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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(68)

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一通り見終えました。

ちょっと中に戻ってみます。

拷問台ですかね。薄気味悪いものがあります。

こんなものがたわわに実っていました。

見物人の多くは白人だったことをこの写真を見てあらためて思い返します。

鉄条網がなんとも不気味です。

すごい力の女性です。

これは葬式かな?

 

コロニアルな建築が立ち並びます。

バイクなくして東南アジアは語れません。カンボジアではなおさらです。

カラフルな服が東南アジアらしいというべきでしょうか。

これまたプノンペンらしからぬ建物です。

なんだかいかにも南国の街らしい建物ばかりです。

(つづく)


ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(69)(追記あり)

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歩きます。「TOTAL」のスタンドがあります。フランス資本が進出しているということですかね。

韓国系の資本が入っているのでしょうか?

なかなかこれもすごい建物だと思います。

このあたりは、いかにも東南アジアらしい光景というべきですかね。

「しろふくろう」と日本語でも書かれています。なんだかは確認しませんでした。(追記:凡太郎さんからいただいた情報で、もつ鍋屋であることがわかりました。ただしすでに移転済みです。凡太郎さん、情報提供ありがとうございます)

外国人が増えるとともに、プノンペンにもおしゃれなカフェが急増中です。

これもなんだかよくわからない看板です。

工事中、なんですかね。

こういった写真を見ると、バンコクやホーチミンなどと比べると、プノンペンというのはまだまだのんびりした街だと思います。

あらら、なかなか凄惨な光景です。

物乞いかどうかは確認しませんでした。

外国人観光客と立派な邸宅という、なかなか変てこな取り合わせの光景です。

さらに歩きます。

(つづく)

親子で監督、選手の関係であること(2)

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昨年次のような記事を書きました。

親子で監督、選手の関係であること

  今日はその第2弾ということで。過日こんな記事が流れました。


 
[ホッケー]永井葉月「父、姉の3人で五輪」 女子日本代表候補選出

 4大会連続の五輪出場を決めたホッケー女子のさくらジャパンこと日本代表の選手たちが27日、東京都内で記者会見し、永井祐司監督(52)の次女でもあるMF永井葉月(21)=ソニーHC=が親子での五輪出場とメダル獲得を誓った。

 父、そして母の夢をかなえる舞台へ一歩近づいた。38人の代表候補に選ばれた葉月は「父と姉の3人でオリンピックに出たいという気持ちは強い」と日本の出場権獲得の喜びもそこそこに、次なる代表サバイバルへ気持ちを新たにした。

 ホッケー一家に生まれ育った。父だけではなく、母の理重子さん(52)は1986年ソウルアジア大会銀メダルのメンバー、スペインのレアル・ソシエダでプレーする姉の友理(23)も38人の代表候補の1人、弟の祐真(19)も立命大でスティックを握る。特に理重子さんは五輪に出られなかったこともあり「2人で選ばれて夢をかなえてほしい」と出場決定直後に声をかけられたという。

 もちろん娘もそのつもりだ。「母が出られなくて悔しいと言っていた。その分自分が出たい」。38人の代表候補は6月のメンバー発表までに4度の合宿と5度の海外遠征を経て選手16人と補欠2人にまで絞り込まれる。グラウンドでは「祐司さん」と呼ぶ父が掲げる「参加するだけでは意味がない。結果が期待されるのでメダル」という目標へ、厳しい選考を勝ち残る。 (川村庸介)

うーん、これもすごいですね。姉妹で代表でお父さんが監督というのもなかなかのものがあります。下は、スペインでプレーしているお姉さんの写真。

このブログでも、女子ホッケーの日本代表の記事を書いたことがあります。といってもその時の私は、女子ベラルーシ代表の方にお熱を上げていました。2012年のロンドン五輪の予選でした。

ホッケー五輪最終予選観戦記 DAY1(2012-5-3)

ホッケー五輪最終予選観戦記 DAY3(2012-5-5)

で、そのあと私は、ホッケーの試合を生で観ているわけではないのですが、しかしやはりホッケーは日本ではマイナースポーツですから、ある意味親がホッケーの関係者だから子どももホッケーの選手になるという可能性も高くなります。野球やサッカーなどですと、なかなか親子で超一流になるのも難しいですが、マイナースポーツですと層が薄いですから、相対的には可能性が高くなります。

それはともかく姉妹で日本代表ってのはすごいね。大したものです。記事に出ている永井姉妹は、岐阜県各務原市が地元のようですね。ここはホッケーの街です。私が応援に行った岐阜県グリーンスタジアムも当地にあります。

それにしてもお父さんというのも、息子が選手というのとはまた違った難しさがあるかもですね。永井姉妹はたぶん代表になるでしょうが、しかしもちろん親の立場としては、娘には他人よりも厳しい態度で接することになるでしょう。ただホッケーは交代自由なスポーツですから、そのあたりサッカーなどより起用は気が楽になるかもしれません。

ところで記事中

>グラウンドでは「祐司さん」と呼ぶ父

とありますが、ホッケーの習慣みたいですね。こちらの記事によると

>競技中は、慣例に従い父を「祐司さん」と呼ぶ。いまだに父娘とも照れる時もあるが、ブラジルの地で呼び掛けられれば悲願になる。

とのこと。グラウンドでは、親子の関係ではないですよね。上の写真は記者会見だからのものでしょう。

そういえば、今はそのような呼び方はしていないと思いますが、昔の女子バレーの日本代表の監督は、「先生」だったみたいですね。「大松先生」とか「小島先生」とか。山田さんあたりまでは、そのように呼ばれていたのかな。

でも、たとえばケガその他で自分の娘に引導を渡さなければいけないこともあるわけで、それは仕方ないとはいえ親としては因果な瞬間だろうなとちょっと同情しないでもありません。前の記事でも引用した話を繰り返すと、原辰徳の父親の原貢は、息子にこういったそうです。

>五分五分の力なら補欠だ。六分四分でも補欠。七分三分なら考える。おまえは耐えられるか

そしていけにえとして、息子に鉄拳をふるい続けました。さすがに女の子にはそこまでしないまでも、でも指導は厳しかったでしょうね、きっと。そうでなければスペインでプレーするような選手にはなれなかったでしょう。

オリンピックでこの3人が親子で監督、選手の関係であるかはまだわかりませんが(監督を解任される可能性もあります)、でもぜひ頑張っていただきたいと期待しまして、本日の記事を終えます。

今日はアニセー・アルヴィナが亡くなった日

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今日は、2006年にフランスの女優であるアニセー・アルヴィナが亡くなった日です(11日という資料もあります)。彼女は1953年生まれですから、存命していればもう60歳を超えています。

何回も書きますように、このブログはアニセーについての記事を発表するために開設したものであり、映画も社会ネタも旅行も美女も、最終的にはついでのものでしかありません。可能な限りアニセーについて読者の方がご興味を持っていただければと考えています。彼女のことを知らない方も、彼女について少しでも関心を持っていただければ、私にとってこんな喜びはありません。

