィットネス能力がひどく落ちていたことも否めません。そういう意味では日本は地の利も大いに利用したわけです。
しかしそれにしても15点差の勝利はすごいですね。トライとゴールを2回成功してもまだ勝っているんですから、これはちょっと信じられない気がします。正直1戦目よりウェールズはきっちり調整と対策を整えてきているので、私はとても勝てっこないと考えていましたが、そして最初の反則できっちりPGをねらうなど、勝ちにきている(本来だったら、ウェールズは日本相手だったらPGでなくトライをねらいたいはず)なと思いましたが、どうもウェールズは前半に攻め続けたあとは、いまひとつ切れ味がなかったように思います。やはり想像以上に暑さで動きが鈍くなったんですかね。
もちろんラグビーですので、下剋上は難しいのでこれからですが、私も(前々っからこんなことは何回も書いていますが)テストマッチが都内で行われる時くらいは応援に行こうかなという気はします。
しかしこの試合の地上波放送は、2時キックオフなんだけど番組は3時開始だったんですよね(苦笑)。つまりは生放送するほどの価値はないとテレビ局(日本テレビ)は認識していたわけです。で、正直「地上波で放送してくれるだけでもありがたい」と考えちゃう私。現在のラグビー人気は大したことはありませんから、すこしでも地上波で放送してくれればそれに越したことはありません。深夜の録画放送でも仕方ないというのが実情でしょう。これは徐々にでも人気を高めていかなければなりません。
そう考えると、今年行われるスコットランドとのテストマッチは、スコットランド側がいい選手を用意してくるかなと思います。日本がどう戦うか見ものです。
一方、サッカーの方はやはり予想通りというか、きっちり負かされました。こちらの記事より。
>長友佑都「W杯優勝なんて腹を抱えて笑われる」=サッカー日本代表
スポーツナビ 6月16日(日)9時48分配信
サッカー日本代表は現地時間15日(日本時間16日)、ブラジルのブラジリアでコンフェデレーションズカップ開幕戦となるブラジル代表戦に臨み、0−3で敗れた。日本は3分に先制されると、その後も48分、93分に追加点を許すなど力の差を見せつけられた。
以下は、試合後の長友佑都(インテル/イタリア)のコメント。
「レベルが違いました。すべてにおいてのレベルが違ったかなと。悔しい気持ちです。(前回対戦と比べて)むしろ差が開いているかなというレベルだと思います。向こうも本気を出してきていた。気持ちが入っていたし、これが本当の世界トップのレベルなんだなと感じました。僕は、ワールドカップで優勝を目指すと言ってきましたけど、腹を抱えて笑われるくらいのレベルだなと思います。
(ダニエウ・アウベスについて)言ってみれば、中学生とプロのレベルですよね。僕が中学生レベルで、向こうはプロレベル。ただ、レベルの差は感じつつも、自分のなかで1対1を仕掛ければやれるなという自信はあったし、もちろん素晴らしい選手ですけど、越えられない壁ではないと思いました。僕の努力次第だと思います。
あと2戦は勝つしかないです。引き分けでも厳しいし、やっぱり勝ちにいく。正直、今日のようなサッカーをしていたんでは、次の試合も勝てないと思うし、割り切って前から行くサッカーもしていかないと、厳しいかなって思います。
終わってから(本田)圭佑とも話しましたけど、やっぱり個のレベルが違い過ぎるんで、僕もそうですけど、今の日本代表の選手がブラジル代表に入れるかといったら、誰ひとり入れないと思います。本当に1人ひとりがトップを目指して、向上心や貪欲な気持ちを持っていかないと、この1年で差が埋まらないと思います」
私も見ていて、やっぱり格がちがうなと(いまさらながら)感じました。力の違いは仕方ありませんが、チームとしての組織力もいまひとつでしたね。これではどうしようもありません。
というわけで、次のイタリア戦は、どう調整して訂正していくかを見て行きたいと思います。
ジョン・モルダー=ブラウン(John Moulder-Brown)は、日本ではおもに1970年代前半の数年間人気のあった俳優です。実は彼は、私が好きなアニセー・アルヴィナと同い年の1953年生まれです。彼のほうが芸能活動開始は早かったのですが、残念ながら日本での人気がフェイドアウトしてしまったところまで似てしまいました。
なお、このブログでもおなじみのビョルン・アンドレセンは1955年生まれです。モルダー=ブラウンとほぼ同い年なのですね。モルダー=ブラウン自身ヴィスコンティ作品に出演しています(後述)。
実はつい先日、ジョン・モルダー=ブラウンは60回目の誕生日をむかえたのです。というわけで、私が見つけることのできた近影とわかった範囲での近況をお伝えしたいと思います。また、上の写真は1979年撮影ですので、彼が25〜26歳の時のものです。
なお、以下彼の出演作品について書きますが、日本で公開された作品中心に紹介させていただくことをご了解ください。
ジョン・モルダー=ブラウンは、1953年6月3日、英国ロンドンに生まれました。幼いころ両親が離婚し、父親に育てられます。5歳ごろから演技を学びはじめ、IMDbによると早くも58年には5本も映画に出ています。ただしクレジットされているのは1本だけです。ほかはその他大勢の役だったのでしょう。また、1959年には、シモーニュ・シニョレが出演した「年上の女」(シニョレはこの作品で、アカデミー賞とカンヌ映画祭の主演女優賞を獲得)にも出演しています。ただしこれもクレジットはされていません。
日本で公開された映画では、「ベケット」(1964 クレジットなし)「テレマークの要塞」(1965 クレジットなし)「心を繋ぐ6ペンス」(1967 クレジットなし)などに出演しています。68年ごろからテレビドラマ、テレビ映画に起用されるようになり、そして1968年、米国NBC製作のテレビドラマ「アルプスの少女ハイジ」(題名は、allcinemaより)にペーター役で出演します。それなりの大きな作品での大きな役は、これが初めてでしょうか。なお、このドラマは日本でもテレビ放映はされたとのこと。ハイジを演じたのは、ブレイク・エドワーズの娘(ってことは、ジュリー・アンドリュースの娘(血はつながっていませんが))であるジェニファー・エドワーズ、ほかにもマイケル・レッドグレイヴ(ヴァネッサ、コリン、リンの父親)やマクシミリアン・シェル、ジーン・シモンズが出演しているなかなか面白そうなドラマです。米国ではDVDが出ているから取り寄せてみるか。英語版wikipediaによると、現在でも定期的に放送されているようで、評価は高いようですね。
そしてついに、1969年にスペインで製作された映画「象牙色のアイドル」に主役級で出演します。映画の内容は
>根暗な少年ルイスは女校長である母親に女生徒達と顔を合わせることを禁じられている。だが彼はひそかに少女イザベルと密会していた。そんな中、彼女が何者かに殺害された。やがて他の娘たちも次々と姿を消して行き……。古びた寄宿学校を舞台に展開するサスペンス・ホラー。
だそうです。日本で公開されたのは72年ですので、たぶんモルダー=ブラウン人気にあやかって公開されたのだと思われます。なにしろこの映画の宣伝文句が
>〈初恋〉のジョン・モルダー・ブラウンが美しい少女をコレクションする!
