bogus-simotukareさんのブログのこの記事を読んでいて、Wikipediaの「トニー谷」のページが引用されていました。
私は年齢的にも芸能人の好みとしても、トニー谷は観てもいないし、また伝えられる芸風ではとても彼のことを好きになれないというところがありますが、彼の場合芸風だけでなく実際も芸のような傲岸不遜な人間だったようです。Wikipediaからの引用です。注釈の番号は削除します。
>無礼な芸風の芸人については「しかし舞台裏では礼儀正しかった」というようなエピソードが語られることが多いが、トニーは舞台裏でも一貫して無礼だった。
人気絶頂期は傲慢そのもので、柳家金語楼や古川ロッパ等先輩芸人への敬意が欠け、喜劇人仲間からも反感を持たれていた。そろばんを使った芸も本来は坊屋三郎のアイデアで、坊屋は芸を盗まれたことに激怒していたという。伴淳三郎は、トニーに映画出演の仕事を紹介したが、撮影の朝、トニーが首筋に大きなキスマークをつけて現れたため、トニーを怒鳴りつけた。 唯一の例外は榎本健一であり、榎本はトニーを「生意気だ」と言って怒りつつも、やがてトニーへの風当たりがあまりに強くなると「トニーを慰める会」を自ら率先して催した。このため榎本にだけは一定の敬意を払っていた。後の子息誘拐事件の際にも榎本だけはトニーをかばい、トニーの側でも榎本を信頼していた。
女性芸能人に対しては舞台裏でもセクハラを仕掛け、日劇の楽屋に乱入してはヌードダンサーたちに抱きつき、触りまくった。また、NETテレビの公録でも、同じ番組に出る女性漫才師の楽屋に乱入しては「おい! おまんちょ見せろ!」と大声で怒鳴った。この時のトニーは酒など入っておらず、しらふだった(山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』)。このことから女性芸能人たちはトニーを心底嫌い、共演を拒否した。これはトニーの活動の場が徐々に減り、人気が失速する一因ともなった。
放送局のエレベーターで女学生と乗り合わせたトニーは、その女学生が彼の顔を見てクスリと笑ったことに激怒し、「なんで笑った、オレの顔がそんなにおかしいか、ここは舞台じゃねえぞ、笑いたけりゃゼニを払って笑え! オタフクめ!」と暴言を吐き、彼女を泣かせてしまった。そのことがあとで新聞の投書欄で明らかにされ、トニーは世間から指弾された。その一般人は安藤鶴夫の娘だったという説がある(詳細不明)。
小林信彦は、「私の友人(コメディアン)は、トニー谷が客の頭を蹴とばすのを目撃している」と述べている。1954年6月、大阪の劇場に出ていたトニー谷は「芸が古い」と新聞で批判されたことに立腹し、「もっと古いのがいるざんショ、アジャパーなんてのが」と舞台で叫んだところ、折悪しく向かい側の劇場に伴淳三郎が出ていたため、もめ事に発展したこともある。
また、無名時代の花登筺はOSミュージックホールで幕間コントの構成演出を担当していた頃、当時人気の絶頂期にあったトニーの出演に際し、徹夜で新しいギャグを考えて脚本を書き上げ持参したが、トニーはそれを読みもせずに「客は君の脚本でくるのじゃない。トニー谷の名前で来るのだ。脚本なんていらないよ」と花登の目の前で脚本を破り捨てた。花登は後年、このときのことを「劇場側の誰かがそばにいたら、私は恐らくそろばんで、トニー谷さんを殴っていたに違いない。私はその紙くず箱の破られた原稿の紙片を拾い集めながら、「こん畜生め」と心で罵っていた」と怨念を込めて回想している。