といっても最近は、彼女が亡くなった11月と誕生日の1月くらいしか記事を書けないのですが、そして最近アニセーについてのネタがないのですが、今回のお亡くなりになった日には間に合わなかったのですが、来年の彼女の誕生日(1月28日)には、アニセーの貴重な対談を記事にできると思います。といっても私もまだ未読ですので、面白いかどうかはこれからです。

というわけで、今日は写真1枚で申し訳ありませんが、来年の1月の記事について乞うご期待。

たぶんこの人は、知的障害者か何かだと思う

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過日報じられた記事を。

>30年間仕事せず父の年金で…“住宅2遺体”逮捕の男

テレビ朝日系(ANN) 11月7日(土)11時55分配信

 福島県西郷村の住宅から母親と父親とみられる遺体が見つかった事件で、逮捕された長男は約30年間、仕事をせず、収入は父親の年金だけだったことが分かりました。

 西郷村の無職・小磯信幸容疑者(48)は、92歳の母親の遺体を自宅に放置した疑いが持たれています。小磯容疑者は「遺体をどうしていいか分からなかった」と話していて、容疑を認めています。また、自宅の小屋からは、白骨化した父親とみられる遺体も見つかりました。関係者によりますと、小磯容疑者は中学を卒業後、仕事に就いたことがなく、収入は父親の年金のみだったということです。警察は、年金が振り込まれた銀行の通帳を押収するなどして調べを進めています。

最終更新:11月7日(土)13時26分

以上、大して情報のない記事ですが、もう1つ

>「気付いたら死んでいた」 西郷の死体遺棄容疑の長男

福島民友新聞 11月8日(日)7時16分配信

 西郷村の民家で5日、夫婦とみられる2人の遺体が見つかった事件で、白河署に死体遺棄容疑で逮捕された長男の同村、無職小磯信幸容疑者(48)が、母親(92)の死亡について「気付いたら死んでいた」と供述していることが7日、同署への取材で分かった。遺体は死後、半年以上経過しているとみられる。

 小磯容疑者は仕事に就かず、同居する両親が死亡したとみられる後も両親の年金を受給していた可能性があり、同署によると、「自宅にある現金で生活していた」と供述しているという。父親(80)とみられる男性の白骨化した遺体は死後、1年以上経過しているとみられ、同署は死体遺棄罪の時効の3年以上たっている可能性もあるとみている。同署は7日、小磯容疑者を地検郡山支部に送致した。

福島民友新聞

こちらも。

>に母親の遺体を放置したとして、福島県警は死体遺棄の容疑で、福島県西郷村の無職の男( 48 )を逮捕したと発表した。自宅そばの小屋からは、父親とみられる遺体も発見された。

死体遺棄容疑で逮捕されたのは、西郷村の無職・小磯信幸容疑者( 48 )で、2 人が死亡した経緯などについて調べる。

福島県警によると、5 日 15 時頃、西郷村熊倉の住宅を訪ねた警察官が 1 階の和室で布団に横たわっている女性の遺体を発見した。高齢者への記念品を届けようと複数回にわたってこの家を訪問していた村役場の職員が、高齢の夫婦がいつも不在にしていることを不審に思い警察に相談したことから事件が発覚した。

遺体はこの家の 92 歳の女性と見られ、警察がこの家に暮らしていた無職の小磯信幸容疑者( 48 )から事情を聴いたところ「 遺体は母親で放置していた 」などと話したことから 6 日未明、小磯容疑者を死体遺棄の容疑で逮捕した。

小磯容疑者は両親と 3 人暮らしで、自宅の小屋からは白骨化した父親とみられる遺体も発見された。

県警では 2 人が死亡した経緯などについて詳しく調べる方針。

たぶんこの男性は、知的障害、発達障害のたぐいでしょうね。だからとても仕事なんかできるようなものではなかったし、例えば親が死んで、年金がなくなって生活手段がなくなったらそれでどうすればいいかということもわからなかったのでしょう。そして、死んだら死亡届を出すとか、そういったことも実行する能力も低かったのでしょう。年金詐取というのも、どれくらい故意なのかはきっちり調べなければいけませんが、はたして本人からどの程度の供述が得られるか難しいかもです。警察が描いたストーリーをそのまま調書に書く、というようなことがなければいいのですが。

兄弟姉妹の有無とかも上の記事からはわかりませんが、母親が92歳で、この人が48歳ということは、母親が44歳くらいの時の子どもなんですかね。この人はたぶん1967年生まれくらいでしょうから、その時代の医療水準とかを考えれば現代をはるかに上回るかなりの高齢出産です。とすると兄か姉はいる可能性が高そうですが、幼くして亡くなったとか連絡がつかない状態にある可能性もあります。そうだとしたらそれもどうかです。いずれにせよ決して短くない間親と連絡が取れなくても特に不審に思ったりもしない程度の関係だったということでしょう。たぶん近隣や親戚なども、あまりかかわりあいたがらなかったんじゃないんですかね。

年金の不正受給ということもさることながら、たぶんこの男性に金を稼ぐ能力はないんでしょうね。それであれば、行政に助けを求めるとかほかになんとかする手段を見つけなければいけなかったんですけどねえ。なかなかその手助けをしてくれる人もいなかったのでしょう。

こういうのは、本来なら地域の民生委員とかが見守ってほしいところでもあるんですが、結果的に高齢者の独居者でもなかったからそのあたりから抜け落ちていたんですかね。

今回逮捕された人に対しては、不起訴になるか起訴になるか、実刑になるかどうかは今後の話ですが、かりに刑務所に入ることになったとしても、そのあとが心配ですね。たぶんこの人にお金を稼ぐ能力はない。施設のたぐいが引き取ってくれればいいのですが、どうなることか。

前に、知的障害者が、ほとんど行政からも地域からもまともに相手にされてもらえず、それで最終的には強盗殺人事件をしてしまって、死刑が確定した事件をご紹介したことがあります。

行政その他の支援がなかったことが非常に悪い事態をもたらした大きな要因と思われる強盗殺人事件の実例

この事件の場合、行政なりなんなりがもう少し犯人に対して支援をしていれば、少なくとも強盗殺人事件までは引き起さなかったと思います。世間から完全に見捨てられて、それで取り返しのつかない犯罪をしてしまい、そして死刑まで確定してしまいました。今回の事件では、この男性はそこまでひどい状況になる前に警察が介入する事態になりましたので、あるいはこれを機に何らかの支援が実現するかもしれません。それならむしろそちらのほうが幸いかもです。いずれにせよこの男性の能力ではなにもどうにもならないと思います。どうにかできるのは、周囲であり、行政その他です。

はじめてセルフでガソリンを入れた

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このブログでも書いているように、私は車に興味がないので、大学生のころは、クラウンを「これはカローラだ」といわれればすぐ信用しました。というか、疑おうにも、全然関心がないから、信用するもしないもないのです。興味がなければ人間そんなものだと思います。

