前にもちょっと拙ブログで取り上げた静岡大学教授楊海英という人は、ついにはこのような事態にまでなってしまいました。
ずっと以前は、「国家基本問題研究所」から呼ばれた際にドタキャンするくらいの常識(?)はあったんですけどね。いや、あの時から同じような人間だったんですかね? いずれにせよいまの彼は、もう極右組織とずぶずぶの関係になったようですね。明らかに一線を越えました。
で、これとは別ですが、ご当人のお書きになっていることで「おや」と思ったことを。
> アメリカと異なって、日本はまさに思想やイデオロギーの面から中国を直視できないでいる。文革研究をする私のところにも日本の大手テレビ局のスタッフが訪ねてきて、文革の番組ができないか話し合ったことがある。
世界の最新の研究成果を取り入れなければ放送の意味がない、と私は伝えた。例えば、米シンポジウムで研究者たちは、文革の被害者が最も多かったのは内モンゴル自治区と広西チワン族自治区だった、と報告した。
内モンゴルでは中国人(漢民族)による一方的なモンゴル人ジェノサイド(集団虐殺)が発生。広西では「階級の敵」とされた者が共産党幹部らに食される「革命的食人」が横行した事実は、今では広く知られている。
これらは決して噂や特異例ではなく、政府公文書も含む豊富な第1次資料による研究成果だ。しかし日本のテレビ局は、その熱意をこのような事実に向けることなく番組を作ることになったそうだ。「中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい」と社内外の意見に押された結果だ、とディレクターは嘆く。
いや、そうじゃないんじゃないんですかね。日本のマスコミが文化大革命のことをあまり取り上げないのは、つまりは読者・視聴者が文革なんかに興味がないからでしょう。興味のないことをやたら取り上げるわけがない。興味がある人は、その関係の本でもネットでも自分で参照すればいいわけです。
だいたい当の楊氏が、岩波書店のような日本の左派系を代表する出版社、さらには右翼系の出版社からもどんどん本を出しているし、またそれなりの価値があると思われる司馬遼太郎賞ももらっているじゃないですか(笑)。さらには、雑誌系のサイト(上で引用した記事がそれです)で、えんえん中国批判を続けている。どこが
>中国人が嫌がるような、日中友好の障害となりそうな番組は作らないほうがいい
なんだか。それって、自分が期待するレベルの中国批判がされていない、っていう意味なんですかね? そうだとしたら、馬鹿も休み休み言えです。こういうもののいいかたって、産経とか櫻井よしこらの発言と酷似しているじゃないですか。まあ楊氏がそんなことを本気で言うほどの狂信者だとは私は思っていませんが、これ完全なデマ屋じゃないですか。前に彼は、
>ほぼ同じようなことが先月、またもやモンゴル北東部で起こった。ブルハンガルドンという山に無断で登ろうとした中国人たちと、彼らの侵入を制止しようとした地元の遊牧民が衝突。在ウランバートル中国大使館と北京当局が「極右の民族主義団体の襲撃を受けた」と事実を歪曲して大きく喧伝したことで、ウランバートル市長も謝罪を強いられる事態となった。
ブルハンガルドンはモンゴル語で「神なる山」の意。遊牧民が紀元前の匈奴時代から神聖視してきた「御嶽(おんたけ)」だ。チンギス・ハンと元朝歴代の皇帝が永眠する場所もここにあるとみられている。事実、14世紀以降に神山の周辺一帯に設けられた立ち入り禁止の区域は今日まで制限が続いてきた。
と書きましたが(こちらで私も論評しました)、これって態度が悪い(かどうか、それだって本当のところわかったものじゃありませんが)中国人観光客に対して、モンゴルの地元民が暴力を働いた事件です。それは、モンゴル側が謝罪するのは仕方ないでしょう。日本だって、仮の話をすれば伊勢神宮で傍若無人な態度をとる外国人観光客がいて、それを伊勢神宮の神官あるいは地元の関係者が暴行したら、それは警察だって逮捕その他取調べをするし、三重県知事なり伊勢市長なりが謝罪なり遺憾の談話をするのは当然でしょう。内心どう考えるかは別として。その他の国々だって同じようなものでしょう。サウジアラビアのような国はまた違うのかもですが、だからといったって、他国がそれをまねすることはできることではないし、するべきでもないでしょう。
さすがに日本ではそういうことは起きないでしょうが、でもこういうことを堂々と書くのでは、これでは楊氏の見識と社会常識を疑います。これも本気で書いているのではなくわざと書いているのでしょうが、いずれにせよどうしようもないにもほどがあるというものです。
それで上の件ともつながりますが、日本のマスコミが文化大革命をとりあげないのは、つまりは最終的には文革が過去のことだからでしょう。当時の中華人民共和国・中国共産党と現在のそれではずいぶん違うし、また現在中国は文化大革命を否定する立場です。別に文革を「間違っていない」とか「悪くない」と居直っているわけではない。中国で今後また文革のようなことが起きかねないというのは、あまり現実的な仮定ではないでしょう。いまの読者、視聴者が興味がある中国の問題は、中国経済の今後とか、南シナ海での問題、あるいは民族問題(チベットとかウィグルとか)でもいいですが、現在進行中の問題でしょう。文革のことなんかどうでもいいとはいわずとも(そう思っている人も大勢いるでしょう)、人権問題にしてもその他にしても、現在進行中の問題のほうがはるかに日本人に限らず世界中の人間の興味関心をひきつけるでしょう。
つまりはこれは、前にご紹介したチョムスキーの話じゃないですかね。
>君も私も、君と私ができること、私たちができることについて責任を持つ。我々がどうこうできないことをやっている他人の行為について、私たちは道徳的責任を持たないのだ。