ですから。「早春」の公開直後に続けざまに公開されています。
写真は70年の彼。
さらに70年トゥルゲーネフ原作の「初恋」に当時新進女優だったドミニク・サンダとともに主演します。実はこの映画は、マクシミリアン・シェルが監督・脚本・出演をしていまして、たぶん上記「アルプスの少女ハイジ」で共演したモルダー=ブラウンを気に入って起用したのでしょう。
同じ年、彼は「早春」に出演して、年上の女性(ジェーン・アッシャー)を恋する少年を演じました。この作品が彼の代表作になりました。たぶんこの映画に出演していなければ、彼は今ほどにも記憶に残る役者ではなかったでしょう。
写真は、「早春」撮影時のスナップとのこと。
「初恋」の日本公開が71年12月末で、翌年8月に「吸血鬼サーカス団」が公開されています。そしてこの後、モルダー=ブラウンの出演作品が日本公開されることは長きにわたってありませんでした。詳しくはわかりませんが、たぶん日本でのモルダー=ブラウンの人気はこの72年に最高潮に達し、その後は彼についてあまり消息が伝わらずにやきもきしたファンも多かったのではないでしょうか。いまならネットなどでいろいろな情報を収集できる時代ですが、当時はたぶん映画雑誌以外に情報を得る手段はあまりなかったと思いますので、もどかしい想いをしたのではないかと。
写真は、1973年に日本の映画雑誌で発表されたものとのこと。「スクリーン」か「ロードショー」でしょうが、出典は未確認です。
モルダー=ブラウンは、1972年にヴィスコンティの「ルードヴィヒ」に出演しています。彼の役は、主人公バイエルン国王ルードヴィヒ2世(ヘルムート・バーガーが演じました)の弟でルードヴィヒ2世後のバイエルン国王であるオットー1世です。世間で知名度の高い映画の出演は、これが最後でしょう。
ついでながら「ルードヴィヒ」は、前出のバーガーのほかにも、ロミー・シュナイダーやゲルト・フレーベのようなドイツ語圏俳優のほかに、モルダー=ブラウンにトレヴァー・ハワード(ワグナーを演じました)らの英国の俳優、シルヴァーナ・マンガーノなどのイタリア人俳優など、まさに欧州中から俳優を集めたすさまじい映画です。もともとヴィスコンティという人は、米国人のバート・ランカスターを主演に起用するなど、幅広いキャスティングをする人でした。
1982年の彼。
1984年の彼です。
その後彼の出演作品が日本で公開されることもありませんでしたが(「ルードヴィヒ」自体日本で公開されたのは1980年ですからずっと後です)、彼自身は主に英国のテレビドラマに出演していました。日本では、「ミス・マープル」などが放映されています(ソフトも発売されています。彼の出演したエピソードは、「スリーピング・マーダー」)。その出演も、1992年で途絶えました。
なお、彼自身は1997年に英国サセックスで演劇学校みたいなものを設立したのですが、これのHPには現在彼の名前を確認できません。運営その他から手を引いたのか、あえて名前を出していないのかはわかりません。wikipediaにも記述があるので、興味のある方はお読みになってください。
ところで彼自身は、最近映画出演を再開しています。なにかの心境の変化があったんですかね。こちらは「Young Alexander the Great 」 より。
イギリス映画『早春 DEEP END』/リマスター版☆公開記念インタビュー
またこちらは、2011年の彼の動画です。上の写真ではなんともわかりませんが、この動画を見た限りでは、彼ぜんぜん顔が変わっていませんね。ただし大人の役を演じるという点では、やや線が細いというところもあったかもしれません。あえて書いてしまえば、美男子すぎて今の時代には対応できないというか、あまりお呼びではないところもあったのでしょう。
こちらの写真は、上の動画と前後しての時期の撮影かと思われます。
こちらは2011年の写真、ジェーン・アッシャーと。彼は結婚指輪をしていませんね。モルダー=ブラウンが独身かどうかは未確認です。
そして彼は、「Summer Night, Winter Moon」「Margery Booth: The Spy in the Eagle's Nest 」という映画にも出演するそうです。日本公開は望み薄かもしれませんが、いちおう紹介しておきます。
モルダー=ブラウン自身は、現在第一線で活躍している俳優とはいいかねますが、しかしそれなりにがんばっていますね。彼の演じる姿を日本で見るのはなかなか難しいところもありますが、今後も彼の近況や近影を私なりに追っていきたいと思います。
過日、坂本九についての記事をwikipediaで読んでいまして、そのつながりで(JAL123便犠牲者つながり)で、北原遥子という人の記事を読みました。彼女は、宝塚歌劇団出身の女優です。坂本九と同じ日航機に搭乗していて、不慮の死を遂げました。
彼女の名前とかは私は知っていましたが、wikipediaの記事を読んだのはそのときが初めてだったかもしれません。彼女がどんなお顔をしていたかというと、下のような風貌です。
すごい美人ですね。ここまでの美女はそんなにいないと思います。1961年生まれの彼女は、1979年に宝塚入団、宝塚を去った翌年に24歳の若さでこの世を去りました。