といいますか、当時はマニュアル車とオートマチック車の区別についても知らなかったし、実のところ運転免許なんて取得しようとはからきし考えていたなかったので、車なんてものは私の関心からは完全に離れていたわけです。そして今日でも、全く車に興味はありません。自分の車も持っていません。しかし免許の方は、大学を卒業したら、取得を余儀なくされました。教習所に通いながら、あれ、私免許を取らないでも済む人生を予定していたのだがなあとかつまらんことを考えた記憶があります。どっちみち過去の話です。

それでこちらの記事でも書きましたように、今年の2月、はじめて自分でレンタカーを借りて乗りました。公共交通がないところだったので、タクシーで行くかレンタカーのどちらかだったので、それならレンタカーに乗ることにしたのです。それまでレンタカーに乗ったことは人生で2回ありましたが、それは2回とも私以外の人が手続きをしてくれたので、自分で手配して乗ってガソリンを入れて返したのは初めてだったわけです。

それでその時は、ガソリンはフルサービスのスタンドで入れました。どっちみち私はセルフでガソリンを入れられないので、フルサービスで入れるしかなかったわけです。

しかし先週4日、めずらしく私が車を運転していたところ、いろいろありまして、かなりガソリンがやばくなりました。仕方ないからセルフの某スタンドに車を入れました。よっぽどスタンドの店員さんに、

「すみません。入れられないので入れてくれますか」

と頼もうかと思ったのですが、他人がガソリンを入れるのを見たことはあるので、それにならって私も入れればいいと思ったので、自分でやってみることにしました。

しかし・・・。あれ、この車どうやってガソリンを入れるところ開けるの、量で入れるか、あらかじめ決めた金額で入れるか、そもそもこの車、レギュラーなの、とか実にさまなまな難題が私に降りかかりました。

最後のは、たぶんレギュラーであろうと思いましたが、あとは知らないことばっかりなので大変な苦労をしました。

けっきょく(私の車ではないので)1,000円分だけガソリンを入れることができました。それで無事車も発進できました。ガス欠にならないでよかった。

さて、私は国際免許は持っていないので、どっちみち海外では車の運転はできません。が、左側通行の国だったら車の運転もしてみてもいいかもですね。右側通行の国はいやです。ちょうどアイルランドと英国に行ってきたばっかりですが、英国の田舎やアイルランドの田舎などなら車の運転も悪くなさそうです。

私は基本的に移動手段の優先順位は、鉄道→飛行機→バス・・・・自分で運転する車という人間なので、基本的に車を運転するのが非常に苦手だし嫌いなのですが、たまには自分が運転する車で移動してみるのも、旅行がより立体的になって面白いかもです。

それで全然話は違いますが、ついに12月から二輪の免許をとるためしばらくぶりに教習所へ行こうと考えます。いずれは大型の免許を取って、「イージー・ライダー」でも見習って旅に出も出るか。もちろん私は、撃ち殺されないように気をつけます。

ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(70)

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とりあえず独立記念塔に向かって歩きます。一応プノンペンのランドマークです。

このあたりは、ホーチミンなどと比べてもだいぶ穏やかな雰囲気です。

見えました。独立記念塔です。

火がめらめら燃えていました。

なかなかかわいい女の子です。

あいにく敷地内には入れません。

緑地帯が広がっています。

ホテルへ戻ります。

いまにしてみれば、ここで肉を食べてもよかったと思います。

なかなか明るそうなお母さんです。

う・・・スカート短い。この写真でカメラのバッテリーが切れました。ホテルに戻ってバッテリーをチャージして、また外に繰り出します。

中央郵便局(GPO)に向かいます。

この女の子は、はだしですかね。

こういうあたりは、まだまだインフラ整備が整っていないのかもです。

こういう恰好で歩くのは、白人ならではです。

(つづく)

ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(71)

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だいぶ陽も落ちてきました。

もう夕方なので、だいぶバイクも増えてきました。

絵葉書を出すために中央郵便局に行きます。考えてみれば長きにわたって旅をしているので、いろんな国の中央郵便局のたぐいを訪れたなと思います。

黄色い建物が、セントラル・マーケットです。

物乞いかどうかは確認しませんでした。

遠景の高層ビルは、やはりプノンペンの街にはそぐわないように思います。

彼女もなかなかきれいな女の子です。

けっきょく中に入るには至りませんでした。

うーん、派手な建物です。これは中国人の好みですかね。

この女の子も、なかなか個性的ながらのシャツを着ています。

やはり東南アジアですから、二人乗りが多いですね。

木がうっそうと茂っていてなかなかいいと思います。

こういうところで一休みしてもよさそうです。

鶏を売っています。

仲良く手をつないでいて何よりです。

うーん、なんか奇妙な光景。

建物のパステル系の色がきれいです。

なぜナンバーがないんでしょうか。

プノンペンの女子高校生? 失礼ですが、あんまりかわいくないなあ(ごめんなさい)。左側の子はまあまあだけど。

中華航空(チャイナエア)の事務所ですかね。

 女性同士腕を組むのは、アジアでのありふれた光景です。

(つづく)


ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(72)

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新年を祝う(すでに「祝った」か)飾りが見えます。

このように中国系資本が世界中に進出するわけです。

女性に関する省庁ですかね。

ホーチミンほどバイクの洪水ではないので、それなりに歩きやすいかなとは思います。

大きなビルです。

ようやく中央郵便局につきました。

子どもも遊んでいます。

数人の人に絵葉書を出します。いまの時代、はがきというのは通信手段としてさしたる意味を持ちませんが、それでも出すのは楽しいものがあります。

私もそうですが、この人のほかにも、中にいるのは外国人が目立ちました。

ではまた街の真ん中へ向かって戻ります。

左側の男性、シンハビールのシャツを着ているくらいで、なかなか東南アジアにはまっているのかもしれません。

夕暮れのモニュメントがきれいです。

ボール遊びをしていた少年にボールを返してあげたら笑顔を返してくれました。

さらに歩きます。

(つづく)

古典的な名前が若干復活しつつある?

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こういう話を真に受けると、全然話が違うじゃんと思う例が少なくないので何とも言えませんが、過日読んだ記事を。

>キラキラネーム頭打ちか 古風な「子」や「太郎」に回帰傾向

NEWS ポストセブン 11月14日(土)7時6分配信

 世界でひとつの名前だから。かっこいいから――そんな理由で子供につけたキラキラネームが増えつつあり、問題となっている。その一方で今、「古い」「ダサい」と敬遠されていた「子」がつく名前をはじめ、昔ながらの名づけに回帰する流れが出てきている。

 スマートフォン向けアプリ「赤ちゃん名づけ」を提供するリクルーティングスタジオが11月5日に発表した「2015年赤ちゃん名づけ男女年間トレンド」によると、漢字一文字の名前は相変わらず人気の中、9位に「文子」、19位に「徳子」が入り、「美由紀」も10位と懐かしい名前がランクインしている。

