一応カテゴリーは「映画」にしました。
朝日新聞に面白い記事が載っていました。
>「ヒーロー扱い、父は嫌った」 アポロ11号船長の次男
石倉徹也 2019年2月5日18時56分
人類が月面に足跡を残してから今年で50年。米宇宙船「アポロ11号」の船長として、人類で初めて月面を歩いた宇宙飛行士ニール・アームストロングの半生を描く映画「ファースト・マン」が8日公開される。メディアへの露出を避け、心の内を明かさなかったニール。次男で実業家のマークさん(55)が来日し、取材に応じた。
――映画で印象に残ったシーンは?
打ち上げ直前、父が自宅のダイニングルームで家族に「月に行く」と話すシーンは、初めて明かしたエピソードだ。私は6歳で兄は12歳。ダイニングは神聖でフォーマルな場所なので、何か悪さをして怒られるのかと心配だった。危険性や不安は全く感じなかった。両親が気を配ってくれたのだろう。ミッションの大変さを知ったのは、ずいぶん後だった。
――帰還後、取材にも応じず、「沈黙の宇宙飛行士」と言われた。
父は「アポロ計画は携わった40万人のチームワークがあったからこそ成功した」と強調し、私たちに自慢することもなかった。自分だけがスポットライトを当てられて、ヒーロー扱いされるのを嫌った。家庭でも「尊大になってはいけない、常に謙虚でいなさい」と教えられた。
――帰還の2年後、NASAを退官する。
想像できないと思うが、1日平均1万通の手紙が来ていた。サインや取材の依頼だ。返事が滞ると「返事が来なくて傷ついた」という手紙が来る。注目される生活が嫌になり、普通の暮らしに戻りたかったのだろう。
――家庭での様子は?
映画ではシリアスな姿が描かれているが、普段は冗談を言ったりふざけたりする普通の父親だった。子育てにも積極的に取り組んでいて、とても感謝している。「何をするにも全力で努力を惜しむな。そして謙虚でいなさい」が口癖だった。
――2012年に82歳で亡くなった。映画を見たらどうだったでしょう。
細部にこだわる人だから、描写の正確さを気にするだろう。飛行機と航空術を知り尽くしていたから、映画に飛行機が出てくると「動きがおかしい。タイヤが違う」と気になって仕方なかった。今回の映画でも数カ所は間違いを指摘したかもしれないな(笑い)。
――飛行機好きだったんですね。
父から譲り受けた中に、飛行機のスクラップ帳がある。新聞や雑誌から写真を切り抜いて貼りつけ、特徴を細かく書き込んだもので数十冊。10歳から始め、亡くなる直前まで続けていたようだ。だから、機体の素材や時速、航続距離、銃器の種類を全てそらんじることができた。空をいつも見上げていたよ。
――映画の見どころは。
技術が進歩した今でさえ月に降り立つことは難しいが、50年前に原始的な技術で父たちは成し遂げた。偉業には多くの努力と犠牲が伴う。若い人はインスピレーションとやる気を感じ取ってほしい。(石倉徹也)
◇
〈ニール・アームストロング〉 1930年、米国オハイオ州生まれ。海軍飛行士として朝鮮戦争に参加。空軍のテストパイロットを経て、NASAの宇宙飛行士に選ばれる。66年、「ジェミニ8号」でデイビッド・スコットと共に初飛行し、人工衛星と軌道上で初めてのドッキングに成功する。だが、直後に機体が回転を始めるトラブルが発生。アームストロングの機転で帰還を果たした。
こうした冷静さが評価され、「アポロ計画」の「アポロ11号」で船長に選ばれた。69年7月20日、バズ・オルドリンと共に月着陸船イーグルに乗り込み月面に着陸し、人類で初めて月面に降りた。その姿は世界中に放映され、「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」と語った。当時38歳だった。
71年のNASA退官後、故郷オハイオ州に戻り、大学教授や実業家として暮らし、公の場に姿を見せることはほとんどなかった。
リックとマークの2人の息子がいる。94年に離婚し、その後再婚している。2012年、82歳で死去。月面には今も彼の足跡が残されている。
