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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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インドで亡命生活60年の人と中国政府のもとで働いたその兄弟とでは、明らかに兄弟のほうがチベットの人たちの役に立っている(ほかに学校のことなど)

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今年は、チベットで暴動が起きてダライ・ラマが亡命してから60年ということで、3月がその月でもあって、日本でもいくつか記事が出ました。それで私が、ちょっと印象に残ったのが、こちら

>(前略)

「3月のまだ寒い日だった。ノルブリンカを出発したことが昨日のことのように思い出せる」

 チベット亡命政府があるインド北部ダラムサラで、チベット難民のタシ・ツェリンさん(82)は60年前の出来事を振り返った。ツェリンさんは1959年3月、ダライ・ラマがラサ近郊の離宮ノルブリンカを離れてインドに脱出した際、護衛として付き従った。

(中略)

 チベットに兄弟がいるが会いたくはない。彼らが中国政府の職員として働いたことを知ったためだ。「チベットを裏切ったんだ。生涯会う気にはなれない。私の人生はインドにある。私はここで幸せに死ぬだろう」。分断された家族に抱く複雑な心境からは中国への怒りが透けてみえた。

(後略)

当方も正直、この人がそういうことを言いたくなる気持ちを理解しないではないですが、でもしょうがないですよね。別に亡命だけが人生ではないし、取るべき道でもないですから。

チベットの人間が、ほぼ全員亡命したりどこかに逃げ出したとかいうのならまた話は違いますが、大多数は理由はともかくチベットにとどまっているわけですから、そうなれば、やはりチベット人の誰かが働かなければしかたないでしょう。それで、この記事に出てくる人は、ダライ・ラマの護衛をしていたというのですから、つまりは相当な名家の出身なのでしょう。そうなると、この人の兄弟もたぶんそういう点を買われて中国政府のもとで働いた可能性が高い。そういう人は必ず必要なのだから、それは非難するには値しないでしょう。この人は、プンツォク・ワンギャル(プンワン)も裏切者だと考えているのでしょうが、残念ながらこの人よりプンワンやこの人の兄弟のほうが、チベット人の役にはずっと立っているでしょう。この人は、そういうことを絶対認めないでしょうが。失礼ですが、60年インドで亡命生活を送っている人より、プンワンやこの人の兄弟のほうが、はるかにチベット人のために尽くしたし、またできることも多かったはずです。

だいたいこの人はどっちみちいまさらチベットに帰るわけにもいかないでしょうが、仮に兄弟とこの人の立場が入れ替わっていたら、やはりこの人は中国政府のために働いていた可能性も高かったはずです。そして兄弟の誰かが、インドでこの人のことを批判しているというのは、けっして空想次元のことではないでしょう。これも決してこの人は認めないでしょうが、必ずしもそういうものでもない。

さてここで、小島衣料という会社の経営者である実業家でありチベットにも詳しい小島正憲氏の見解をご紹介します。「そんなん素人じゃん」と思われるかもですが、たとえば現ダライ・ラマとも親しい石濱裕美子早稲田大学教授のようなチベットオタク、ダライ・ラマ狂信者のような人物からは決して聞くことができない貴重なご意見だと思います。

> 1959年3月、ダライ・ラマはインドに亡命した。ほとんどの本が、このダライ・ラマの亡命について、疑問の余地のない行動として肯定している。今回のチベット調査旅行中、ふと私は「果たして、この亡命は正しかったのか。他に選択肢はなかったのか」と、疑問を持った。なぜなら私は若きころ、学生運動のリーダーの一員として多くの修羅場をくぐってきたが、そのとき常に自分に言い聞かせていたのは、「どんな事態になっても、体を張って部下を守り抜くこと」であった。そんな青臭い正義感を持っていたので、何度となく大怪我をしたし、死にかけたこともあった。もちろん大きな被害をうけたのは、わが組織が非暴力を旗印に掲げており、私たちは丸腰で闘ったからでもある。だから私はリーダーとしての自分の経験に照らし合わせて、ダライ・ラマが多くのチベット人を残して亡命してしまったことに、素朴な疑問を持ったのである。しかし同時に私は、ダライ・ラマほどの人物だから、きっと「確たる決意と巻き返しの戦略戦術」を胸に秘めて亡命したにちがいないとも思った。

 私は日本に帰国して、ダライ・ラマ自身の言葉を記録した数冊の本を読み、その中で「亡命の理由と巻き返しの戦略戦術」に該当する個所を必死に探した。その結果、どこにもそれらを見出すことはできなかった。それらに近い文言を以下に書き出しておくが、もし私がダライ・ラマならば、あの時点でラサに留まり、非暴力・不服従のマハトマ・ガンジーに倣って、ハンガーストライキで闘っただろう。もちろん多くの敬虔な僧侶を巻き込んで、一大大衆運動に盛り上げていっただろう。残念ながら、ダライ・ラマは3月17日夜、変装してノルブリンカ宮殿を抜け出し、インドへ向かった。ダライ・ラマの亡命後、ノルブリンカ宮殿を取り囲んでいたチベット人たちは、中国軍に蹴散らされ、公式には「人民解放軍はわずか1千余の兵力で武装叛徒5300余人を殲滅し、うち545人を殺し、4800人を傷つけるか捕虜とした」(前掲 阿部著 P.169)という結末を迎えたのである。ダライ・ラマの捨て身の亡命は、結果としてノルブリンカ宮殿を取り囲んだチベット人を救うことはできなかったのである。私は、「亡命という行動が、本当にもっともよい戦略戦術だったのか」を、今、真摯に考え直してみるべきだと思う。