 赤ちゃんの名づけランキングは、明治安田生命や雑誌「たまひよ」が発表しているものなど多数あり、採り方によって順位も、入る名前も全く違う結果になる。そのため、ひとつのランキングから人気の名前を判断することはできないが、キラキラネーム問題の反動で、名づけに古風な名前を好む流れが出てきていると、命名研究家の牧野恭仁雄さんは語る。

「文子や徳子といった名前は偶然ある期間に出てきた名前かもしれませんので、必ずしもこれらが復活してきた名前とは言えませんが、奇抜な名づけに対する揺り戻しを、私も今年あたりから感じています。1年ごとに集計して見ただけではわからないことも、名づけ相談をたくさん受けていますと、かなりリアルタイムに流れが変わってきているのはわかるのです。名づけの条件を聞くと、今まではいなかった、キラキラネームだけは絶対に避けたいと言う方はかなり増えています」(牧野さん、以下「」内同)

 キラキラネームの定義は明確ではないが、いわゆる奇抜で読めない名前、人の名前の常識から外れた名前は今でも相当数増えており、現実に、学校で先生に名前が読めないと不愉快な顔をされたり、病院の受付で混乱が生じるなど様々な問題も起きている。

「奇抜な名前をつけたことで世の中から批判されたり、嫌みを言われたり、迷惑がられていると感じている人は結構いるんです。現実に困ると実感して、つけた後に後悔する親が多い。そういう例もたくさん出てきたので、だんだんとみなさんの考え方が変わりつつあるのかなと。名づけの際に、はっきり意識している人は出てきています」

 実際、牧野さんが受ける名づけの相談では、古風な名前を希望する人が増えているという。男の子の名前では、一時期少なくなった「~太郎」「~一郎」「~之介」といった三文字名前を希望する人がかなり多く、音読みの名前も好まれているという。例えば、“ひろき”など音読みと訓読みが混じった名前ではなく、“こうよう”“りょうせい”といった音読みのみの名前だ。昔の芸術家や文筆家が使うペンネームのような、古風な雰囲気が好まれているのだという。

「女の子の場合は、そういうはっきりした条件ではありませんが、確かに“子”がつく名前を好む方は、一種の回帰現象のように2、3年前から増えつつあります。戻ったとは言えないが揺り戻しのような、日本人が昔からつけている、伝統的な名前の方がいいと思う人が増えたのだと思います。

 逆に言うと、キラキラネームというのははっきり言えば、あまりにも陳腐で軽い名前なのです。世界にひとつしかないと言ってみても、これだけ奇抜な名前が増えると、逆にそんな名前はありきたりになっていますから。ただ奇抜なら面白い、個性的だという考え方は、今はもう頭打ちになっている状況だと思います」

 実際に、奇抜な名前が受験や就職にハンデになっていることも影響している。

「あまりにも悪ふざけのような名前だと、親が暴走族出身なのかと、ろくな親じゃないと連想され、面接のときに不利になるともかなり言われています。学校側もモンスターペアレンツではと連想しますから。そういう話もかなり広まっているのではと思います。ちゃんとした名前をつけようという方は増えていますから、これから日本人らしい名前に戻っていくのではないでしょうか」

 もともと「子」は、身分の高い男性の名につけられていた。平安時代以降は、子型の名前は貴族の女性名として広がり、明治時代あたりに庶民にも普及したとされている。一文字名前やキラキラネームが溢れる今だからこそ、美しい響きを持つ古風な名前の良さに改めて目を向けたい。

実は私も、女性の名前は「子」がつく名前に限ると考えているような人間なのですが、「子」はつかなくても名前というのはある程度保守的であるほうがいいと思います。単なる私の趣味ですが。

そこで前にこんな記事を書いたことがあります。

そうなの? そうすると、日本は私にとっては非常に生活しにくい社会になる

その記事での引用に、次のような文面がありました。

>さらに同時期の「女性の名前ベスト10」の変化を調べると、ベスト10から「子」の付く名前が消えたのが1986年。その後は、個性的な名前が増えて来ている。
個性的な名前が増えてきたことも、自分を名前で呼ぶようになった理由のひとつ。
より個性をアピールできるので、コミュニケーションを深めることに役立つという声も多かった。

じゃあ古典的な名前に回帰すれば、自分のことを名前で呼ぶ女性が減るんですかね。そうなら私には、たいへん都合がいいということになります。さんざん書いているように、私自分のことを名前で呼ぶ非常に女性が苦手なもので。

このような事件は本当にどうしようもない

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パリには、ずいぶん昔1度行っただけなのですが、今回のテロは、パリが非常に危険な状況であることをあらためて認識させられました。なにしろ1年に2回、大規模なテロが起きたのです。ここ最近、いわゆる先進国、あるいはそれに準ずる国で、このようにテロが続けざまに起きた事例は、イスラエル以外は、いやイスラエルだって最近は、このような大規模なテロは起きていないんじゃないんですかね。ロシアでチェチェンがらみのテロが頻発したことがありましたが、それ以来かな。そうでなくても非常に危険です。

今年1月のシャルリー・エブドの事件などと比較しても、規模や死傷者数の違いもさることながら、私が危険に思うのは、シャルリー・エブドでは、目標は設定されているテロリズムだったわけですが、今回は無差別テロだったことです。先進国でこのようなテロは、日本の2つのサリン事件(松本サリン事件地下鉄サリン事件)や米国での9.11同時多発テロ事件などが思いだされます。今回は、9.11にははるかに規模が小さかったとはいえ、地下鉄サリンよりずっと大規模です。先進国では、そうそうめったにない規模のテロです。

私は、ユダヤやキリストやイスラムの神、あるいはイエスやムハンマドを揶揄るのは良くないと思いますが、しかしだからといってあんな殺戮をしなくてもいいと思います。「いい」なんて思う人もめったにいないでしょうが、今回の事件は、おそらく犠牲者にイスラム教徒は確実にいるし、またことによったらイスラム過激派やイスラム国を支持している人たちだっていないとも限らない。しかしもうそんなことは知ったことではないわけです。ともかく人を大勢殺して社会を震撼させること自体に意義を見いだしているのだから、これもどうしようもない。

それで、今回の事件といい、シャルリー・エブドの事件といい、犯人たちは助かろうと思っていないのが怖いですね。9.11もそうでしたが、地下鉄サリン事件などは、実行犯はみな逃げている。けっきょくみな逮捕されましたが、実行犯(ついでに麻原彰晃も)死ぬ気だったり自殺する気はなかったわけです。今回の犯人たちは自爆をするつもりだったわけで、それで多くは自爆を既遂しています。どうしようもないですね。

死んだっていい、じゃなくて初めから死ぬ気だったら、どうにもなりませんね。犯罪の規模とか性質は違いますが、ストーカー殺人などで犯人が殺人後に自殺することがあります。ストーカー殺人は、刑罰は死刑をふくむそれなりの厳しいものになることもありますが、犯行をする際は、そんなことは消えているのだから、死刑その他の刑罰の恐れも大したことはないわけです。あるいは自殺はしないかもしれませんが、犯行を実行してしまえばこれまたどうしようもない。

