第2次安倍政権で、非常に特異なところが、実に7年8か月にもわたって、1人の人物が内閣官房長官を務めたことです。これは、他の長期政権にないところです。Wikipediaからの引用として、
>現憲法下では当初、天皇の認証対象とならない非認証官であったが、1963年(昭和38年)に当時の池田勇人首相が、首相の意を受けて大臣に指示するには、大臣と同格にする必要があると判断し、第2次池田内閣 (第2次改造)時代の同年6月11日から認証官となった。それまでは形式上は大臣より格下ポストだったのが、ようやくここで完全な大臣待遇となった。
とありますので(注釈の番号は削除)、その後の長期政権である佐藤内閣、中曽根内閣、小泉内閣での官房長官についてみてみます。
佐藤内閣(1964.11.9~1972.7.7):橋本登美三郎→愛知揆一→福永健司→木村俊夫→保利茂→竹下登
中曽根内閣(1982.11.27~1987.11.6):後藤田正晴→藤波孝生→後藤田正晴(再任)
小泉内閣(20014.26~2006.9.26):福田康夫(森内閣からの継続)→細田博之→安倍晋三
というのでお分かりのとおり、連続の就任年月が、第二次安倍政権とほぼ同じの佐藤内閣は、6人の人物が担当し、5年弱の中曽根政権はのべ3人で2人の人物が担当、5年半の小泉内閣は3人です。
ついでに、自民党の幹事長についても見てみましょう。
佐藤内閣:三木武夫(池田内閣からの継続)→田中角栄→福田赳夫→田中角栄(再任)→保利茂
第2次安倍内閣(2012.12.26~2020.9.16)::石破茂→谷垣禎一→二階俊博
であって、佐藤内閣ののべ5人というのはずいぶん多いですが、他の3内閣も、3人ではあります。ただ第二次安倍政権は、中曽根、小泉両内閣より2年以上長いし、また3人目の二階氏が4年以上幹事長を続け、次の菅政権でも幹事長を継続するというのは特筆すべきものであります。
で、上の官房長官と幹事長を確認しますと、たぶん佐藤政権や中曽根政権での福田赳夫、竹下といったひとたちは 自分の跡継ぎという意味合いもあったのかと思います。小泉政権で、小泉氏が安倍晋三を幹事長と官房長官に起用したのも、つまりは自分の次の首相は安倍となるであろうという目論見からのものでしょう。事実安倍は、この小泉政権下での官房長官就任が、首相以外では最初で最後の入閣です(というのもどうかと思います)。
現実には、佐藤の次の首相は、佐藤とは毛色の違う田中角栄がなったし、福田が首相になるのは、その後の三木を経なければなりませんでした。竹下は、中曽根の次の首相を射止めました。
そして、安倍は、この2つの職務について、自分の跡継ぎとなってほしい人物を起用することをしませんでした。菅官房長官は、安倍より6歳年上、石破は安倍と総裁選を争った関係であり跡継ぎになってほしいわけではないし、谷垣氏は1945年生まれの9歳年上、二階氏は1939年生まれの安倍より15歳も年上です。谷垣氏は事故でどっちみち政治家を引退しましたが、二階氏もさすがに今から首相(党総裁)というわけにはいかない。菅氏も、後継ぎというものでもない。
あとすみません、記事を書いていて思い出しましたが、財務相の麻生太郎も第2次安倍内閣中7年8か月ずっと財務相だったわけで、これも類を見ませんが、この記事では彼については割愛します。
報じられているところによれば、安倍は、自民党の政調会長である岸田文雄氏を、自分の次の自民党総裁(首相)にしたかったようですが(しかしコロナの際の岸田氏の対応がよくなく、光景から外した?)、そして事実安倍は、2012年12月の政権奪還から、2017年8月まで外相の要職に付けたわけです。彼は、宏池会会長であり、もちろん宏池会も、往年の勢力はありませんが、それでもWikipediaによれば
