>俳優 渡哲也さんが死去 78歳 肺炎のため
2020年8月14日 21時10分
日活のアクションスターとして多くの映画に出演したほか、「大都会」や「西部警察」などのテレビドラマで人気を集めた俳優の渡哲也さんが、今月10日、都内の病院で肺炎のため亡くなりました。78歳でした。
「大都会」や「西部警察」 刑事ドラマシリーズで人気を不動に
渡さんは兵庫県淡路島出身で、昭和40年に映画「あばれ騎士道」でデビューし、日活のアクションスターとして活躍したあと石原裕次郎さんのプロダクションに入りました。
その後、「大都会」や「西部警察」など、刑事もののテレビドラマシリーズで人気を不動のものとし、裕次郎さんが亡くなったあとは、いわゆる「石原軍団」を率いて幅広く活躍しました。
NHKでは大河ドラマ「義経」で平清盛の役やスペシャルドラマ「坂の上の雲」で東郷平八郎の役を演じるなど、凛(りん)としたたたずまいと高い演技力で人気を集めました。
平成17年には紫綬褒章を、平成25年には旭日小綬章を受章しています。
渡さんは、平成27年に急性心筋梗塞で手術を受け、その後も肺気腫などを患い、自宅で療養しながらリハビリを続け、テレビコマーシャルへの出演などを続けてきました。
石原プロモーションによりますと、渡さんは、今月10日、都内の病院で肺炎のため亡くなりました。
(後略)
下の記事でも書きましたように、私は特に彼のファンということでもありませんが、しかし石原プロ制作の作品などは、楽しんでいました。まずはご冥福をお祈りします。
映画界の(元)スターが芸能事務所を作って芸能人マネジメントだけでなくコンテンツ制作にも勤しむ時代の終焉だと思うそれで上の記事で取り上げた石原プロをたたむ話の際も、渡は記者会見はおろか、表に出ることもありませんでした。さらに最近話題になった石原裕次郎とのCG共演も、渡の画像は2018年のものの流用ということで(録音はしたそうですが)、なんで新たに撮影しなかったんだと思ったのですが、つまりは体調が悪かったということでしょう。石原プロ閉鎖の件も、これは裕次郎の亡くなった日に合わせての発表ですが、たぶん渡がいつまで生きているかもわからないということも、この日の発表の際には念頭にあったのではないかと私は考えます。
さてさて、裕次郎は、報じられるところによると、自分が死んだら石原プロは解散しろみたいな話をしていたそうです。たとえば次のように報じられています。
>そしてつい最近報じられた「石原プロの解散」。裕次郎が生前、「オレが死んだら石原プロは畳め」と指示をしていたものの(後略)
裕次郎が実際にそういうことを発言したのか、どのようなニュアンスでのものか、その真意はわかりませんが、たぶん裕次郎からすると、特に渡に対しては、彼自身「申し訳なかった」という負い目があったのでしょうね。この発言は、渡哲也に対して「ぜひ自分の死後は、渡哲也のための芸能活動をしてほしい」という意味合いじゃないですかね。渡自身も、出られるのなら自分の出たい映画にたくさん出たかったはず。そういったことを記者などに吐露したことも報じられています。が、彼は石原プロのために、アクションドラマに出続けたわけです。
> 柴俊夫は1983年、渡哲也主演のテレビシリーズ『西部警察PART―III』に「タイショー」こと山県刑事役で出演した。
「渡さんに『荒唐無稽の番組ですが、ひとつ協力してください』と言われて出ることにしました。
「荒唐無稽」と言っているところが、渡の本音が出ているように思います。また『大都会 PARTII』に出演していた松田優作は、その出演自体は渡と共演したいから出演していたそうですが、Wikipediaによると、
>『大都会PARTII』の撮影中、ロケ現場ではしゃいでいる子供にからかわれた事があり、その際「考えると俺達って昼間からこんなおかしい事をやっているんだよな…」と自分が一般とは違う世界で生きているのに気づき、それを期に「よし、誰にも文句を言わせない作品を撮るぞ!」と決心し、それが後のモチベーションにつながった。
とのこと。太字も原文のままです。これは松田の話ですが、渡哲也も当然同じようなことは考えたでしょう。
もちろんこれは渡哲也自身が選んだ道ですから他人がどうこう言えることではありませんが、たとえば石原プロを去った寺尾聰が、一時期低迷していたのは否定できませんが、黒澤明が重用したり、さまざまな映画やドラマで大活躍をしているわけで、この活躍は、彼が石原プロを出たおかげでもあるでしょう。また、これも元石原プロの峰竜太は、渡から
