いつものことですが、産経新聞の記事を。
>【主張】死刑判決の破棄 裁判員の意義を問い直せ
2019.12.4 05:00コラム主張
大阪・心斎橋の通り魔事件で父親を亡くした中学2年の長女は最高裁の判決を受けて「頑張って決めてくれた裁判員の人たちの気持ちが無駄になってしまった」「裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい」と話した。同感である。
平成24年6月、心斎橋の路上で通行人の男女2人を無差別に刺殺したとして、殺人罪に問われた被告の上告審判決で、最高裁は1審裁判員裁判の死刑判決を破棄し、無期懲役とした2審大阪高裁の判断を支持した。裁判員裁判による死刑判決が2審で破棄された5件全てが無期懲役で確定することになる。
最高裁は「死刑適用の慎重性、公平性確保の観点を踏まえると、2審判決の量刑が甚だしく不当とはいえない」と判断した。
「公平性」とは過去の判例とのバランスを指し、その基となっているのは昭和58年に最高裁が示した「永山基準」である。連続4人射殺事件の永山則夫元死刑囚に対する最高裁判決は死刑選択が許されるとする9項目を示した。中でも殺害された被害者数と犯行の計画性の有無が重視されてきた。
心斎橋事件の被告は2人を殺害したが、犯行は「場当たり的」で計画性の低さが死刑回避の理由の一つとされた。
だが遺族にとっては犯行に計画性があろうがなかろうが、理不尽に肉親の命を奪われた被害感情には全く関係がない。
裁判員制度は国民の常識を刑事裁判に反映させることを目的に導入された。そこには従来の量刑傾向と国民の常識との間に乖離(かいり)があるとの反省があったはずだ。
制度導入以前の判例との公平性を重視すれば、これが埋まることはない。36年前の「永山基準」がものさしであり続けている現状こそがおかしい。最高裁は、裁判員制度の意義を踏まえた新たな判断基準を明示すべきである。
死刑判断だけではない。今年10月、東京都目黒区の虐待死事件で保護責任者遺棄致死などの罪に問われた父親の裁判員裁判で、検察側は懲役18年を求刑したが、東京地裁は「従来の量刑傾向から踏み出した重い求刑」としてこれを減じ、懲役13年を言い渡した。
裁判員の一人は判決後に「自分が思ったところ(量刑)とのギャップが大きかった」と述べた。裁判員制度の趣旨は揺らいではいないか。問い直すときである。
何の義理があって、高等裁判所が裁判員裁判の判決に従わねばならないのかよくわかりませんが、つまりだねえ、我々は重罰、死刑が好きなのだ、だから裁判員裁判で死刑判決が出たら、それを破棄しないでくれってことなんでしょうね、この記事。まーったくどうしようもない。
>従来の量刑傾向と国民の常識との間に乖離(かいり)があるとの反省
うんなもん、国民の常識がより正しい量刑であるなんて、単なるドグマじゃないですか。そんなことは一部の人間が、なんの論拠もなくほざいているだけです。個人的な意見を言えば、私が刑事裁判を受けることになったら、市民感覚の量刑より、裁判官が下すろうもののほうがよっぱどありがたいですが、この論説を書いた人はどうなんですかね(苦笑)。まあたぶんなんの論拠もなく、自分はそんな立場にはならないと考えているんでしょうが。
正直被害者の遺族が
>「頑張って決めてくれた裁判員の人たちの気持ちが無駄になってしまった」「裁判員裁判の意味をもう一度考えてほしい」
と主張したくなるのは、理解しないではないですが、でも上のようなことを言ったってしょうがないですよね。裁判員の気持ちが無駄になることは仕方ないし、またそれは悪いことでは必ずしもない。裁判員裁判の意味っていったって、裁判員裁判の判決(量刑)は極めて正しいものであり、神聖にして犯すべからずというものでももちろんない。高裁なり最高裁なりであらためて審理してもらうていどの権利は、どんな極悪人にだってあるでしょう。