さらに内藤陳は、日劇ミュージックホール出演中のトニーの楽屋に遊びに行ったところ、理由も告げず突然「この野郎!」とひっぱたかれたことがあった。その原因は、椅子に腰掛けた化粧前のトニーの横に内藤が立ったとき、その位置が期せずしてトニーのハゲ頭を真上から覗き込む形になったからであった。トニーがハゲ頭をカツラで隠していることは芸能界では公然の秘密だった。
トニーと同じ店でコメディアンとしてデビューしたミッキー安川は、英語を使う芸人が珍しかったためトニーから「お前、この野郎! ちょっと英語しゃべれるからって」と敵視され、いじめを受けたという。このときミッキーが「ちょっとじゃねえ、俺はアメリカまで行ってきてんだよ!」と言い返すと、東宝に雇われている暴力団から脅しを受け、暴力団の用心棒とミッキーの間でケンカに発展した。
トニーは大阪ミナミのヌード劇場「南街ミュージックホール」に出演した折、普通ショー(ヌードショーと違い、裸体を見せないダンス)専門の踊り子の大津翠ら4人が楽屋風呂に入っているところへカメラを持って乱入し、彼女たちの裸体を勝手に撮影したことがある。このとき、舞台監督の竹本浩三に啖呵を切られるとトニーは土下座して謝ったが、撮影したフィルムについては「もう写真屋に出した」と言って引渡しを拒否。竹本から「フィルムをよこさないなら、トニー先生がかつらだと世間に公表します」と脅されると、渋々ながらフィルムの引渡しに応じたという。その事件の後、トニーの化粧前の引き出しから命の次に大切なかつらが行方不明になったため、トニーは竹本の仕業と信じて怒り狂ったが、実際は竹本の仕業ではなく、トニーにいびられたコメディアンかダンサーの意趣返しだったという。
昭和30年代、東京新橋でみずから経営していたバーに客としてトニーをたびたび迎えていた団鬼六は、「私は正直言って、トニー谷の人柄も芸風もあまり好きではなかった。店には伴淳三郎とか殿山泰司とか、芸能人がよく来店していたけれど、みんな仲間と来ていた。なのにトニー谷はいつも一人で、ほかの芸能人がいたら帰ってしまう。店の客にもよく喧嘩をふっかけていたし、傲慢で孤立した感じで、なんだか異様だった。自分の生い立ちや過去の話は一切したがらなかった。そういう質問をすると、すぐに怒り出した。コンプレックスも強い人だったのではないか」と語っている。
プロレスラーなんかでも、悪役のほうが実は性格が良かったりするなんて話もありますが(実際のところは何とも言えませんが)、確かに上のような話はかなりやばい
エピソード満載です。現在ではちょっとどうしようもないというレベルです。
それで団鬼六のこの発言はなるほどなと思います。
>コンプレックスも強い人だったのではないか
内藤陳が、
>椅子に腰掛けた化粧前のトニーの横に内藤が立ったとき、その位置が期せずしてトニーのハゲ頭を真上から覗き込む形になったからであった。トニーがハゲ頭をカツラで隠していることは芸能界では公然の秘密だった。
というのも、ハゲだろうが何だろうが、自分にコンプレックスが強いからそのような不始末をしでかしたのでしょう。自分に自信があれば、ハゲだろうがなんだろうが、そんなことはしないでしょう。
それで彼のこのような非常識な行動の背景には、やはりWikipediaでも指摘されているこのような点が大きな部分としてあったのだろうなと思います。
>家庭事情は複雑で、暗い幼少期を送っている。後年のギャグ「家庭の事情」の裏側には、下記のような重い歴史が隠されていた。
東京市京橋区銀座に生まれ、日本橋区小伝馬町に育つ。実の母は長唄の師匠。しかし妊娠中に実父は死亡し、血縁上の伯父を戸籍上の父として届け出た。戸籍上の父は電気器具商。愛情のない父に虐待されて育ち、ひどく苦しんだという。