アームストロング氏も大変だったようですね。ちなみに彼は、1969年の来日時に日本国の文化勲章を受けています。首相の佐藤栄作が直接手渡しました。ただ非常に異例の授与であったため、あまり評判は良くなかったようです(この項は、Wikipediaの文化勲章より)。
アームストロング氏からすれば、自分はあくまでパイロットであったわけで、主体的にこの計画に参加したわけではないという考えもあったのかと思います。が、ともかく、氏は初めて地球以外の天体に足を踏み入れた人間として、世界の歴史に名を刻んだわけです。
さてさて、上の記事にもありますように、今年は1969年から50年たつわけで、するとこのブログでも何回も取り上げているウッドストックコンサートも50周年に当たります。私も大学時代にこのコンサートの映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』を観てやたらこのコンサートやカウンターカルチャーにはまってしまいました。今にしてみれば、そのおかげでずいぶん人生損をしたかもな(苦笑)。別に後悔はしていませんが。
タイムマシーンがあったら、68年の5月のパリにも行ってみたいですが、この69年のニューヨーク州ベセルにも行ってみたいですね。ジミ・ヘンドリックス の演奏はやはり聞きたかった。
それで、このコンサートがあったのは、8月15日金曜日から17日日曜日、実際には18日の月曜日までですが、その約1か月前の7月20日にアポロ11号が月面に着陸しています。そしてその直前の17日に、市川雷蔵が亡くなっています。雷蔵は、前年に体調を崩し、入院。手術を受けましたが、すでにガンが進行、翌年2月に体調不良となり、入院、手術を受けましたがまったくどうしようもない容体で、7月に亡くなったわけです。37歳の若さでした。彼は見舞いを固辞、死に顔もほとんど見せることはありませんでした。
最近旧大映の映画を観る機会が多く、いつも「雷蔵が存命だったら、どういう芸能生活をたどったかな」と考えます。雷蔵自身は、映画の状況があまり思わしくないと考えていたようで、舞台での活躍を考えていたようですが、やはり舞台中心の芸能生活になったのだろうなと私も思います。彼自身は、Wikipediaの記述を借りれば(なお以下の引用では、注釈の番号は削除しました)
>池広一夫によると、雷蔵は俳優としてキャリアを重ねるにつれ、監督として映画製作に携わることを希望するようになっていったという。池広は雷蔵に対し、監督ではなくプロデューサーとして題材、脚本家、監督、出演者をすべて決める方がよいとアドバイスした。1968年(昭和43年)1月、雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえたい」という決意の下、劇団「テアトロ鏑矢」を設立しプロデューサーとしての活動を始めようとしたが、その直後に病に冒され(下述)、劇団が活動することはなかった。雷蔵の作品14本の脚本を担当した星川清司によると、雷蔵は星川と三隅研次に「映画というのはそう長くないかもしれないなあ。いつか3人で芝居をやろう。新しい仕事をやってみよう」、「黙阿弥の作品を現代的な目でとらえてやってみようよ」と語ったこともあったという。
とのことで、それは私としても、どういう結果になったか非常に興味があります。もともと歌舞伎出身の人でしたから、舞台に行くということは原点に戻るわけで、その際の雷蔵の姿は、どれだけすばらしいものだったかと思うと本当に残念です。なお上の雷蔵の写真は、死の1年3か月前の68年4月に公開された映画『ひとり狼』より。私の大好きな映画です。
それでこれらはリアルの出来事があってから50年という話ですが、フィクションの世界でも、映画『ブレードランナー』の設定も、まさに2019年の11月なわけです。うーん、2019年というのはあるいはものすごい年かもしれませんね。
そういうわけで、今年はこれらの出来事の50年目、あるいはフィクションのその時点で記事を書く予定ですので乞うご期待。