いずれにせよ善意の第三者であるマスコミが、裁判員裁判で死刑判決が出た、これを上級裁判所は尊重すべきだなんてことは主張すべきではありませんね。それはそれ、これはこれです。だいたい、いまのところそのような判決は出ていないようですが、1審の裁判員裁判で無期懲役の判決が出た事件を検察が控訴して死刑判決になったら、産経新聞はそれを支持するんだろ(笑、いや、笑っている場合じゃありませんね)。いずれにせよデタラメな新聞です。もっともこれは検察も同じようなものです。前に私は次のような記事を書きました。
そんなことを言うのであれば、検察は今後裁判員裁判では、量刑不当の控訴はしないのかという話になる 検察は、裁判員裁判での量刑を最大限尊重するんじゃなかったっけ 検察は、かつての主張を撤回したのかな検察(東京高検)は、高裁での死刑判決破棄を、それは裁判員裁判の趣旨に反すると主張する上告趣意書を作成しましたが、死刑求刑事件で無期懲役判決が出た際は、けっきょくやっぱり量刑不当で控訴したわけです。予想の範囲内ですが、まったくその場しのぎのデタラメな組織です、検察というところも。迷惑にもほどがあるというものです。それでちょうど昨日(この記事を書いている時点では本日)、新潟地裁で死刑求刑事件に無期懲役判決が出ました。
中村建太 2019年12月4日15時06分
新潟市西区で昨年5月、小学2年の女児(当時7)を殺害したなどとして、殺人や強制わいせつ致死など七つの罪に問われた同区の元会社員、小林遼(はるか)被告(25)の裁判員裁判の判決が4日、新潟地裁であった。山崎威(たけし)裁判長は無期懲役(求刑死刑)を言い渡した。
起訴状によると、小林被告は昨年5月7日、下校中の女児の背後から軽乗用車を衝突させて連れ去り、わいせつな行為をした上で殺害。同日夜、遺体をJR越後線の線路上に遺棄し、列車にはねさせたとされる。
これまでの公判で検察側は「まれにみる悪逆非道な犯行」と強く非難。被害者参加人として意見陳述した遺族も「被告にふさわしいのは死刑しかない」と訴えていた。
一方、弁護側は、被告が女児を気絶させるために首を絞めたとして殺意を否認し、傷害致死罪が相当と主張。強制わいせつ致死罪も成立しないとして、「長くても懲役10年が妥当」と訴えていた。(中村建太)
検察はたぶん控訴するし、産経新聞ほかは、この判決を批判するんでしょうね、きっと。
ところで時事通信のこちらの記事の、この談話を読者の皆さまはどうお考えになりますかね。
>「裁判員制度、何のため」 極刑回避に遺族―大阪・ミナミ通り魔
2019年12月02日20時01分
(前略)
一審で裁判員を務めた会社員の男性(53)は取材に対し、「失望感しかない。死刑にならない悪い例を作ってしまい、被害者に顔向けできない思いだ」と声を落とした。
タイトルからして、裁判員裁判なんてそんな大層なものではないのですが(少なくとも厳罰を下すために存在するわけではない)、それはさておき。
>失望感しかない。死刑にならない悪い例を作ってしまい、被害者に顔向けできない思いだ
ってひどいですよねえ(呆れ)。「失望感」というのもどうかと思いますが、高裁以降の判決は、いかなる点でもこの人には関係ないでしょうに。なんで顔向けできないのか、なんの関連性もない。こんなくだらん正義感(?)、使命感(?)を持たれても大変迷惑です。もっともこれは、この人物よりこういう筋違いの話を報道する時事通信の側の問題でしょう。闇サイト事件の被害者の母親のめちゃくちゃな発言そのものよりも、そのような発言をさせる法科大学院や、それを垂れ流すマスコミのほうがより悪質で批判されるべきだと私が考えるのと同じことです。
裁判官が判例に固執することを批判して、なにがどうなってほしいんだか
なおこの記事は、bogus-simotukareさんの記事を参照しました。感謝を申し上げます。