 1910年、ダライ・ラマ13世は、清軍のラサ侵攻を前に、インドに亡命した。ところがこのときは、翌年に辛亥革命が起き、清朝そのものが自壊し始めた。ダライ・ラマ13世はただちにラサに戻り、清軍をラサから追い出し、1913年には独立を宣言した。ダライ・ラマ14世と彼を補佐するチベット政府高官たちには、おそらくこのときの成功体験が色濃く残っていたのではないか。そして今回の亡命を、短期間で舞い戻ることが可能であり、一時的な避難程度に捉えていたのではないか。ダライ・ラマ14世とその取り巻きは、亡命生活が半世紀を超えるとはまったく予想していなかっただろう。

 現在、1959年のこの事態については、チベット人の階級闘争であり、ダライ・ラマが属する農奴主階級、腐敗した貴族や僧侶などが、人民解放軍に支えられた農奴や一般民衆に打ち倒され、結果としてダライ・ラマが亡命せざるを得なくなったという説が強い。そのような見方をすれば、放逐されたに等しいダライ・ラマが、ラサに帰ることを望む正当性はないのではないか。

ほぼ異論はないですね。ていいますか、私の意見は実は小島氏のご意見から影響を受けています。そしてその小島氏と仲がいい大西広慶応義塾大学教授、京都大学名誉教授からもです。大西氏編著の次の本はいろいろ勉強になるので、よろしければぜひお読みください。

中国の少数民族問題と経済格差
なお、こちらの大西氏の著書、および大西氏が解説を書いている本も必読です。
チベット問題とは何か―“現場”からの中国少数民族問題 

実録 チベット暴動
上の小島氏の指摘にもあるように、ダライ・ラマらは非常に安易に亡命したのでしょうね。記事に出てくるダライ・ラマの護衛をした人も、チベットを去る際に「もしかしたらチベットには2度と戻れなくなるかもしれないぞ。それでもいいか」なんていう事前の警告をうけたかどうか。たぶん受けていなかったでしょう。「すぐ戻れる」と言われたかは定かでないですが、ダライ・ラマをふくめた周囲の人間も、これがチベットとの最後の別れになりかねないなんていう覚悟はなかったんじゃないんですかね。どっちみち護衛の人が、自分の意志で「チベットに残ります」とも言えなかったでしょうが、彼の心の中に「話が違う」と感じた瞬間が一瞬もなかったかといえば、それは嘘というものでしょう。そういう側面からしても、この人の兄弟に対する視線は複雑なのでしょうね。   で、こういう話は、中国側がすべて悪い、チベットに何の責任もない、なんていったってしょうがないしね。そんな話をしたってなんの足しにもなりません。安倍晋三だって、首相になる前や首相に復活する前はさんざん偉そうなことをほざいていましたが、首相になったらやっぱりダライ・ラマなんかと会おうとしないわけです。で、そういう人間を絶賛しちゃった馬鹿も世間には少なくないわけです(苦笑)。
さてさて、私が3月からの一連のチベット関係の記事で興味を強く持ったのが、以前にもその関係の記事を書いたことがありますが(リンクは下)、チベット難民向けの学校のことです。まずは朝日新聞の記事より。

>難民によって運営されている寄宿学校を訪ねると、ダライ・ラマの写真が飾られた教室で中学2年の子どもたちがチベット仏教の「思いやり」の考え方について議論していた。

 ツェリン・パルデン事務長(65)によると、学校には4~18歳の子どもが通う。9割の子がチベットに暮らす親の元を離れ、ネパール経由でここにやってきて寮生活を送る。親たちは幼い我が子を親類や仲介業者に託して、インドに送るのだという。

 中国側の学校では中国語による教育が基本。ツェリンさんは「我が子に過酷な越境を強いてでも、チベットの言葉や文化を学ばせたいというのが親の切実な願い」と説明してくれた。

 しかしこの5年間は、チベットからの入学者はいないという。中国当局による国境警備やチベットの人々への監視強化で、越境が難しくなったことが背景にある。1990年代、2千人近くいた児童生徒は900人弱にまで減った。

 バイラクッペには祖父母や親の代から暮らす家庭の子が通うチベット人学校もあり、その児童生徒数も減り続けている。英語で学ぶ私立学校に通わせ、欧米の大学を目指す傾向が強くなった。寄宿学校に通うテンジン・チョギャルさん(18)も「両親と一緒に外国に住むのが夢」と言う。

