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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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岡野俊一郎は、たぶん東京大学の教授になるのが一番適性はあったのだと思う

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ひところは、日本サッカー界の顔といってもあながち言いすぎでなかった岡野俊一郎氏が亡くなりました。記事を。

>日本サッカー協会元会長の岡野俊一郎氏死去、85歳 肺がんで ダイヤモンドサッカーで解説も

サンケイスポーツ 2/3(金) 17:29配信

日本サッカー協会元会長の岡野俊一郎氏死去、85歳 肺がんで ダイヤモンドサッカーで解説も
岡野俊一郎氏(写真:サンケイスポーツ)
 サッカー元日本代表監督で、日本サッカー協会会長として2002年日韓ワールドカップ(W杯)を成功させた岡野俊一郎(おかの・しゅんいちろう)氏が2日午後10時56分、肺がんのため東京都内の病院で死去した。85歳。東京都出身。自宅は東京都文京区小石川5の24の21の401。通夜、葬儀・告別式は近親者で執り行う。日本サッカー協会が3日、発表した。

 岡野氏は都立小石川高校から東大に進み、1953年の全日本大学サッカー選手権に優勝。55年には日本代表にも選ばれた。

 東大卒業後は家業の老舗和菓子店「岡埜栄泉」と継ぐ一方、サッカーの指導者となり、63年から日本代表コーチ。64年東京五輪ベスト8、68年メキシコ五輪銅メダルに導いたほか、70~71年には代表監督も務めた。

 日本サッカー協会副会長として02年日韓W杯の招致に携わると、98年に第9代の日本協会会長に就任。日韓W杯を成功に導いた後に退任し、日本協会名誉会長に就任した。その後、最高顧問を務め、16年から相談役となっていた。

 68年からテレビ東京で放送された「三菱ダイヤモンドサッカー」では解説者として、サッカーの普及にも尽力。90~11年に長年国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めるなど、日本のスポーツ界の重鎮として存在感を発揮した。

岡野俊一郎というと、東京大学出身というのがわりと有名ですが、彼は記事にもあるように家業が和菓子屋をやっていたので、いわばサッカー関係で遊んでいられたわけです。そうでなければどこかの実業団に入るか、あるいいは東京大学に残って学問の道に進んでいたかでしょう。

それで記事にもあるように彼は、代表コーチを務めて代表監督も務めました。古河電工と三菱重工の系統がサッカー界の主流ですが、彼はそういうところとも逸脱している人間でした。いわば扱いというか存在も別格のところがありました。IOC委員もやっていたくらいですから、まさにスポーツ界の貴族みたいなところもあったかと思います。

で、以下私の勝手な考えですが、本来彼は、東京大学の教授にでもなるのが一番適性はあったのだと思います。例えば彼は、本格的なビジネスの世界とかに詳しい人間ではなかったですから、Jリーグの立ち上げとかはどうしても川淵三郎とかこちらも過日お亡くなりになった木之本興三氏のような人たちが主になって動く必要があったのでしょう。

また岡野氏は、以下の記事にもあるように、鋭敏な頭脳の持ち主でした。

>岡野俊一郎氏を悼む 旺盛な語学力 「クラマー語録」はその結晶

産経新聞 2/3(金) 21:46配信

(前略)

 1968年メキシコ五輪で長沼健監督が率いる日本サッカーは、3位決定戦で地元メキシコを下し、銅メダルを獲得した。岡野さんはチームのコーチであると同時に「日本サッカーの父」デットマール・クラマー氏の通訳も務めた。日本のサッカーを育てた「クラマー語録」は、いわば岡野さんとの共作である。

 (中略)

 力の源泉は旺盛な語学力を背景とする人脈だった。後任の協会会長、川淵三郎氏から「英語で電話をしながらドイツ語でメモを取り、受話器をふさいで日本語の雑談に参加する人」と聞いたこともある。

(後略)

こちらの記事では

>【評伝】岡野俊一郎さんはスポーツ界の頭脳だった名参謀…85歳肺がんで死去

スポーツ報知 2/4(土) 6:04配信

(前略)
 独特のソフトな語り口と、柔和な笑顔。日本のサッカー界というよりもスポーツ界にとって“頭脳”とも呼ぶべき人だった。

 東大出で、英語が堪能。東京の老舗和菓子店の御曹司という育ちの良さも加わり、体育会系の多いスポーツ界にあって貴族のような風貌は際立っていた。和菓子店の5代目にもかかわらず甘い物は苦手で、酒をこよなく愛する人だった。岡野さんの口から暴言、失言を聞いたことがない。

 日本代表監督、日本サッカー協会会長というトップを務めたこともあるが、むしろ参謀役として、その才能を発揮した。1968年メキシコ五輪ではコーチとして長沼健監督(故人)を理論で支え、銅メダルに導いた。インターネットのない時代に東大時代に培った人脈を使い、海外から戦術書やビデオを独自に取り寄せ、情報収集に励んだ。対戦相手の分析も的確で、選手がその的確さに驚いたという。親分肌の長沼監督とは対照的だった。

 (中略)

 本紙でも長い間、サッカーの観戦記を執筆してもらった。試合が終わると原稿用紙にスラスラとペンを走らせ、あっという間に書き上げる。こちらが原稿に苦しんでいる最中に「じゃ、これ」と言って記者席に届けてくれた。無言のうちに「君はまだ原稿を書き終えていないのか」と叱咤(しった)された気がしたことを、今でも覚えている。合掌―。(元運動第二部部長・佐々木信和)

とあります。彼は組織のトップになるというタイプでなく、参謀、相談役みたいな才能があったのでしょう。そう考えると、やっぱり「岡野教授」だったほうが、本来のこの人の才能には適していたと思います。しかし環境その他がそれを許しませんでした。個人的には、スポーツ関係の学問の大家としての岡野俊一郎を見たかった気がします。

私も、岡野さんのサッカー解説は聞いたことがあります。ご冥福をお祈りしてこの記事を終えます。なお写真の出典はこちらから。上は、西独(当時)へコーチ留学に行く際の写真で1961年のもの。2枚目はメキシコ五輪の表彰式のもので、岡野氏は一番左とのことです。コーチでありながら、代表の人数に欠員があったので選手登録もしてメダルをもらったなんて、まさに今では考えられないにもほどがあるエピソードです。


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