宝塚に挑戦する前は、彼女はちょっと名の知れた体操選手でした。高校の神奈川県大会で優勝したとかいう成績でしたから、オリンピックとまではいわずとも、全日本選手権で活躍するくらいなら全く現実的でない目標ではなかったかもしれません。日本はモスクワ大会をボイコットしましたから、どっちみち彼女はオリンピックにはいけなかったでしょうが。また、時代はチャスラフスカ(前記事を書きました)のような女性らしい肉体の選手より、コマネチのような骨と皮のような選手が主流の時代になり、小学校6年生当時身長158cm、体重48Kgという彼女は、体操選手としての自分の将来にやや限界を感じていたのでしょう。
で、その記事を読んでいて「おや」と思う記述がありました。宝塚の女役として将来を嘱望されていた1983年の話です。
>しかし、あるテレビドラマのカメラテストを受けるよう依頼されて出かけた先で、本番の撮影の被写体になることを頼まれ、顔を映さない条件で応じたもののその約束は守られず、結果的に出演と言うことになってしまった。劇団を通して事前の出演依頼がなかったことで歌劇団の規定に明らかに違反する事態であり、歌劇団とTV側の意見の食い違いの責任を北原が取らされる形で退団が決定(事実上の懲戒免職である)。病気と言う名目で(同年の『風と共に去りぬ』)謹慎休演後の退団で、最後の舞台を踏むことも、袴姿でのファンへの挨拶もできず、本人は大変悔やんでいたという。
けっきょく彼女は、宝塚に在籍していたのは5年、実際に舞台で活躍したのは3年でしかありませんでした。
で、このwikipediaの記事はいろいろぼかされている部分もありますが、実態は下のようなものだったようですね。彼女について取材した本より。なお引用文中、漢数字は算用数字に、年号の元号は西暦に変えさせていただきました。また、段落にはスペースを入れました。
>一枚の新聞記事を母は見せてくれた。
この記事が由美子(引用者注:北原の本名)から聞いた事実をかなり正確に伝えていると思います」
*「サンケイスポーツ」1984年5月2日付
宝塚歌劇団雪組のホープ、北原遥子(きたはらようこ)=本名・吉田由美子(23)=が退団する。北原は、体調不良を理由に、現在大劇 場で公演中の『風と共に去りぬ』(5月8日まで)を休んでおり、17日、歌劇団に退団 届を提出、受理された。歌劇団では、退団は「あくまでも本人の意思です」といっているが、北原が歌劇団に無断でテレビドラマ出演したのが、原因と見られている。
北原は81年4月に初舞台。翌年1月には早くも、朝日テレビ系「おはよう朝日・土曜日です」のアシスタントに起用されたホープ。清楚な美人で、将来の娘役トップスターと目されていた。3月23日から始まった『風と共に去りぬ』でも、準主役のファニー・エルシング役に抜擢されていたが、3月9日放送の読売テレビ系ゴールデンドラマ「密会」に、歌劇団に無断で出演していたことから急きょ役を降ろされた。
宝塚歌劇団では生徒(劇団員)が外部出演するときはすべて宝塚企画を通し、ここでとりしきることになっている。北原は、その許可とらずに、日頃親しくしている東京のプロダクション「愛企画」の吉川愛美社長のマネジメントで、「密会」に出演。役は宅間伸のお見合い相手として2,3シーン。セリフはなかった。
歌劇団では、北原遥子の退団について”本人の意思”を主張。「(北原は)歌がうまくないし、貧血気味で体調も不十分なので、やめさせてほしいといってきた」と、いってある(引用者注:原文のまま)。しかし、北原は「密会」の放送直後、『風と共に去りぬ』のケイコ中に呼び出されて休演を通告されており、”テレビ出演”が原因との見方が広まっている。
無断テレビ出演事件は、前年の9月にさかのぼる。
後日、母が娘から聞いた事実関係はこうである。
「その頃、知人を通して知り合いになったあるプロダクションの女性プロデューサーから、テレビドラマのカメラテストを受けてみないかと言われ、由美子は、あまり深く考えず出かけていったそうです」
カメラテストのつもりで行ったところが、現場では本番を収録していて、プロデューサーから、ほかの人は用意していなかったからと、無理やり出演を頼まれる。それでも断ろうとする彼女を、「セリフはないし、顔は花瓶の花で隠れるように撮ってもらうから、大丈夫」とプロデューサーが説得、押し切られる形で撮影されてしまった。だが、画面には花とともに若い女性の姿がくっきりと映り込み、彼女を知る者ならだれでもそれと分かる形で編集されてしまう。(p.135〜p.137)
このときに彼女のマネージャーみたいな人(つまり、宝塚歌劇団の立場を代理できる人)もいなかったようですね。そしてあるいは勘違いその他があったのかもしれませんが、けっきょく彼女が懲戒解雇に近い状態で宝塚歌劇団を追い出されたとなると、それはどうもなあです。撮影の時点で、宝塚側に連絡を取って事情を説明すれば、またちがった展開になったのでしょうが。
しかしこの撮影の話はひどいですね(呆れ)。関係者に話を聞けば「いや、それは違う」ということになるかもしれませんが、北原の立場からすれば、これはこのプロダクションのプロデューサーその他に損害賠償請求ものじゃないんですか? 裁判で勝てるかどうかは分かりませんが、どうみてもこのプロデューサーの責任は甚大です。宝塚が、その団員の芸能活動にはかならず歌劇団に事前に話を通すなんてことは、宝塚になんの知識のない私だって知っている程度の話ですし(いまもそうなのかな?)、まさか芸能関係者が知らないなんてことはありえません。このプロデューサーが彼女をはめようとしてここまでやったのかどうかはわかりませんが、それにしてもどこまで他人に迷惑をかけるんだか。非常識にもほどがあるというものです。
ちなみに、ドラマで彼女の相手役だった宅間伸は、現在も件の「愛企画」所属のタレントです。やっぱり北原ははめられたんですかね。