この種の、一般市民を巻き込み、しかも自分の命をも顧みないテロ事件は、そのはしりと思われるものの一つが、いわゆる日本の赤軍派のメンバーが1972年に起こしたテルアビブ空港乱射事件でしょう。岡本公三ら3名によって実行されたこの事件では、Wikipediaによると

>この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。

>死者のうち17人がプエルトリコ人(アメリカ国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。

というわけで、まさに被害者数の多さといい、死者がイスラエル国籍ですらない人たちが多数を占めるくらいの、無差別襲撃、虐殺ぶりでした。Wikipediaではこの事件について

>当時は、テロリストが無差別に一般市民を襲撃することは前代未聞であり、事件は衝撃的なニュースとして全世界に伝えられた。赤軍による民間人への無差別虐殺には国際的な非難が起こった。

とあります。

ここで重要なのは、あきらかにこの時赤軍派は、ひとつのタブーを打破したということです。つまり無関係な一般市民も殺害してかまわないと。そういうことをしたら、支持も集まらんぞというような常識は通用しません。一部の人間が支持してくれるかもしれないし、そうでなくったって最終的には構わない。それにしても、パレスチナにしてもチェチェンにしても北アイルランドにしても、バスクにしても、フランスでひところ激しかったコルシカ島でのテロなどは、いわば分離・独立、そうでなくても自治権、北アイルランドなどは、カトリック側はアイルランドとの統合を要求しているわけですが、フランスのこの一連のテロは、日本のオウム真理教同様騒ぎを起こして世界の注目を集めることが目的の1つですから、ある意味めちゃくちゃですよね。いかに凄まじいことをすることかということに目標の一つを置いているわけですから。

それにしても、日本赤軍も、この事件以降はさすがにこのような大量虐殺テロ事件を起こすことはなかったし、オウム真理教も犯人たちと麻原が逮捕されてからはテロをさらに実行することは出来ませんでしたが、今回の連中はどうなんですかね。次なるテロリスト志願者なんかたくさんいませんかね。それで、今回の事件では、スタジアムは警備の対象になりますが(この時オランド大統領がいたくらいで)、ほかは劇場とかレストランなどで、こんなの警備のしようがないですよね。オリンピックとかサミットのように短期集中で警備するとか、政府の建物、軍事産業の建物(かつて三菱重工がねらわれたことがありました)、大使館などの危険性が明らかなところではありません。フランスなり日本なりのようなそれなりに自由な社会でそんなに厳しい警備をし続けるわけにはいかないし、することもできないでしょう。それで、つぎなる実行犯のリクルートもそんなに難しくないかもです。

 おまけに武器だって爆弾のほかにAK-47とかなんだから、入手もそんなに難しくない。つまりこんなのは、米国でしょっちゅうある銃乱射事件と同じく、防げないわけです。あの種の乱射事件も、警官に射殺されなければ自殺する場合が非常に多い。どうしようもありません。

だから私が何を言いたいかというと、こんな事件防げないし、当分テロの脅威は続くということです。日本も、集団的自衛権なんて言っていたら、格好の標的になるでしょう。

そういうことを勤務中にしないでほしい

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過日、拙職場にて。ある女性と面談していて、その件は終了したので私が席を立とうとすると、その女性は私に、

「お仕事中申し訳ないですが」

と言って、色彩の強いパンフレットを丸めて私に差し出しました。そして去っていきました。

そのパンフレットを見て、なんとなく嫌な予感がしたのですが、一応受け取り、自席で確認すると、やっぱりでした。

ものみの塔

エホバの証人て、初心者には「目ざめよ!」を配るんですが、より進んだ人が目を通す「ものみの塔」をその女性は配ってきました。それにしても題名からして、「目覚めよ!」が初心者のものであることはわかるというものです。

でもさあ、私も勤め人なんだから、勤務中にそういうものは配らないでほしいよね。ものみの塔(雑誌名でなく組織のほう)は、信者に伝道のノルマを課しているので(建前はともかく、実際にはあります)、私にパンフレットを渡すことも伝道の実績になるわけです。

その女性も、私が迷惑をするということは重々承知なので、「お仕事中・・・」ということを言ったし、他人が気づかないように差し出したわけですが、そういう風に気配りができる人なのだから、そのあたりは社会常識をもって行動してほしいなと思います。

ところでその女性と仕事の関係でお会いしたのは2回目ですが、前回・今回ともに長めのスカートをはいていました。理由は知りませんが、エホバの証人の女性は、私の知る限り100%(長めの)スカートをはいています。パンツの女性というのは見たことがありません。香港でもそうでした

これもやはり古臭いジェンダー意識のなせるわざなんですかね。それもどうかです。なお私は上で

>長めの

と書きました。つまり短いスカートはまず絶対はきません。NHKの女子アナのような膝が見えるスカートは不可のようです。それはなんとなく理解はできます。

実は私も、たまに彼(女)らを冷やかすことはあります。「目覚めよ!」や「ものみの塔」をもらって自宅に持ち帰ったりして読むわけです。私は、この組織に関してもいくつか本を読んでいて勉強をしています。

信教の自由にかかわるのでめったなことは言いませんが、こちらの本は面白かったと思います。

輸血拒否の謎

ロムーの死を知る

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ニュージーランドのラグビー選手だったジョナ・ロムーの死を知りました。記事を。

>ラグビー界の世界的スーパースター、ジョナ・ロムーが死去。40歳。

ラグビーリパブリック(ラグビーマガジン) 11月18日(水)12時3分配信

オールブラックスのレジェンド、ジョナ・ロムーが亡くなった。11月18日あさ、オークランドで息を引き取ったという。40歳だった。ニュージーランドのメディアが一斉に報じた。『3NEWS』によれば、今年のワールドカップでプロモーション活動をおこなったあと、家族とドバイで休暇を楽しみ、前夜にイギリスから帰国したばかりだったという。

まさに伝説の男だった。トンガ人の両親のもとにオークランドで生まれ、身長196センチ、体重120キロ前後あったロムーは、1994年にオールブラックス史上最年少の19歳45日でデビュー。翌年に南アフリカでおこなわれたワールドカップでは、準決勝のイングランド戦で4トライを挙げるなどパワフルな走りで世界中を驚かせ、「怪物」「空飛ぶ巨象」「暴走機関車」と呼ばれた。1994年から2002年にかけてテストマッチ63試合でプレーし、37トライ。ワールドカップは1995年と1999年の2大会に出場し、大会通算最多の15トライを記録している。

 ラグビーがプロ化されてまもなく現れたエキサイティングなスーパースターに世界中は興奮し、アメリカンフットボールのNFLチームも彼の獲得に動いたことがある。シャイで優しい性格も多くの人に愛された。

 グラウンド上では屈強な大男だったが、1996年にネフローゼ症候群(重い腎臓疾患)と診断され、やがて楕円球を手に走ることはできなくなった。2003年に腎臓機能が悪化して人工透析を開始。しかし2004年に移植手術を受けて成功し、翌年、ラグビープレーヤーとして復活する。ノースハーバー(NZ)、カーディフ(ウェールズ)、国内のクラブチームでプレーを続け、2007年のワールドカップ出場をめざした。その夢は叶わなかったものの、己に克ち、闘い続けた勇敢なファイターだった。

