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>「石原プロ」57年の歴史に幕…渡哲也、舘ひろしら独立へ 「軍団」解散に渡「よくやったと思う」
[ 2020年7月16日 05:00 ]
渡哲也(78)、舘ひろし(70)、神田正輝(69)らが所属する芸能事務所「石原プロモーション」が57年の歴史に幕を下ろすことが15日、分かった。昭和の大スター、故石原裕次郎さんが1963年に設立し、社長を務め、映画「黒部の太陽」(68年)、ドラマ「太陽にほえろ!」(72~86年)「大都会」(76~79年)「西部警察」(79~84年)などの制作で一時代を築いた老舗プロダクション。現在所属する9人の俳優へのマネジメント業務も終了するため「石原軍団」は解散となる。
中心として支えてきた渡、舘、神田は独立する方向で調整し、00年のオーディション「21世紀の石原裕次郎を探せ!」でデビューした徳重聡(41)、金児憲史(41)らは他事務所への移籍の道を選ぶことになりそうだ。
1987年7月17日に裕次郎さんが他界後、渡が2代目社長として引っ張り、被災地での炊き出しや、国立競技場で11万人を集めて裕次郎さんの二十三回忌を開催するなどして軍団の男気を見せてきた。だが11年、渡が健康上の理由や社長在籍期間が裕次郎さんの社長在籍期間と同じ24年目を迎えたことで退任し、大番頭だった小林正彦さん(16年死去、享年80)も去り、近年の活動は縮小に向かっていた。渡はその後、相談取締役として裕次郎の妻で会長の石原まき子さん(86)をサポートしてきたが、関係者によると、今回の幕引きはまき子さんも高齢となり、元気なうちに区切りをつけたいとの思いがあった。
渡は本紙の取材に「主が亡くなって30年余り。よくやったと思います」と話している。
同社は今月3日付で石原裕次郎記念館を運営していた子会社の石原インターナショナルを清算。今後は石原音楽出版が裕次郎さんの音楽関係の版権や遺品の管理を担っていく。石原プロによると、今後の方向性を記したまき子さんの手紙が今月17日の裕次郎さんの命日に関係各所に届くという。昨年の命日には三十三回忌法要をもって弔い上げとし、公の供養は行わないと発表していた。
記事にもありますように、厳密にいえば石原プロは、版権管理会社という形での存続ということになるわけです。財産の管理業務がありますから、完全に会社をやめるというわけでもない。その財産を完全に第三者に譲渡するというのならまた話は違いますが、現段階そういうことではないようです。
石原プロがそろそろ解散するんじゃないのというのは、女性週刊誌などを中心にいろいろ記事になっていたし、舘、神田といった人たちも70くらいの年齢になっていれば、どのみちそれも時間の問題だったと思います。私は特に裕次郎のファンというわけではないし(兄貴と違って、嫌いではありません)、石原軍団も別に好きでもありませんが、それでも再放送ですが、上の記事でも紹介されている一連のドラマなどは、わりと楽しんでみていたというのも確かです。
それで、この報道を読んでつくづく感じたのが、タイトルにもしましたように、映画界での(元)スーパースターが、芸能プロダクションを作って、それで芸能人のマネジメントだけでなくコンテンツ制作をもしてテレビで存在感を誇示した時代の終焉が、石原プロの(事実上の)活動停止、解散ということなのだろうなと思います。
日本映画界が、その栄華の頂点を過ぎた1962年に三船敏郎は、芸能事務所であり制作プロダクションでもある三船プロダクションを設立しました。この会社は、時代劇も撮れる撮影所も作り、また撮影スタッフも自前でそろえるという規模の大きなものでしたが、けっきょく内紛が生じ分裂、大幅な経営縮小を余儀なくされました。現在は、著作権管理会社が主たる業務となっています。
勝新太郎は、大映の経営がいよいよ厳しくなった1967年に「勝プロダクション」を設立しました。テレビにも進出し、定番の「座頭市」から意欲的な「警視-K」にいたるまでいろいろ頑張りましたが、多額の負債を抱え81年に倒産、翌年に奥さんを社長にして「勝プロモーション」を立ち上げましたが、自分だけでなく家族のドラッグや撮影中の事故などもあり、97年に亡くなりました。