真相はタイムマシンにのってその現場に行かなければ分かりはしないでしょうが、すくなくとも彼女が好きで宝塚を出て行ったわけではありません。もちろん私は、この件で北原側に問題がなかったとは思いませんよ。むしろ彼女の対応に相当な不備はあったと思います。
本の中で著者も指摘(p.137)しているように、最悪でも撮影があった後早急に宝塚歌劇団側に報告していれば、退団は免れない事態になったとしても、ある程度円満な退団という形でおさめることができたのではと思います。報告が遅くなって決まっていた役を降ろされるという最悪の形になり、彼女は金融機関のイメージキャラクターをつとめるくらい期待されていた立場でもあり、クライアントにも迷惑がかかったので、宝塚側も厳しい対応になったのであろうかと思います。
ただ、彼女は知的能力は高い女性だったと思いますが、高校を2年で中退して、その後宝塚に入った当時22歳の女性ですからねえ…。つまりは一般の大学4年生の女性より、たぶんはるかに世間にうといわけで、しかも宝塚という特殊な世界での生活でしたから、まずい事態になった場合に自分が損をしないためには(そして宝塚にも迷惑をかけないためには)どう行動をすればいいかといったことにもなかなか知恵がまわらなかったのでしょう。
私は小物ですから、さいわいこんなひどい目にあったことはいまのところありません。しかし世の中ですから、「なんでまた」というふうにそんな状況に放りなげられることもあるでしょう。そうなったら…。それにしても同じことをくりかえしますと、彼女の行動に問題があったのは確かにしても、ここまでひどい迷惑をなんで彼女は受けなければいけなかったんですかね。彼女も周囲も身内も「なぜ…」とさすがに絶句したんじゃないのかな。世の中ここまで他人に迷惑をかけるクズがいるということです。
けっきょく彼女は、宝塚側があるていど頭を下げてまで守ってくれる対象ではなかったのでしょう。本の中でも、宝塚の関係者が何とか円満解決できないかと動いたり(しかし適いませんでした)、彼女をモデルにした金融機関に謝罪に行ったりしたことが紹介されていました(p.139〜p.140)。確かにこのようなことがあれば、宝塚としても厳しい態度になるのは仕方ないのでしょう。それはともかくとしてやはり彼女は気の毒です。巨人の原監督など、暴力団関係者との関係が報道されたりと非常に重大な事態になりながらも(wikipediaを参照してください)なにはともあれ守ってもらっています。
原と北原を比較しても仕方ありませんが、北原遥子はいろいろな点で気の毒だったと思います。そして、何をいまさらながら、北原遥子さんこと吉田由美子さんのご冥福をお祈りいたします。
ホテルで朝食を取ります。本日は、昨日ほどは日本人はいませんでした。
ホテルをチェックアウトします。
メトロでブリュッセル中央駅へ。ここで荷物を預けて、友人Nの希望の場所「楽器博物館」へ行きます。Nは音楽好きなのです。
昨日と同じところを歩いて・・・。
ブリュッセルでキャサリン・ジェンキンスのポスターを見るのも、「おや」です。ジェンキンスとは、ウェールズ人に多い名前で、彼女もウェールズ出身です。
楽器博物館の前にたむろっていると、私たち以外にも客が集まり始めました。ドアが開いて私が最初に入ります。いちおう2013年最初に足を踏み入れた客は私です。ただし私がチケットを買っていたら、チケットをあらかじめ持っている客が中に入ったので、最初の入場者が私とは言いかねます。
中には、いろいろな楽器がありました。番号のふってある楽器に近づいて機械をかざすと、その楽器による音色が聞こえるというすぐれものの博物館です。
20131-2 ブリュッセル楽器博物館1
20131-2 ブリュッセル楽器博物館2
まわった限りでは、日本の楽器は見当たりませんでした。私が見つけられなかっただけかも。
みやげ物屋に行きますが、ここならでは、というものはありません。楽器でも買うのでない限りそのようなものはないのでしょうが。そして楽器は、私が見た限りではありませんでした。
仕方ないので、絵本を買いました。本文朗読CDがついているので、フランス語の勉強に役立つと考えたわけです。モーリス・ラヴェル関係の本で、音楽つながりではあっても、あんまり楽器とは関係ないような気がします。
こちらが「楽器博物館」の外観です。
イザベル・ユペールの公演があるんですね。それは行きたいなあ。
正面の看板は、いちおうオランダ語とフランス語で説明がありますね。
駅へ向かいます。とちゅう普通のコークのつもりでチェリーコークを買ってしまい、飲んでみるとドクターペッパーのような独特の味わいでした。私の趣味ではなかったな。
ルクセンブルク行きの切符を買います。私の前に並んでいたなかなかきれいな女性です。ごめんね、写真撮ってブログにまで載せちゃって。
ルクセンブルク行きの切符を買えました。
ルクセンブルク行きの列車の出発時間までそんなに時間がないので、近場の店で済ませます。いくつかのぞいてみて、こちらの店にしました。この店を選んだ理由は、数件の店の中でいちばんこんでいたからです。このような場合、地元で人気のある店に行くにかぎります。
パンを選んで、ローストビーフ、チーズその他を注文してはさんでもらいます。
お昼はこのようなところで済ませるのがいいですね。金もかからない。旅行者だから思い切って金も使いますが、やはりこういった地元あるいは準地元の人が食べるところで食事ができるといいなと思います。
(つづく)
ホームで列車を待ちます。
この機関車は、回送列車もしくは貨物列車をけん引しているものです。
ルクセンブルク行きが入線しました。