 「チベット社会のために働くと言っても教師か亡命政府職員くらいしかない。悲しいことだが、よりよい教育や仕事を求めるのはやむを得ない」。そう語るツェリンさんの娘2人も米国とスイスに渡った。

毎日新聞の記事より。

>また亡命チベット人約10万人が暮らすインドでは欧米を目指す若者が増えている。亡命3世でホテル従業員のテンジン・シェラプさん(25)も欧米への移住を希望する一人だ。大学を卒業したが、インドではホテル従業員以外の職が見つからなかった。「父までの世代はインドで自由に信仰ができるだけで満足できた。僕たちの世代は自由な信仰だけでなく、経済的な豊かさもほしいんだ」と話す。

 テンジンさんは欧米で活躍する亡命チベット人の女性ポップ歌手にあこがれる。「彼女はダラムサラで寺や貧しい人に寄付している。若い世代は亡命社会を捨てたいのではなく、むしろ貢献したい」

 亡命チベット人が文化を維持してこられたのは、インド各地に共同体があったからだ。亡命政府も「言葉や文化の維持」を掲げ教育に注力してきた。だが欧米に向かう人の増加に加え、中国の監視強化によってチベットからインドに逃れる人が激減し共同体は縮小傾向だ。

 自身も米国に留学経験がある教員のツェテン・ドルジさん(52)は「欧米に向かう人が増えれば、文化の維持は難しくなるだろう。欧米に移住した本人は『チベット人』という意識は強まるが、世代を経れば、現地社会との同化が進んでいくのは他の移民を見ても明らかだ」と見る。

サンケイビズの記事(共同通信の記事)より。

>09年の調査では、約15万人とみられる世界のチベット難民のうち約10万人がインドに居住しているとされる。19年の次回調査まで正確な人口は不明だが、「ダラムサラでは難民の学校や僧院などで空き部屋が目立つ」(僧侶、ロブサン・イエシさん)。亡命社会の縮小を懸念する人が多い。

(中略)

 ◆欧米に再亡命も

 ダラムサラや首都ニューデリーの一角では、寺院や仏具店が立ち並び「リトル・チベット」と称される地域がある。しかしインドの1人当たり国民総所得は中国の約5分の1の年1680ドル(16年、約18万円)。豊かな欧米に再亡命を図る若者は増加するばかりだ。

 ニューデリーで暮らす難民のドルマ・パルゾムさんは「インドには良い仕事がないので、欧米に亡命したい」と話した。ダラムサラで日本料理店を営む山崎直子さんの店でも、難民従業員の多くがオーストラリアなどに移住した。

 山崎さんは「豊かになった中国で就職したいと考え、中国当局の許可を得て自治区に戻ろうとする若い難民もいる」と指摘。「ダラムサラの難民は高齢者ばかりになった。チベット伝統の祭りも減り、チベット難民の一大拠点としての一体感も次第に薄れてきている」と話した。

朝日新聞の記事がいちばんはっきり書いていますが、現在のチベット亡命社会で、難民や亡命政府の学校なるものが、亡命者の子どもたちや親たちに魅力的なものであるとはとても見えませんね。学校というのは、子どもらの能力や可能性をのばすところのわけで、記事に出てくる学校なんかはいったって、自分たちの人生が、実に詰まらんものにしか子どもも親も感じられなさそうです。2013年の遠い以前の話ですが、私は次のような記事を書きました。

過度の仏教信仰やダライ・ラマ崇拝はけっきょくチベットに不幸をもたらしたと思う

その記事の中でも引用したように、石濱教授は

>今回翻訳された『チベットの歴史と宗教』は、このようなチベット難民社会の学校で、チベットの文化を教えるために用いられている教科書である。

(中略)

この内容を一見すれば、チベット亡命政府は、子供を教育するにあたり、仏教に非常に重要な役割を担わせていることが分かるであろう。TCVの寮を訪れたことがあるが、学校にも寮の共有スペースにも仏画やダライラマ法王の写真が飾られていた。一日は読経で始まり、チベット子供村のモットーである「自分より他者のことを思いなさい」(Other before self)も、仏教の利他の精神に基づいている。

(中略)

中・韓の教科書を素直に読めば、無意識の内に自国を絶対とし、他国、とくに日本を敵視するように、一言で言えば愛国心が喚起されるようになる。一方このチベットの教科書は仏教徒の教養が身につくこととなる。誰を憎むことも憎ませることもしていない。国を失うという究極の状況の下でも偏狭なナショナリズムに陥いっていないのである。

なんていかにも嬉しそうに書いていましたが、けっきょくそんなものは、当の亡命者たちからも大して評価されていないということです。私なんぞがそんな指摘をするまでもなく、当の亡命者たちから見放されていてはどうしようもない。上の私の記事は一部の人間のだいぶ怒りを買ったようですが、こう見るとそんなに的外れの記事でもないでしょう。

これも同じことですよね。学校といい、亡命者といい、実にこういったものがチベットの役に立っていないということです。みもふたもない言い方ですが、そういうことです。

今回の記事は、bogus-simotukareさんのいくつかの記事(こちらこちらこちら)をヒントにしました。感謝を申し上げます。


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