 ラグビーを引退したあと、ボクシングイベントやボディビルの大会にも出場していたロムーは、トレーニングや激しいダイエットも影響したか、やがて腎臓の機能が低下する。2011年の自国開催ラグビーワールドカップで開会式に登場して大歓声を浴びた数日後から、再び透析治療などを受けていた。

 その後、病と闘いながら、ラグビー大使として世界中を飛び回り、学校や病院も訪問していくつものチャリティーワークをおこなうなど、精力的に活動していた。ユニセフ・ニュージーランド親善大使のほか、2019年ラグビーワールドカップ日本大会のアンバサダーでもあった。

なお、上の写真のキャプションには、

>ロムーが2008年にサントリーを訪問した際の貴重なショット。写真左からエディー・ジョーンズ、ジョナ・ロムー、ジョージ・グレーガン、清宮克幸の4氏。(撮影:BBM)

とあります。これも今となってはなかなか貴重なショットです。

本当に急死だったようですね。私の勝手な考えだと、たぶん国外へ長く滞在していたのが相当に身体に悪かったのかなと思います。なんともいえませんが。ロムーの体調が良くない、腎臓病を患っているというのは知っていましたが、現実に亡くなったというと、いろいろな点で驚きます。あるいは、過日のワールドカップにおける活動もかなりの無理があったのかもです。

オールブラックスのメンバーとしては、1995年と99年のワールドカップに出場しましたが、優勝にはいたりませんでした。「インビクタス/負けざる者たち」でも描かれた95年の決勝の動画をご紹介します。その時のウォークライ(「ハカ」)では、南アフリカの選手にまさに飛び掛らんばかりに近づいていったのが印象に残ります。写真はその時のものです。南アフリカ選手の至近でジャンプしているのが彼です。

Rugby World Cup 1995 New Zealand vs South Africa

ロムー以前は、彼の体格でしたら、FWが当然の時代でした。たぶんロックにでも選ばれたかもですが、彼は大男で足も速いというまさにプロ時代のラグビー選手にふさわしい選手でした。95年がちょうどラグビーがプロ化するときでしたが、そう考えると1975年生まれの彼は、まさに新しいラグビーの時代にふさわしい人物だったということでしょう。

ところがそれでもワールドカップで優勝できなかったのは運命のめぐり合わせですかね。サッカーでも、ウヴェ・ゼーラーパオロ・マルディーニなど、自分がワールドカップに出る前と後の大会では優勝できたのに、自分が出場した時は自国が優勝できなかった不運な選手がいますが、ロムーの母国ニュージーランドも、1987年に優勝してからは、2011年まで実に24年間優勝を待たなければなりませんでした。

2011年のニュージーランドで開催されたでも彼は開会式でも中心の役割を果たしていたくらいで、単にすごい選手というだけでなく、時代の変化を象徴する立場だったのだなと思います。そう考えると、サッカーのヨハン・クライフみたいな選手に近いところもあったと思います。クライフも、やはりトータルサッカーのリーダーとして、サッカーの変化を具現した選手でした。

これは単なる偶然ですが、そういえばクライフもワールドカップ優勝はできませんでした。もっともクライフは、私が見た何かのインタビューで、でも我々(オランダ代表)は、新しい時代を作ったよ、みたいなことを言っていた記憶があります。1974年のオランダ代表と1995年のニュージーランド代表では立場も状況も違いますが、いずれにせよそのチームや時代を象徴する選手であったことは確かです。そしてロムーは、屈強な体格と相反して、健康にはめぐまれませんでした。ご冥福をお祈りして今日の記事を終えます。

アホな記憶

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ずいぶん昔、母子が書店で、クイズの出しっこをしていました。その際の話。

母親「男性、女性、ニューハーフ、女性と結婚できないのは?」

横を歩いている男性(=私)「女性」

すたすた歩き去る私に対して、お母さんの「あ・・・正解です・・・」という声が聞こえました。ごめんなさい、あの時のお母さん。親子のふれあいを邪魔して。

ただ日本で同姓婚が認められれば、このクイズも意味がなくなります。そう考えると、こういうクイズもよかれあしかれ時代の変化と無縁ではないと思います。

ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(73)

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なんだかだいぶ人通りが多くなりました。車やバイクも激増です。

なんだかよくわかりませんが、政治集会のたぐいが開かれていたようですね。ちょっと社会見学します。

子どもも、親が連れてきたのでしょうが、いました。

けっこう老若男女幅広い世代の人たちがいました。この女性もなかなか美人です。

手前の子ども、黒い肌と白い眼が印象的です。

彼女はカメラ目線なんですかね?

このようなかなり若い女性もいました。

うーん、あまり裕福そうには見えませんね。

僧もいました。オレンジ色の僧服が鮮やか。

うーん、こういう風に見つめられるとちょっと私も引いてしまいます。

で、檀上では演説らしきものが始まりそうです。

服装も、手前の女性のような厚着の人もいます。ちなみに私はワイシャツを着ていました。私はだいたいいつもワイシャツを着ています。

リーダー格(?)の人がマイクを持って演説をしています。

写真を撮っていた私は、あるいはかなり怪しい人間に思われていたのかも。たぶん思われていたのでしょう。

寄付のお金を受け取っていたのか・・・。

壇上からも写真を撮っています。奥にいるネクタイ姿の写真の男性は、シアヌークですよね? 母は、彼と握手したことがあります。私も、変な身内を持っています。

女性MCまで登場します。

歌まで披露されます。うーん、何がなんだかよくわからない集会です。

離れます。こういう時にテロが起きる可能性もありますので、あまりこういったところには近づかない方が無難です、って私は物見高いのでいつも近づきます。

「VOTE」ってあるから、やっぱり政治集会なんですかね。

(つづく)


ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(74)

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近代的なビルのすぐ近くにこのような建物があるというのも、プノンペンらしいといっていいかもしれません。まだまだ素朴なところの残る街です。

だいぶ陽もくれてきました。

空がきれいです。

こういう空の色私好き。

ホテルに戻ります。

少し休んでまた夕食を食べに行きます。元気のよさそうな子どもですが、彼らも貧しそうです。

鶏がつるしてあるのは写真としていい光景です。

「Shabu Shabu」ですって。寿司のビュッフェもあるんですかね。それなら社会勉強で食べてみても面白そうです。

ここは北朝鮮政府直営らしい北朝鮮レストランです。中に入ってみますが、写真不可につき写真はなしです。ごめんなさい。

それでコンサートがあったので私も聞いていたら、映画「タイタニック」の主題歌を歌っていました。私思わず

米帝の歌なんか歌っていいんかよ!!!