鉄道に乗ります。とくに意識したわけではないのですが、私は先頭の車両に座りました(自由席です)。これで思わぬ得をすることを私はもちろん気づきませんでした。私の隣と前にベルギー人(だと思う)男女が座りました。フランス語で会話しています。
男性が先に降りたので、夫婦ではないことに気づきました。ちょっと女性と話をします。
といっても私のフランス語能力ではたいした話はできませんが、たとえば日本人が知っているベルギー人はサッカー選手が多いとか、毎度おなじみの話をしました。昔の選手ですが、2000年ごろにオーストリアやクロアチアで地元の人に、ポルスターやシュケルの話をすれば、先方も悪い顔はしません。クロアチア(ザグレブ)では、「ミウラを見たよ」といわれました。三浦知良は、ザグレブでプレーしていたのですね。
でも私最近のベルギーのサッカー選手のことよく知らないんだよね(苦笑)。80年代は欧州選手権で2位(80年)になったり、ワールドカップで4位(86年)になったり強かったんですが、最近は往年の強さはありません。
で、名前を出したのは、クーレマンスとかゲレツやプロドームなど、昔の人ばっか。女性のほうからジャン=マリー・パフの名前も出ました。やっぱり黄金時代は、記憶が鮮明なのかな。私は言いました。
私「シーフォはイタリア人なんですよね?」
女性「ええ、そうよ・・・(以下理解不能)」
やはりもう少しフランス語を勉強しなければいかんなと決意を固めます。それにしても今回は、関係代名詞を使ったフランス文を話して相手にちゃんと通じたのがうれしいですね。ずいぶん昔サンフランシスコで過去完了進行形で話をしてちゃんと通じたときのうれしさにつながるものがあります。
イタリア人といえば、かつてブリュッセルの安ホテルでレセプションのイタリア人とフランス語で話をして、いつのまにか英語で話をしている自分にがっかりしたことがあります。ホテルの人だから英語も当然話せますが、一般の人の英語の理解力は、ベルギー人だからたいていの方は話せるのかなと勝手なことを考えていましたが、実際はどんなもんですかね。この女性は、あるいは英語は話せないのかも。たぶんオランダ系ベルギー人のほうが英語は話せるでしょう。
さらに私はよせばいいものを、かなり失礼な質問をしてしまいました。
私「あなたは、オランダの言語は話しますか」
女性「いえ、話せないわ」
非常にそっけない口調でした。あるいは彼女「私がオランダ語なんか話すわけないでしょ」くらいの気持ちだったかも。
ちなみにオランダ系ベルギー人はフランス語を話せる人が多いそうです。フランス系ベルギー人は、やはりオランダ系より外国語とかは苦手なようです。というかする意思に欠ける部分もあるのでしょう。
なお、私「オランダ語(le néerlandais)」 という単語を知らなかったので、「オランダの言語(la langue des Pays-Bas)」というまだるっこしい言い方をしました。ちゃんと通じましたが。
彼女は列車を降りました。「Au revoir.」で別れました。あとでNが、いっしょの写真撮ったのにといいました。そういわれてみれば撮ってもらえばよかったかな。損をした。
列車はえんえんすすみます。事情は不明ですが、ベルギー国鉄の制服を着た人が、運転席に入り込みました。いわゆる当局の監視なのか労働組合などの関係か、それとも私的なものかは分かりません。
ルクセンブルク国境手前の駅に到着します。すると、ベルギーの運転士からルクセンブルクの運転士に交代します。運転士の交代ははじめてみましたが、運転席までしっかり見えました。お、私は運がいい、とばかりに写真を撮ったところ、ルクセンブルクの運転士が私に中に入って撮れ、とすすめます。
いいの!? そこまでしてくれて。
中に入って写真を撮ります。これは運がいい。日本では、そもそも客室から乗務員が運転席に座るなどということはないでしょうが、私のような一般の人が運転席の中に入れる(運転中ではないとはいえ)なんてこれは運がいい。日ごろの正しい生活態度の故でしょう。
画像処理をかけているのでお分かりにならないでしょうが、私かなりのドヤ顔です。
20131-2 ルクセンブルクの車窓
ルクセンブルクの駅に着きました。運転手の人が降りたので、礼を言います。が、いっしょに写真を撮ればよかったと後悔しました。こういうのもタイミングで、逃してしまうとなかなか声がかけられません。断られてもいいのだから、頼めばよかった。
(つづく)
片山さつきについては、このブログでもそのひどい行動を2回ほど紹介したことがあります(こちら、こちら)。どちらも正直まともとは思えません。彼女の支援者らも、ちょっと彼女の行動にはあきれているというか、手に負えないものを感じている人が少なくないんじゃないかな。
今回は、他ブログさんの記事を紹介した他ブログさんの記事をさらに紹介した他ブログさんの記事を私が紹介するというもので、あんまり気がすすまないところもあるのですが、しかし片山の非常識きわまりない行動についてぜひ私のブログの読者の皆さんにも知っていただきたいので記事にします。今回は、ものの考え方とかイデオロギーとかの話ではないので、彼女をかばう人はあまり多くないでしょう(笑)。なお、引用した元のブログの管理人さんは、自民党(保守系無所属とかではない)の埼玉県会議員の方です。
>2013/5/20 月曜日「片山さつき」を糾弾する!
カテゴリー: 全般 ? admin @ 20:22:41
先に行われました「さいたま市議会議員補欠選挙(見沼区)」において、たかこ景さんの事務所での出来事であります!