>10日に亡くなった俳優の渡哲也さんに1カ前に電話し、「竜太、石原プロをやめてよかったな。たいしたもんでよかった」と言われたことを明かした。
>渡さんに相談したんです。そろそろ、石原プロを抜けて、と言いましたら、絶対、出た方がいいから、がんばれ、と言われたんです」とのやりとりがあったという。
と言ってもらったとのことです。もちろんこの発言にはいろいろなニュアンスがあるかと思いますが、たぶん自分のような轍は、後輩(渡は社長だったから部下でもありますか)には踏ませたくないという意味合いもあったかと思います。芸能人としてのベクトルはずいぶん違いますが、特に寺尾に対しては、渡も正直「うらやましい」という想いはあったでしょう。ほかにも弟の渡瀬恒彦のほうがいろいろな役を演じられたことも、やはりうらやましさを感じていたのは間違いないところです。
そう考えていくと、やはり1人の国民的俳優を思い出しますね。渥美清です。渥美の場合、70年代まではテレビドラマでも主演をはっていました。Wikipediaから引用すれば
>1972年、渥美プロを設立し、松竹と共同で映画『あゝ声なき友』を自身主演で製作公開する。1975年、松竹80周年記念として制作された映画『友情』に出演。1977年にはテレビ朝日製作の土曜ワイド劇場『田舎刑事 時間(とき)よとまれ』にて久しぶりにテレビドラマの主演を務める。同作品はのちに長く続く人気番組『土曜ワイド劇場』の記念すべき第1回作品であると同時に、第32回文化庁芸術祭のテレビ部門ドラマ部の優秀作品にも選出されている。この成功を受けて同作品はシリーズ化され1978年に『田舎刑事 旅路の果て』が、1979年には『田舎刑事 まぼろしの特攻隊』がいずれも渥美主演で製作放送されている。映画『男はつらいよ』シリーズの大成功以降は「渥美清」=「寅さん」の図式が固まってしまう。当初はイメージの固定を避けるために積極的に他作品に出演していたが、どの作品も映画『男はつらいよ』シリーズ程の成功は収める事が出来なかった。唯一1977年『八つ墓村』でそれまでのイメージを一新して名探偵「金田一耕助」役を演じ松竹始まって以来のヒットとなったが、シリーズ化権を東宝に抑えられていたため1本きりとなったことが大きな岐路となる。
1979年4月14日にNHKで放映されたテレビドラマ『幾山河は越えたれど〜昭和のこころ 古賀政男〜』では作曲家、古賀政男の生涯を鮮烈に演じ高い評価を得るが、新たな役柄の幅を広げるには至らなかった。また、この時期、今村昌平監督が『復讐するは我にあり』の主役・榎津巌役でオファーしたが、「寅さんのイメージを裏切りたくない」との理由で断っている[要出典]。1980年代以降になると、当時の松竹の思惑や渥美自身も他作品への出演に消極的になっていたこともあって、『男はつらいよ』シリーズ以外の主演は無くなっていく。1988年に紫綬褒章を受章。その後は主演以外での参加も次第に減っていき、1993年に公開された映画『学校』が『男はつらいよ』シリーズ以外の作品への最後の出演作品となった。
というわけです。実際79年に『皇帝のいない八月』に出演して以降は(思い出しましたが、これ渡瀬恒彦も出演していましたね)、山田洋次作品か、あるいは山田の弟子、共作者である朝間義隆監督の『俺たちの交響楽』に出演したことしかないわけです。それももったいなかったですね。上の『田舎刑事』シリーズは、私は2本観ましたが、なかなかの演技でしたが、松竹は経営のために寅さんを作り続けたし、渥美もそのあたりの事情は重々承知でしたから、体調を崩しても出演し続けました。これもWikipediaから引用すれば、
>病気については、1991年に肝臓癌が見つかり、1994年には肺への転移が認められた。主治医からは、第47作への出演は不可能だと言われていたが何とか出演し、48作に出演できたのは奇跡に近いとのことである。
とありまして、「身を削った」という表現が、比喩でなく現実でした。
死が近い段階でも映画出演を続けた渥美と、晩年表に出ることすら難しかった渡とではまた状況が違いますが、2人とも、芸能活動に、自分の意向と違うブレーキがかかったということは確かでしょう。渥美も渡も、『男はつらいよ』と『大都会』『西部警察』でまさに国民的スター、最高レベルの知名度、時代を超越した一種のアイコンになったのだから、それなりの対価はあったのですが、やはりご当人たちにはくやしさ、無念さは、無視しえぬものだったと思います。
渡哲也氏のご冥福を祈ってこの記事を終えます。