とは言いませんでしたが。なお北朝鮮レストランでの冷麺は格別ですので、いかれる機会があったら是非お試しを。

(つづく)

ホーチミン、プノンペン、ソウル紀行(2013~2014)(75)

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北朝鮮レストランを出てホテルに戻ります。なお私は、現段階では、ヤンゴン、ヴィエンチャン、プノンペン、北京の北朝鮮レストランへ行ったことがあります。今度は、丹東あたりのレストランに行ってみたいものです。中国東北地方その他のレストランも面白そうです。

なんだかわかりませんが、明るい表情の女の子です。

うーん、おいしそうですね。

なかなかいい写真でしょ。

彼女もなかなかかわいい女の子です。

このように夜の外でこのプラスティックの椅子に座ってだべるのも、典型的な東南アジアの風景です。

漢字ですから、中国系の店舗なんですかね。

子どもの姿がなかなかいいでしょう。

どうです。なかなかいいでしょう。

そんなことを考えていたら、葬式をやっていました。故人は華僑の方ですかね。

それにしても夜でも子どもが目立ちます。

コーヒービーンアンドティーリーフでひと休みです。

このようなコンビニも増えたようです。水を買います。

いよいよ明日は、プノンペンを去ります。

(つづく)

ね、私の書いた話は間違いじゃないだろ(2)

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昨年私は、次のような記事を書きました。

ね、私の書いた話は間違いじゃないだろ

この記事で私は、スポーツ雑誌「Number」が、ソチ五輪で金メダルを取った羽生結弦よりも、6位に終わった浅田真央を大きく取り上げて最大級の賛辞を送っていることを揶揄りました。

それで、同じ雑誌が次のような号を出版しました。

Number(ナンバー)890号 浅田真央 スマイルアゲイン

・・・もう大特集ですか(苦笑)。何をいまさらながら、浅田真央への特別扱いに苦笑する、っていうところです。

浅田真央が、ISUGPシリーズで2連勝して、それでグランプリファイナルでも優勝したとか、日本選手権で優勝したとかなら、まあ表紙でもいいけど、この雑誌が発売された時点では、たかがまだ1戦勝っただけじゃないですか(笑)。いや、それは14~15シーズンを休んで、それで復活して大きな大会で勝ったのは本当にすごいけど、浅田真央じゃなければ、さすがにスポーツ専門誌の表紙にはならんでしょ(笑)。どんだけ特別扱いなんですかね、浅田真央って。そうなったのは、もちろん別に彼女が悪いわけじゃないけどさ。

つまりは、浅田真央を表紙にすれば雑誌の売り上げがいいってだけの話ですけど、いやー、日本人てほんと浅田真央が好きなのねっていうところです。私みたいに、浅田真央大っ嫌いって公言するような人間は異端なわけです。そんなことはもちろん知っていますが、なにをいまさらながらに痛感します。なにしろ、浅田真央を嫌いな日本人はいないそうですから

あ、断っておきますけど、私は実生活では浅田真央大っ嫌いなんて話はしませんよ。無意味なトラブルが起きますから。浅田真央よりキム・ヨナのほうが美人だしスタイルもいいし演技もいいなんて話はしましたが、ヨナさんも引退しちゃったしね。

それでですよ、雑誌の内容がまたすごい。引用します。

>内容紹介


浅田真央
スマイルアゲイン

1年の休息を経て、銀盤に戻ってきた浅田真央。
ブランクを感じさせないその滑りに、誰もが歓声をあげ、
少し大人びた、それでも無邪気な笑顔に、誰もが魅了された。
今号では、まるごと一冊浅田真央大特集。中国杯詳報、先輩・伊藤みどりさんや、
美輪明宏さん、鉄拳さんからのメッセージや、ジャッジから見たその演技の質、
その25年の人生を振り返る「完全年表」など、誌面全体で浅田さんの復帰をお祝いします1


SPECIAL FEATURES

[笑顔の復帰戦詳報] 文●野口美惠
浅田真央「柔らかな心で」

[テクニカル・レポート] 文●松原孝臣
得点力UPの“秘訣"~ジャッジの目で見たさらなる「伸びしろ」~

[エナジーチャージの365日] 文●細江克弥
ラジオに生出演、10代の悩みに答えた夜
旅、試験勉強——手に入れた“普通の青春"
[エピソードで綴る1990-2015完全年表]
真央の25年史

[追想エッセイ] 文●宇都宮直子
2005年のカップ・オブ・チャイナ

[特別メッセージ] 文●野口美惠
伊藤みどり「私が真央を尊敬する理由」

[復帰へのメッセージ] おかえりなさい、真央ちゃん!
美輪明宏「浅田真央と、戦後日本の美」
鉄拳「パラパラ漫画で真央ちゃんを描く」
丸山敬太「彼女の衣装には、意志がある」
タラソワ「私はね、マオの大ファンなの」

(後略)

・・・(笑)。

>ブランクを感じさせないその滑りに、誰もが歓声をあげ、
少し大人びた、それでも無邪気な笑顔に、誰もが魅了された。

 悪いな、ここに少なくとも1人は、「誰もが」に入らない人間がいるぞ(笑)。

>旅、試験勉強——手に入れた“普通の青春"

ね、ね、ね、ね、ね。23歳~24歳にもなって、その時にいたるまで試験勉強すらやってなかったの、浅田真央って? どういう学校生活、社会生活送っていたの?

まあ日本で彼女の学校の話を一番しつこく書いていた人間の1人が私でしょうから、そうであることくらいは知っていますけど、私みたいな人間じゃなくて、彼女にきわめて好意的な雑誌ですら、彼女がまともな人生歩んでいないことを認めちゃっているくらいなのだから、それもどうかです。

これでですよ、仮に2018年の平昌で、彼女が金メダルを取ったら、それこそ日本は想像を絶する大騒ぎになりそうですね。なにしろ5位で、あれだけ騒がれたんだから。そうなったらなったで、それはそれで面白そうな気もしますが、やはりあまりかかわり合いたくない気はします。その日が来ないことを、個人的には望みたいですね。つまりは、私が以前に書いた

>これでですよ、ぎりぎり銅メダル、はたまた金メダルを世間の願望通り獲得していたら、そのマスコミとその他ネット民、あるいは私たちの周囲の人たちの熱狂ぶりは、想像を絶するものだったろうと考えます。上村愛子はソチが5大会目ですが、浅田真央は2大会目で、しかも6位と上村より2つも順位が下なのにこの騒がれ方(笑)。そりゃまあ浅田真央が人気があることくらい私も認めるのはやぶさかじゃありませんが、いくらなんでもここまで取り上げられるというのは常軌を逸しているのたぐいじゃないですかね。

という文章が、いかに正しいかということです。

あ、もしかしたら平昌と北京は、何の競技を見るかは決めていませんが、見に行きたいなとは思っています。20年も、長期の海外旅行は中止して、オリンピックの何らかの競技は見る所存です。20年の夏の海外旅行は、近場で2泊3日かな。

災害時ほかの緊急事態には、鬼にならなければいけないこともある

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私が直接見た話ではありませんが、ずいぶん昔私の家の奥の部屋に、ネコが上がって居座ったことがあります。置いてあった布団の上にネコが乗っかっていたというのです。