選挙戦某日。。。応援弁士を頼んでもいないのに「応援に行ってやる!」との突然の電話から、たかこ事務所に訪れた「片山さつき」参議院議員。事務所に入るなり、事務所内を一望すると見る見る顔色が変化し「何で私の為書きが貼ってないの!」と激怒!「私の為書きを貼っていない候補者なんて応援できないわ!」と狂ったように怒鳴りちらし、事務所内はパニック状態に陥らせた。ちなみに、為書きとは「必勝祈願ポスター」のことで、「○○候補の為に、必勝を祈ります」的な意味合いで送るポスターであります。
事務所的には、送って頂いた為書きを忘れている可能性があったので、たかこ候補の事務所やら自宅やらを選挙中にも関わらず大忙しで探すことに・・・。このドタバタ騒ぎの途中、私が事務所に入ったところ事務所内は異様な空気でありました。
1時間半もの間探したのですが、その間「片山さつき」女史は「見つけるまで帰らない」と事務所内に居座り、「ド素人集団が・・・」「なんなのこの地域は・・・、だから長沼候補(市長候補)も苦戦するのよ!」などと暴言を吐く始末。たかこ選対の選対本部長である私は、「責任者として申し訳ない」旨謝ると、「あんたがだらしないから、見沼区は惨敗なのよ!」と市長選に絡み因縁を付けられたのであります。
その後、事務所スタッフで謝罪すると「では、帰る!」と言い出し見送る体制をとろうとしたとき、「せっかく来たから、選挙カーに30分だけ乗ってやるわ!」と言い出し、選挙カーに乗ることに・・・。慌てて選挙カーを準備し、運転手とウグイスのご協力のもと30分をやり過ごして頂き、見送ったという出来事がありました。
その後、ウグイスに聞いた話では、ベテラン運転手に向かって「あんた、道知ってるの!?大丈夫!?」「(東新井団地を指し)何この団地。人が住んるの!?」とマイクが入っている中暴言を連発するなど、散々だったとの報告を受けました。また、ボランティア中心で運営していた事務所は、片山さつきの散々の暴言のおかげで、お手伝いが減少するという異常事態を招いたのであります。
長々と記載しましたが、「応援」に来ているのか「邪魔」に来ているのか分からない始末であります。感情の赴くままに、怒鳴りちらし、暴言を連発する国会議員に、国民の生命と財産を預ける分けにはいきません。謙虚さの「け」の字も感じられない輩であります。また、地域には地域の特色がありますし、選挙もそれぞれの事務所や戦法で体制は違うものであり、一概に自分の価値観のみを押し付けるこのような輩に政治家を務める資格は無いと感じます。
また、そもそも、問題の根本的原因であった「為書き」でありますが、翌日の調査で「片山事務所」の配送ミスであったことが判明する始末。片山さつきの秘書に議員自身からの謝罪を要求しましたが、未だに連絡すらないところであります。更に後日聞いた話では、たかこ候補が村井ひでき衆議院議員の秘書であったことから、片山事務所から村井議員に連絡が入り「今回の一件について、片山議員に謝ってほしい」旨の連絡があり、財務省、そして、国会議員の先輩である片山女史に村井議員は謝罪を余儀なくされたと言います。
一連の出来事から、感じたのは『「片山さつき」に議員としての資格なし!』の一言であります。こういう輩が、大げさに言えば「国を滅ぼす」のであり、国会議員を即時辞職して頂きたいと思います。また、自民党も勘違いされないように、除名処分を行ってほしいと思います。今後も、片山さつきを糾弾して参りたいと思います!
どうでしょうか。そうとう常軌を逸しているように私には思えます。
想像ですが、やはり09年の総選挙での小選挙区惨敗が、彼女を狂わせたというか、人間としてまともでなくなった最大の理由なのだと推測します。すくなくとも役人だった時や、05年〜09年の衆議院議員だったときの彼女は、ここまでひどい人間ではなかったでしょう。
しかし上の話、迷惑ですよね(笑)。いや、私は部外者だから笑っていられますが、当事者からすれば「迷惑にもほどがある」「どれだけ勘違いしているんだか」「馬鹿、クズ、カス」「非常識もいい加減にしろ」っていうものでしょう。困ったものです。
で、この件にかぎらず、たぶん片山に注意する人間なんかいないだろうしね(笑)。こんな馬鹿に注意したって不愉快になるだけです。安倍晋三あたりが注意するべきでしょうが、片山は変にプライドが高いから安倍なんか徹底的に馬鹿にしているだろうし、安倍も片山なんかに注意するような火中の栗を拾うことはしないでしょう(笑)。
いずれにせよ、この女のクズぶりがどれだけ悪化しつづけるか、今後も興味深く観察していきたいと思います。また、田村たくみさんと秋原葉月さん、村野瀬玲奈さんにお礼を申し上げます。
お約束どおり、ロミー・シュナイダーの美しい写真をご紹介します。ほんと彼女は、稀有の美しさを持つ女性だったと思います。
同じフォト・セッション時の写真ですかね。せっかくですから、ロミーのヌードを。
白人女性にしてはペチャです。
すいません、当ブログは大きい写真は縮小せず収録する方針です。
アラン・ドロンとロミーは、結ばれることはありませんでした。
美女は眼鏡をかけてもさすがです。
1963年の写真。25歳のころ。
次に彼女の特集は、彼女の誕生日(9月23日)にしたいと思います。また、いずれは、彼女についての本格的な記事を書きたいと考えています。
野中広務が、尖閣諸島問題で、1972年に棚上げで日中が合意していたということを田中角栄氏(いうまでもなく、日中国交回復時の日本の首相)から聞いたという発言をしました。それに対しての産経新聞の対応です(こちら、こちら、魚拓1、魚拓2)。
>【主張】
尖閣棚上げ論 中国の宣伝戦に手貸すな
2013.6.5 03:29 (1/2ページ)[尖閣諸島問題]野中広務元官房長官が北京で中国共産党の劉雲山政治局常務委員ら要人と会談し、「尖閣諸島の棚上げは日中共通認識だった」と伝えたことを、会談後の記者会見で明らかにした。
1972(昭和47)年の日中国交正常化交渉の際、当時の田中角栄首相と中国の周恩来首相との間で合意があったという趣旨の話を、田中氏から後に聞いたという内容だ。しかし、伝聞に基づく発言で、確たる証拠はない。
岸田文雄外相は「外交記録を見る限り、そうした事実はない」と否定し、「尖閣諸島は歴史的にも国際法的にも日本固有の領土だ。棚上げすべき領土問題は存在しない」と述べた。当然である。
尖閣棚上げ論は、中国の最高実力者だったトウ小平副首相が持ち出したものだ。日中平和友好条約調印から2カ月後の78(昭和53)年10月に来日したトウ氏は「10年棚上げしても構わない。次の世代の人間は、皆が受け入れる方法を見つけるだろう」と述べた。
