大山のぶ代の夫である砂川啓介が、奥さんの認知症を公表したのは、ちょうど去年の今日、2015年5月13日です。私もこの件で記事を書いています。
それで、これが世間で大きな反響をよんだこともあり、砂川の本が昨年出版されています。
で、本を読んでいて「どうもなあ」と思ったところを。
大山を介護施設に入れたくないというのは、まあ仕方ないかもしれませんが(本を読んだ限りでは、彼女はすでに排泄行為も満足にできないようですので、施設に入居させても全然問題ないと思いますが、これは他人がどうこう言ってもしょうがない部分がありますので)、私が気になったのがこちら。
>介護保険のサービスを活用することも考えなかったわけじゃない。だが、サービス利用の前には、「認定調査」といって自宅でカミさんの状態を見せる必要があるという。
調査とはいえ、見ず知らずの人が突然家に来たら、ペコはパニックを起こしてしまわないだろうか。調査を無事に終えられたとしても、派遣してもらうヘルパーさんとそりが合わない可能性だってある。
彼女を取り巻く環境を急に変えることで、認知症がもっと進んでしまったら・・・・・。そう思うと、最後は介護保険サービス活用にも踏み切れなかった。(p.130)(段落の間にスペースを入れました。下の引用も同じ)
えー、介護保険使っていないのー、っていうところです。なおこれは、現在はまた違うのかもということはお断りしておきます。
介護保険を使わないで、大山のぶ代にきっちり介護ができるんですかね。砂川家(本名は山下家)は裕福な家庭なのかもしれませんが、かといって無尽蔵に金があるわけではないでしょうし、砂川だって、大山の夫なのだから当然80近い年齢です(1937年生まれ)。実際、大山は糞尿に汚れた服を着たまま寝てしまったりと、いろいろちょっと手に負えないことも多かったようです。砂川らには子どもがいないから、お手伝いさんと大山のマネージャーが一緒になって世話をしているとのことですが、それにしたって介護保険を利用すれば、よりスムーズに、かつ充実した介護ができるでしょう。自宅で彼女を介護するのなら、介護保険の利用は必須でしょうに。
で、砂川はいろいろ書いていますが、けっきょくは、こういうことにつきるんでしょうね。
>もともと僕は人に相談すること自体が苦手で、半世紀以上の付き合いがあるマムシ(引用者注・毒蝮三太夫)にも、カミさんが認知症であることは明かしていなかった。いや、親友のマムシにさえ、別人のようになってしまった彼女の姿を知られたくなかったのかもしれない。
認知症のことを知っていたのは、家政婦の野沢さん、マネージャーの小林、そして、ごく限られた仕事関係者だけだった。(p.124~125)
他人がどう彼女を見るか、ということはもちろん重要でしょうが、最終的には、認知症になった彼女を、砂川自身が他人に見せたくない、ということに話はつきるのだと思います。
そういう心理を私も理解しないわけではもちろんないですが、しかしこれでは大山のぶ代の介護が保障されませんよね。砂川が、介護保険を使わなくても済む完璧(ということが介護にあるわけもありませんが、一応そういう表現をします)な介護をできればいいですが、本を読んだ限りでは(当然)そういうわけではない。大変苦労をしています。世の中自分の責任や能力だけはどうにもならないこともたくさんあります。介護なんてまさにその最たるものではないですか。
それで問題なのは、大山のぶ代は現在自分がどうしてほしいかということを的確に他人に訴えることができない状態だということです。これが問題です。本の中で、大山がこの家にいたいということを話したということが書いてあります。それが本当にそうなのか、今も大山がそう考えているのか、ということ自体疑えば怪しいにもほどがあるというものですが、それはここで論じてもしょうがないのでおいておくとして、大山に限らず介護保険の対象となる人間は、すでに自分の意志を他人に伝えるのが不可能、または伝えられてもそれが妥当な判断とは言いかねる、ということもあるわけです。で、そうなると、けっきょく第三者が最終的な判断をしないわけにはいかない。大山が単身者あるいは夫その他の家族と死別ほか縁が切れているのならともかく、そうでないのなら夫である砂川が大山の処遇を決定する責任者になります。それは当然ですが、それは他人(奥さんだろうと、この場合「他人」です)の人権についての責任をもつということです。それで、介護保険も(砂川の判断で)受けさせないというのでは、大山の人権が確保されないではないですか。そしてそれに対して大山は、何も苦情ほか意見を訴えることもできないわけです。
同じような話を、前にこのブログでもしたことがあります。大家族で有名だった、福岡の江口家というところの話です。
いくらなんでも そういう話じゃないだろ江口家では、おかずの取り合いで、兄弟の一人が刃物で傷つけられたり、高校も行かずに重労働の職に就いた子どもが、本当は高校に行きたかった、と嘆くわけです。食べ物もなく、学校に行くのも支障をきたすのであれば、子どもたちの人権が保障されませんが、江口家は生活保護も受給しませんでした。そのしわ寄せが、子どもたちに行ったわけです。
砂川家(山下家)と江口家では、時代も状況も事情も異なりますが、大山のぶ代と江口家の子どもたちが人権の保障が不十分であることは共通しているのではないですかね。いずれにせよ、利用可能な制度を利用しないで不十分な介護の状態であれば、それは一種の人権侵害というものでしょう。大山も江口家の子ども(当時)も、自分で自分の人権を保障する能力がないかもしくは不十分なのだから、保護すべき人間がその役割を果たしてくれないのでは、それではどうしようもないということになるわけです。
残念ですが、人間の人権を守るためには、例えば他人のプライバシーや過去の業績などにもある程度干渉あるいは傷をつける(いまどき認知症になったからと言って、他人を誹謗中傷する手合いも昔と比べれば多くはないとは思いますが)ということも仕方ない時もあります。そういうところはわりきらなければいけないなと思います。そう考えると、砂川啓介が大山のぶ代の認知症を公表したということはいろいろな意味で良かったと思います。他人の監視の目が入るということは、それは良いことです。現実に、大山が不十分な介護しか受けられなかったことがあったということをかんがみれば、それは仕方ないことです。
大山のぶ代さんが、ストレスのない余生を送られることを祈念してこの記事を終えます。
お断り:いままで「書評」というカテゴリーを設置していましたが、書評というよりも本からヒントを得た記事というのが多いように思うので、「書評ほか書籍関係」というカテゴリー名に改めました。もちろん書評もいたしますので、、乞うご期待。