子供のころは下町で有名なそろばん塾「大堀塾」でそろばんを学んでいた。小学校時代から成績優秀で、地元の名門である東京府立第三中学校に入学。英語と図画が得意だったものの、学問よりも家業を優先すべしとの父の命令で1933年に中退し、神田の電機学校に通わされた。1934年に実母が病死、ついに実の父母ともに失った。戸籍上の父は再婚、父と継母にとってトニーは他人であり、トニーへの虐待がますます深刻になった。
そのため、家を出て自活を開始。1935年、日本橋小舟町の薬屋に就職。1938年、召集令状が来て近衛歩兵第1連隊に入隊。1940年に除隊して第一ホテル東京(新橋)に就職。ホテルの開業記念日には率先して演芸会の進行役を務め、時には自ら出演して人気者となった。1942年に最初の妻と結婚したが、1か月後に再度出征。その妻は1945年3月10日の東京大空襲で行方不明になっている。
それで次のような部分があります。太字も原文のままです。
>トニーは芸人になったとき、以上の過去をすべて封印した。有名人になった後、少年時代の遊び友達から「正ちゃん!」と呼びかけられても「人違いでしょう」と平然と答えた。軍隊時代の戦友から訪問を受けても門前払いを食わせて「いまに覚えてやがれ!」と怒鳴られた。継父と二人の妹から自宅に訪問を受けても、「かねて申し上げてある通り『過去のどなた』ともお付き合いはしておりません。たとえ近しい方とも。私が有名にならねば訪ねてもこないのに。重ねて申しあげます。一切お付き合いしません。楽屋への訪問、知り合いといいふらす件、全部お断りします。私の一家、一身上のことは、自分でやりますから」と冷然と拒絶した。
彼が継父を嫌がったのはわかりますが、少年時代の遊び友達や戦友までも拒否したのは、たぶんかれの前半生が、まったくもって苦しいものでしかなかったのだと思います。遊び友達や戦友といえども、過去の苦しい記憶を思い出させる苦しみでしかなかったのでしょう。
もちろん虐待を受けた人間がみな彼のようになるわけはありませんが、しかし彼の場合少なくともある時期までは芸能界で成功したので、そういったやり方を直すという必要がなかったということなのでしょう。それで、有名な子息の誘拐事件の件では、
>しかし、当時は芸人仲間の多くがトニーを信じず「これは事件などでなく、話題作りのためにトニー自身が引き起こした狂言誘拐だ」として冷ややかな目で見ていた(実際は狂言誘拐などではなく、本当に起こった誘拐事件だった)。
とまで冷たい扱いをされたくらいですし、またこの事件の動機が、もちろん金目当てではあったのですが
>犯人は長野県の雑誌編集者で、地元で雑誌の発行を計画していたが、資金がなかったためにリンドバーグ事件にヒントを得て身代金誘拐を企てた。犯行の動機について「トニー谷の、人を小バカにした芸風に腹が立った」と語り、事前にとある雑誌でトニーの長男の写真を見ていたため、顔を知っていたことで事件を実行に移していた。
というものであり、さらに
>「誘拐の真因はトニーが世間から嫌われることをやっていたからだ」という論調でジャーナリストの大宅壮一や花森安治などからも非難され
など、いくらなんでもこれは彼が気の毒ですが、つまりはそこまで嫌われていたということです。テレビ時代に彼の人気が凋落したのも必然だったのでしょう。
今年は彼が生まれて100年目、死んでから30年目です。彼は石原裕次郎の死の前日に亡くなり、しかも同じ肝臓がんだったわけです。一世を風靡したということは一緒でも、日本人から好かれて取り巻き、仲間に恵まれた裕次郎と、そういうことを完全に拒否したトニー谷とは、激しいコントラストがあります。年齢はトニー谷のほうがずっと上ですが、時代の違いだけでないいろいろな部分が彼の影を増幅させたのだと思います。
bogus-simotukareさんに感謝して、この記事を終えます。