その年の4月、中国の100隻を超える武装漁船群が尖閣諸島周辺で領海侵犯による威嚇を繰り返した事件から半年後のことだ。当時の福田赳夫内閣はトウ氏の発言に同意しなかったものの、反論しなかった。不十分な対応だった。
しかも、中国はトウ氏の「棚上げ」発言から14年後の92(平成4)年、尖閣を自国領とする領海法を一方的に制定した。そもそも、中国に「尖閣棚上げ」を語る資格はない。
野中氏の発言に先立ち、シンガポールのアジア安全保障会議で、中国人民解放軍幹部が「(尖閣の領有権)問題を棚上げすべきだ」と蒸し返した。これに対し、菅義偉官房長官が「尖閣に関し、解決すべき領有権問題は存在しない」と反論したのも当たり前だ。
尖閣棚上げ論には、1月下旬に訪中した公明党の山口那津男代表も「容易に解決できないとすれば、将来の知恵に任せることは一つの賢明な判断だ」と述べた。同じ時期、鳩山由紀夫元首相は中国要人に、尖閣は「係争地」との認識を伝えた。
今回の野中氏の発言も含め、中国メディアは大きく報じた。中国の真の狙いは尖閣奪取だ。訪中する日本の政治家は、自身の国益を損ないかねない発言が、中国の反日宣伝に利用される恐れがあることを自覚すべきである。
産経新聞らしい対応ですが(「中国の真の狙いは尖閣奪取だ。」とか、誇大妄想ぶりにもうんざりします)、「棚上げすべきだったかどうか」という話と、「棚上げがあったかどうか」という話は、違う次元のことじゃないですかね。そういうことをいっしょくたに議論しても仕方ないでしょう。
どっちみちこの時点で日本側に棚上げ以外の選択肢があったとは思いませんが、産経新聞あたりは「だから日中は国交回復をするべきでなかったんだ」くらいのことを(そこまであからさまにはいわずとも)考えていそうですが、どちらにせよ無責任なことを主張する人たちです。
この件で日中双方が「棚上げ」で合意していたなんて、ほとんど社会常識のたぐいだと思いますが、世の中そういうことを認めたがらない産経新聞のような人たちもいます。しかし国会答弁においてすら外務大臣がそれを認める趣旨のことを述べています。1979年5月30日の衆議院外務委員会より。園田直外相の発言です。なお中国副主席の名字は、漢字からカタカナに変更させていただいたことをご了解ください。
>○井上(一)委員 大臣がお見えになりましたので、尖閣列島のことについてのみ午前中に大臣に対する質問をいたしたいと思います。
外務大臣は今回の尖閣諸島に対するわが国のとった行動を事前に承知なさっていらっしゃったのでしょうか。まずお伺いをいたしたいと思います。
○園田国務大臣 中国の今回の申し入れを従前に知ってはおりませんでしたが、きのう内閣委員会で答弁したとおり、尖閣列島の調査開発その他のことは慎重にやらなければ不測の事態が起きるという心配をしておるという意思表明はいたしましたが、向こうから申し入れがあるということは事前には存じませんでした。
○井上(一)委員 大臣、私の質問は、わが国がとった尖閣諸島に対する調査に踏み切った行動を事前に御承知だったでしょうかということです。
○園田国務大臣 勘違いをしておわびをいたします。
この問題は、御承知のとおり予算に計上してございます。したがいまして、当初から私は知っておりましたが、これに対しては絶えず次のような議論をしてきました。
少し長くなりますけれども、尖閣列島は御承知のとおりに中国とわが方は立場が違っております。わが方は歴史的、伝統的に日本固有の領土である、こういうことで、これは係争の事件ではない、こういう態度、中国の方は、いやそれは歴史的に見て中国の領土である、日本と中国の間の係争中の問題であるという差があるわけであります。そこで北京の友好条約締結のときに、トウ小平副主席と私との間で、私の方から話をしまして、尖閣列島に対するわが国の主張、立場を申し述べ、この前の漁船のような事件があっては困る、こういうことを言ったところ、向こうからは私の主張に反論なしに、この前のような事件は起こさない、何十年でもいまのままの状態でよろしい、こういうことで終わったわけです。
その後中国のトウ小平副主席が日本に来られたときに、共同会見のときにたな上げだという言葉を初めて使われ、わが方は依然としてわが方の領土であることは明白であるといういきさつがあるわけでありますけれども、少なくとも日本と中国の友好関係の現状からしまして、この前のような、漁船団のような事件は起こさない、二十年でも三十年でもいまのままでよろしいということは、わが方から言えば現在有効支配しているわけでありますから、ことさらに中国を刺激するような行動、これ見よがしに有効支配を誇示するようなことをやれば、やはり中国は国でありますから、自分の国であると言っているわけでありますから、これに対して異論を出さざるを得ないであろう。そうでない状態が続くことを私は念願しております。
したがって尖閣列島についてはわが国の領土ではあるけれども、こういういきさつがあるから刺激しないように、付近の漁民または住民の避難のため、安全のためにやむを得ざるものをつくるならば構わぬけれども、やれ灯台をつくるとか何をつくるとか、これ見よがしに、これは日本のものだ、これでも中国は文句を言わぬか、これでも文句はないかというような態度は慎むべきであるということを終始一貫議論をしてきた経緯があるわけであります。
国交樹立の時の話ではないとはいえ、中国とこの件で合意している旨が堂々と陳述されているじゃないですか(笑)。棚上げ合意があったのは明々白々でしょう。inti-solさんのブログ経由で知ったその翌日5月31日の読売新聞の社説は、たぶんこの国会答弁をも念頭に入れているのでしょう。そちらの社説も。
>尖閣諸島の領有権問題は、1972年の日中国交正常化の時も、昨年夏の日中平和友好条約の調印の際にも問題となったが、いわゆる「触れないでおこう」方式で処理されてきた。つまり、日中両国とも領土主権を主張し、現実には論争が"存在"することを認めながら、この問題を留保し、将来の解決に待つことで日中政府間の了解がついた。
それは共同声明や条約上の文書にはなっていないが、政府対政府のれっきとした"約束ごと"であることは間違いない。約束した以上は、これを遵守することが筋道である。
それにしても、当時の自民党政府の認識といい、読売新聞の社説とともに、まともだよね(笑)。園田の息子は現在日本維新の会所属の議員であって、彼の認識はいかに?