萬屋錦之介(中村錦之助)は、1966年に東映を退社した後68年に中村プロを設立、本格的にテレビ時代劇の世界に進出しました。「子連れ狼」や「破れ傘刀舟悪人狩り」などの優れた作品を作りますが、82年に会社が倒産。莫大な借金を抱えます。彼も勝と同じ病院で、同じ97年に亡くなっています。
それで石原裕次郎が石原プロを設立したのが、1963年です。この会社は、ウィキペディアから引用すれば、
>芸能事務所・制作プロダクションであるが、プロデュースやマネジメントが中心の他のプロダクションと違い、撮影用機材やクルーを現在も自社で保有しており、自社を「映画製作会社」と名乗っている。
ということです。太字も、原文のままです。
個人事務所として63年に開設、73年まで映画作りをしましたが、赤字がかさみ、テレビに活動をシフト、これが当たり、石原プロは長きにわたって日本を代表する芸能プロダクションといっても過言でなかったでしょうが、87年に裕次郎が亡くなり、ドラマ制作も2009年が最後のようです。
この4人は、三船が東宝、勝が大映、萬屋が東映、石原が日活と、すべて所属、主に活躍した映画会社は異なりますが、ともかく映画界の斜陽が明らかになり、自分で映画を企画したり、そして70年代からはテレビにシフトし、プロデュースをし、三船はそうでもないかもですが、ほかは主演、勝にいたっては監督や脚本もこなすというマルチな能力を発揮したわけです。
またこの人たちは、独立の際に、マネジメントにたけた人物や撮影スタッフも引き連れました。石原プロでいえば、番頭格の小林正彦や日活出身ではないですが、カメラマンの金宇満司といった人たちが石原の片腕となって優れた能力を発揮しました。勝も、プロデューサーの久保寺生郎や撮影の森田富士郎(森田氏は、勝プロの人間ではないようですが、やはり勝のドラマには欠かせないスタッフでした)らの優秀なメンツと一緒に仕事ができたわけです。
そして石原プロは、これらのプロダクションの中でもずいぶん長く活躍しましたが、90年代になると時代が変わりかつてのようなドラマのヒットが出せなくなりました。さらに時代も、上にあげたような俳優に匹敵するようなスーパースターが独立しても、コンテンツ制作にまで首を突っ込む時代でもなくなりました。高倉健が「高倉プロモーション」を設立しても、石原らのような展開をするわけでもない。私のみたところ、やはり1960年代までに独立した人と70年代以降の独立者は気質が違うのかもですね。日活がロマンポルノ路線に走ったり、大映が倒産してからの、まさに映画界が本当に厳しくなってからの独立というのは、独立する側の俳優たちも、まだ景気がいい時代、少なくとも倒産まではいかなかった時代に独立した人たちとは意識が違うのでしょうね。映画会社が丸抱えでマネジメントをしてくれていた時代が過ぎ去ってから独立を考えた人は、あえて自分が映画(テレビドラマ)の撮影会社をもとうとまでは考えなかったのでしょう。事実、今あげた4つの会社のうち、勝と萬屋の会社は倒産し、三船プロも80年代半ばにはよろしくない状態になったことを考えれば、2009年まではテレビドラマを制作で来た石原プロモーションは、裕次郎死後もよく頑張ったということになるでしょう。が、それでももう過去10年ドラマ制作もせず、マネジメント業、コンテンツ制作業からは撤退するというのが、やはりスーパースターが設立した会社の末路だったとなると、時代がもはや「(元)映画のスーパースタ―がテレビドラマに出て、ブラウン管(そうです、まさにブラウン管の時代です)で日本中の視聴者に存在をアピールする」というものでなくなったということです。そんなものはとっくの昔の前世紀末には終わっていた話ですが(裕次郎の死が1987年、三船、勝、萬屋が3人とも97年)、その残存、遺産がようやく終焉したということなのでしょう。
そう考えるとやはり石原プロモーションの来年に予定されているらしい業務終了は、映画・テレビ業界の1つの時代の幕なのでしょうね。芸能プロダクションを有名俳優がで経営してコンテンツ制作に勤しむ時代の終わりです。私もそれを考えながら、70年代~80年代のテレビドラマを観ていきたいと思います。