ということです。
さらに別のところでチョムスキーはこうも語っています。
>世界のどこかで、例えばモンゴルで、ジンギスカンの罪が隠され、(彼の行動が)賞賛され、現在の行動のモデルに使われることがあれば、その時にこそ、ジンギスカンの罪を非難することは大きな価値があるでしょう。なぜなら、それは人類の将来の結果と関わりがあるからです。
もし現在中国政府、中国共産党が文化大革命を賛美しているのなら、文化大革命の犯罪をいろいろあげつらうことに意味がありますが、現段階そういうことはないわけです。文革の再現があったら、事実上中国経済はだめになります。そうなったら世界中の経済が大変な悪い影響を受けることになりますから、そういう事態はきわめて考えにくいでしょう。
それで現在文化大革命の問題を指摘するのであれば、それは当時の犠牲者への補償、謝罪の問題じゃないですかね。補償や謝罪がろくにされていない、不十分であるのならそれは大きな問題です。たぶんそういったことは不十分なのではないかと(勝手に)考えますが、これはまさに現在の問題だからです。
けっきょくのところ、このような問題は、ナチスのホロコースト、旧ソ連のスターリン粛清、ポルポト政権の大虐殺なども同じじゃないですかね。いや、(スケールは小さいですが)戦前日本の日本共産党などへの大弾圧、もっとさかのぼって、江戸幕府のキリスト教徒(キリシタン)大弾圧でもいいですよ。その後、同じような事態は起きていません。たとえば1989年の天安門事件だって、あれを文革と同一視しては、物事の次元が異なります。ポストスターリン時代の旧ソ連の人権侵害を、スターリン粛清といっしょにしてもしょうがないのと同じです。
余談ですが、イスラエルの作家アモス・オズは次のように語っています。彼の著書「贅沢な戦争」より。
>あなたの最後の文章は、イスラエル人占領者とナチスをそれとなく比較しておられる。この比較は扇動と曲解に満ちています。たとえば、「シャワー―といわれて何か思い出しませんか」といった言い方には、がまんがなりません。その子がイスラエルの石鹸産業のために数百万の子どもたちといっしょにガス室に送られて殺された、と言うのなら話は別ですが。(p.129)
>悪にはさまざまな程度があり、その事実に目をつぶる者は、結局のところ悪に振りまわされてしまいます。(p.131~132)
ナチスの罪とイスラエルの罪、アウシュヴィッツのシャワーと占領地のシャワーをいっしょにしてはいけないということです。日本だって、戦前の共産党への弾圧と戦後のそれをいっしょにしてはいけません。文化大革命の人権侵害と、その後の人権侵害を同一に考えても仕方ありません。
それにしてもチョムスキーといいオズといい、すごい人は語ることもすごいですね。安倍晋三の無責任発言を絶賛して、その後その自分たちの絶賛を「なかったこと」にしているらしい連中などとは、比較の対象にもなりません。
さてさて、産経新聞とか櫻井よしことか上の楊氏のようなめちゃくちゃな連中は、中国を批判するためなら何言ってもかまわないくらいの精神なのでしょうが、前にも記事にした阿部治平氏のような人物はどうなんでしょうね。彼は、少なくとも主観的には、そのようなことはしないでいるつもりじゃないんですかね。それで次のような記事はどうでしょうか。
>いままで何回か文化大革命について書いてきたが、なお言い残したことをいくらか語りたい。
私は1981年初めて中国へ行った。文革中も行きたかったが、日中友好協会だかに「文革支持」を誓わないと中国のヴィザは取れないので行かなかった。文革期には民主憲法をもつ日本人が、中国政府に代って同胞の思想・信条を検査するなどの恥ずべき仕事を公然とやったのである。
それ文化大革命の時代の話でしょ。いまはそうじゃないでしょう(笑)。それこそ上の楊氏のところでも書いたように、プンワンについてのあれだけすごい伝記を書けるくらいの取材を阿部氏は中国でできたわけじゃないですか。そんなことをいまさら書いてどうしようって言うんですかね。
だいたい彼が書いた媒体は、リベラル21という、彼個人のサイトではない媒体です。そんなことを書きたいのなら、自分のサイト(自分のブログとかFBとかツイッターとか)で書けばいいじゃないですか。もちろんこれは、こんな駄文を掲載するリベラル21の見識の問題でもあります。どちらかといえば、リベラル21のほうが問題でしょう。前に批判した、犯罪被害者遺族の妄言を無批判に垂れ流した記事は、犯罪被害者遺族より記事を執筆した記者や新聞社(あるいは講演を開催した法科大学院)のほうにより本質的な問題があると私が考えるのと同じです。
阿部氏に非常に好意的に考えれば、たぶんご当人割り切れない何かがあるのでしょう。過去のことだと見過ごすことができないのでしょう。そういう心理を理解しないではありませんが、そういう話は自分の日記か自分のサイトで書けばいいじゃないですか。彼が文革時代、その関係で不快な経験をしたなんて話は、記録とか歴史としてだったらともかく、現代中国の批判にからめて書く話じゃないでしょう。
もし阿部氏に大要「あなたの文化大革命批判は、産経新聞や櫻井よしこらのやっている中国批判と同類だ」と言ったら、彼は色をなして怒るんじゃないんですかね。あんな連中といっしょにするなって。でもどこが本質的に違うのかなあと思います。
過去を批判するのなら、それはその批判が(チョムスキーの言うように)
>人類の将来の結果と関わりがある
ものである必要があるんじゃないんですかね。文化大革命を現在批判して、そのようなものがあるのかです。
なおこの記事は、bogus-simotukareさんの複数の記事(こちら、こちら)を参考にしました。いつもながら感謝を申し上げます。