inti-solさんにお礼を申し上げます。
ルクセンブルク駅というのは、いかにも欧州の鉄道の駅っていう感じです。非白人(黒人ら)も予想以上にたくさん街を歩いています。
この光景、私大好き。
ルクセンブルクは、基本的にフランス語が第一言語です。よってしばらくフランス語の世界がつづきます。
駅近くのホテルを選んだので、ホテルまでは徒歩で向かいます。レセプションのお姉さん(このホテルは、スタッフは女性中心でした)とフランス語で話をしてチェックインをします。ホテルの人だからとうぜん英語は話せるわけで、そんなに見栄をはらなくったっていいんだけどね。
すこし疲れたのでうとうととしてしまいました。今日は観光は省略して夕食だけいただくことにしましょう。Nには悪かったかな。
歩きます。夜の欧州の街を歩くのもけっこう怖いところもありますが、ともかく歩きます。
ガイドブックにあるレストランへ。ルクセンブルクというのは案外グルメな国です。
私はアラカルト、Nは定食でした。Nのほうが得だったかな。
よせばいいものを、レストランの女性と会話を。
私「ルクセンブルクの方は、英語は話せるんでしょ?」
女性「いえ、そうでもありませんよ」
そういうもんなんですかね。
帰りはバスに乗って駅に向かいます。めでたくホテルにもどれました。今日はこれでおしまい。おやすみなさい。
(つづく)
土曜日は、ラグビーのテストマッチ、日本対ウェールズ戦があり、日曜日早朝にサッカーのコンフェデレーションカップのブラジル対日本戦がありました。
ラグビーのウェールズも、サッカーのブラジルも、日本とはずいぶん格がちがいますが(もちろんウェールズやブラジルの方が上)、サッカーは(予想通り)だめでしたが、ラグビーは勝っちゃいましたね。しかも23-8の15点差で。
もちろんこれには理由があるわけで、今回のウェールズ代表は、主力選手を15人(!)ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズのメンバーに拠出しているので、フル代表というわけではありません。フル代表だったら、日本が勝てる可能性はぜったいありません。サッカーでは「ぜったい」という表現は使えませんが、ラグビーなら使っちゃいます。
また、日本の蒸し暑い気候がウェールズ代表の体力を大幅に奪い、彼らのフィットネス能力がひどく落ちていたことも否めません。そういう意味では日本は地の利も大いに利用したわけです。
しかしそれにしても15点差の勝利はすごいですね。トライとゴールを2回成功してもまだ勝っているんですから、これはちょっと信じられない気がします。正直1戦目よりウェールズはきっちり調整と対策を整えてきているので、私はとても勝てっこないと考えていましたが、そして最初の反則できっちりPGをねらうなど、勝ちにきている(本来だったら、ウェールズは日本相手だったらPGでなくトライをねらいたいはず)なと思いましたが、どうもウェールズは前半に攻め続けたあとは、いまひとつ切れ味がなかったように思います。やはり想像以上に暑さで動きが鈍くなったんですかね。
もちろんラグビーですので、下剋上は難しいのでこれからですが、私も(前々っからこんなことは何回も書いていますが)テストマッチが都内で行われる時くらいは応援に行こうかなという気はします。
しかしこの試合の地上波放送は、2時キックオフなんだけど番組は3時開始だったんですよね(苦笑)。つまりは生放送するほどの価値はないとテレビ局(日本テレビ)は認識していたわけです。で、正直「地上波で放送してくれるだけでもありがたい」と考えちゃう私。現在のラグビー人気は大したことはありませんから、すこしでも地上波で放送してくれればそれに越したことはありません。深夜の録画放送でも仕方ないというのが実情でしょう。これは徐々にでも人気を高めていかなければなりません。
そう考えると、今年行われるスコットランドとのテストマッチは、スコットランド側がいい選手を用意してくるかなと思います。日本がどう戦うか見ものです。
一方、サッカーの方はやはり予想通りというか、きっちり負かされました。こちらの記事より。
>長友佑都「W杯優勝なんて腹を抱えて笑われる」=サッカー日本代表
スポーツナビ 6月16日(日)9時48分配信
サッカー日本代表は現地時間15日(日本時間16日)、ブラジルのブラジリアでコンフェデレーションズカップ開幕戦となるブラジル代表戦に臨み、0−3で敗れた。日本は3分に先制されると、その後も48分、93分に追加点を許すなど力の差を見せつけられた。
以下は、試合後の長友佑都(インテル/イタリア)のコメント。
「レベルが違いました。すべてにおいてのレベルが違ったかなと。悔しい気持ちです。(前回対戦と比べて)むしろ差が開いているかなというレベルだと思います。向こうも本気を出してきていた。気持ちが入っていたし、これが本当の世界トップのレベルなんだなと感じました。僕は、ワールドカップで優勝を目指すと言ってきましたけど、腹を抱えて笑われるくらいのレベルだなと思います。
(ダニエウ・アウベスについて)言ってみれば、中学生とプロのレベルですよね。僕が中学生レベルで、向こうはプロレベル。ただ、レベルの差は感じつつも、自分のなかで1対1を仕掛ければやれるなという自信はあったし、もちろん素晴らしい選手ですけど、越えられない壁ではないと思いました。僕の努力次第だと思います。
あと2戦は勝つしかないです。引き分けでも厳しいし、やっぱり勝ちにいく。正直、今日のようなサッカーをしていたんでは、次の試合も勝てないと思うし、割り切って前から行くサッカーもしていかないと、厳しいかなって思います。
終わってから(本田)圭佑とも話しましたけど、やっぱり個のレベルが違い過ぎるんで、僕もそうですけど、今の日本代表の選手がブラジル代表に入れるかといったら、誰ひとり入れないと思います。本当に1人ひとりがトップを目指して、向上心や貪欲な気持ちを持っていかないと、この1年で差が埋まらないと思います」
私も見ていて、やっぱり格がちがうなと(いまさらながら)感じました。力の違いは仕方ありませんが、チームとしての組織力もいまひとつでしたね。これではどうしようもありません。
というわけで、次のイタリア戦は、どう調整して訂正していくかを見て行きたいと思います。