で、私の親が、ネコを追い出そうとして、手で払ったら、絶対動きません。しまいには、ほうきで頭をたたくことまでしたそうですが、やはりじっと親のほうをにらんでいます。

ここまでしてネコが逃げないというのは、もしかしたら・・・というので、1度外して、ネコがいなくなった(餌でも探しにいったのでしょう)隙に布団をみてみたら・・・。いました、ネコの子3匹。

母は私に、大要「動物の愛情というか、本能ってすごい」と語りました。それはそうですよね。もちろん我が家はネコを殺したりはしませんが、ネコはそんなことを判断できないもんね。

けっきょく布団は外に出しておいたそうですが、その後ネコは子ネコを連れて去ったそうです。

子どもをつれた動物は必死です。小グマをつれた母グマに遭遇したりしたらやはり危険です。

さて、以上は動物の話ですが、一説によると本能が壊れた動物ともいわれる人間も、子どもについてはやはり必死になります。子どもに関しては、必ずしも合理的対応ができない。そういうことの関連で、この間、災害の対応についての講演会をきく機会がありまして、講師の人がくりかえし力説したのが、ともかく逃げろということです。他人よりも自分の命を優先させろということです。

すると、ここで大きな難問が出てきます。親子の問題です。

他人なら、さすがに自分の命を犠牲にして助けるというのは現実性に欠けますが、親子ですとそういうことがありえます。親が子どもを捜して津波にやられたということは2011年の災害の時も指摘されたことです。

それで、講師は、そのような災害教育を児童にする際、次のように話をするそうです。

(大要)「お父さんとお母さんには、ぼく(私)は自力で逃げるから、大丈夫だ、といいなさい」

親の立場からすると、確認が可能な距離にいれば子どもを助けたいのが人情というものでしょうが、そこで子どもを捜しにいくと津波の被害にあってしまうわけです。親も、子どもを信じるしかありません。

たぶん親としては子どもが無事か確認してから自分が逃げたいというのはやまやまでしょうが、そこは心を鬼にして、自分を第一に考えて逃げなければいけません。あるいは子どもはどうにもダメで死んでしまうかもしれませんが、それは親の力でもどうにもならない場合だということです。「あの時自分が・・・」と考えたくなるのは、人情としては理解できますが、そこは残念ながら割り切らなければいけません。人間、時間的、距離的その他の制約で、どうにも助けられないこともたくさんあるのです。

ずいぶん以前ですが、ヨットだかなんだかで、子どもが1人海に落ちてしまい、それを親が飛び込んで助けようとしたら、やはり亡くなってしまったことがありました。そしてその時ヨットには、別の子どもが乗っていました。そういう場合、やはり親は、海に飛び込んではいけないと思います。その人は泳ぎに自信があったのかもしれませんが、子どもを1人(あるいは他の子どもともども)ヨットに残してはいけないでしょう。そこは、まさに心を鬼にしなければいけない瞬間だと思います(なお、いまの話は、私の記憶で書いていますので、いつのどのような事件だったかは書けません。事実と違っていたら、その点はお詫び申し上げます)。

いずれにせよ、火事で燃えさかる家に「子どもがいる」といって飛び込もうとする親がいたら、私は「やめろ」と止める人間でいようと思います。

原節子が亡くなったことが公表された

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原節子が亡くなったことが発表されました。記事を。

>原節子さん 9月に死去していた 95歳「東京物語」「晩春」

スポニチアネックス 11月25日(水)22時38分配信

昭和の大スター、元女優の原節子(はら・せつこ、本名・会田昌江=あいだ・まさえ)さんが9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で死去したことが25日分かった。95歳。横浜市出身。1963年(昭38)の映画出演を最後に表舞台には出ず、その後の生活はほとんど知られていなかった。

 原さんは1920年(大9)6月17日生まれ。実家の生活苦のため、女学校を中退し、35年(昭10)に日活多摩川撮影所に入社。同年の映画「ためらふ勿れ若人よ」でデビュー。役名「節子」をそのまま芸名にし「原節子」となったという。日本とドイツが急接近しつつあった37年、ドイツのアーノルド・ファンク監督による初の日独合作映画「新しき土」のヒロインに抜てきされると、日本人離れした容姿は国内だけでなく外国でも話題となり、一気にスターとなった。

 その後東宝へ移籍。戦時中は「ハワイ・マレー沖海戦」、「決戦の大空へ」、「勝利の日まで」など戦意高揚映画に数多く出演した。

 戦後も化粧品会社のカラーポスターで暗い世相を明るくすると、黒澤明監督の戦後初の作品「わが青春に悔なし」に出演。47年には東宝を離れフリーとなる。「安城家の舞踏会」「青い山脈」「お嬢さん乾杯」など戦後を代表する作品に出たが、49年に初めて小津安二郎監督と組んだ「晩春」に出演。61年の「小早川家の秋」まで小津作品に計6本出演した。

 「永遠の処女」など、さまざまなキャッチフレーズが付けられたが、何度か体調不良が伝えられ、そのたびに引退がささやかれたが、62年の「忠臣蔵 花の巻・雪の巻」が最後の映画出演となった。63年に小津監督が亡くなり、その通夜に出席したのを最後に表舞台から遠ざかった。神奈川・鎌倉で妹夫婦と生活しているとされ、写真週刊誌などが何度も“スクープ”を狙ったが、50年以上その姿をとらえたものはなかった。

こちらは、今年の4月に発表された記事です。

>原節子さん 親族が「元気は元気」…デビュー80年記念上映会

大阪・九条の映画館シネ・ヌーヴォで元女優原節子さん(94)のデビュー80年を記念した特集上映会「原節子のすべて」が始まり、作家の石井妙子さんが26日、トークショーに出演した。

 原さんは代表作「東京物語」を撮った小津安二郎監督が亡くなった1963年、声明を出すことなく引退。独身とあって結婚が噂された2人について石井さんは「恋愛感情があったかは分からない。尊敬し合っていたと思うが結局、ファンの原への思い入れの深さが伝説や神話をつくった」と分析。現在は神奈川県鎌倉市で暮らす原さんの近況についても、「去年自宅へ行くと“元気は元気です”と親族の方が話していた」と報告した。

 今秋、原さんの評伝を出版予定。「静かで激しい、セリフがなくても何かを訴えることができる女優。一方で引退から半世紀余り、一度も復帰しない潔さ」と公私両面の魅力も語った。  

[ 2015年4月27日 08:08 ]

年齢が年齢ですので、各マスコミも予定稿・記録映像の準備はしていたと思われますが、その死が3か月弱伏せられていたというのも、いかにも彼女らしいといえば彼女らしいというべきかもしれません。では彼女の写真を。

 

この写真は、1960年のものとのこと。

来年「午前十時の映画祭」で、小津安二郎の「東京物語」が上映されます。もちろんこの映画はすでに私は観ていますが、再見してあらためて彼女を追悼したいと思います。

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