>安倍晋三とは1993年の当選同期であり、派閥は異なるが関係は良い。安倍が幹事長代理を務めていた時代に、党改革で議論を交わした仲とされ、1度目、2度目いずれの安倍内閣にも入閣しており、信頼も厚い。特に、第2次内閣発足以降、「タカ派」と評される安倍が、連続5期、4年半余りにわたって岸田を外務大臣に起用し続けた理由については、岸田の実務能力と、「ハト派」「親中派」である宏池会出身という点を鑑みて、中国をはじめとする周辺諸国への友好姿勢をアピールする狙いがあるといわれている。
とあり(注釈の番号は削除)、安倍も岸田氏にいろいろ期待していたようです。だいたい同じ年齢だし当選同期ではありますが、安倍から岸田氏に政権が移れば、安倍は岸田氏を育てたと言えるでしょう。
それでそのためには、政調会長でなく、官房長官や幹事長を岸田氏にさせた方がよかったのでしょうが、特に自民党総裁3期目では、そうしたほうが岸田氏のためになったのでしょうが、安倍はそれをしませんでした。その理由はいろいろでしょうが、やはり安倍は、あまり自分の後継者を作るということに一生懸命な人間ではなかったのだと思います。自分の政権教科のためには、菅氏や二階氏のような人物のほうが岸田氏(ら)よりもいいと最終的に判断したということなのでしょう。
で、その安倍の判断は、こと安倍政権を長続きさせるためにはたぶん正しかったのでしょう。安倍政権が長期政権になった理由はいろいろあるでしょうが、やはり官房長官と自民党幹事長とががっちり首相・総裁の安倍を守ったことが大きなところだったことは間違いない。
しかし同時に安倍は、そのために後継者を育てるということをしませんでした。いや、稲田朋美を自分のイデオロギーを引き継ぐ人間にしたかったのでしょうが、これはまったくの失敗でした。稲田の能力が低すぎた。安倍が、あんまり自分の後継を育てようとしなかったその理由はつまびらかでありませんが、そして自分の次の首相に、長きにわたって岸田氏というさほど自分とイデオロギーが一致するわけでもない人間を考えていた理由も、個人的な好意以外にどういうものがあったのかわかりませんが、やはり安倍としては、自分のようなイデオロギーの政治(家)は、自分限りだ(出るとしても、自分が育てるようなものではない)と考えていたのかもですね。ちょうど先日このような記事を読みました。
>「安倍総理の突然の辞任に今後の不透明感を抱いた人もいるだろう」。9日、憲法改正に向けた国民投票を実現するため自民党山口県連や県神社庁などが山口市で開いた連絡会議の冒頭。国会議員や地方議員たち約120人を前に県連常任顧問の柳居俊学県議会議長は険しい表情で切り出した。
県連は昨年6月、憲法改正推進本部を設置。県内19市町の首長と議長の全員が連絡会議に名を連ねる。憲法改正を目指す安倍首相は年頭会見でも「私の手で成し遂げる」と訴えた。
それだけに突然の辞任表明は地元改憲派を動揺させた。「残念だが総理の志を受け止め、新総裁に実現を強く要望したい」。柳居議長の鼓舞は10分以上に及んだが、出席の県議は「改憲は安倍さんが首相だからこそ現実的だった」と諦めの表情。別の県議は「辞める前に道筋だけでも付けておくべきだった」と悔やむ。
(後略)
記事中、
>県連は昨年6月、憲法改正推進本部を設置。県内19市町の首長と議長の全員が連絡会議に名を連ねる。
って、いくら安倍のおひざ元にしたって、山口県てどんだけ右翼の県なのよと驚きますが、それはさておき、
>出席の県議は「改憲は安倍さんが首相だからこそ現実的だった」と諦めの表情。別の県議は「辞める前に道筋だけでも付けておくべきだった」と悔やむ。
というのは非常に興味深いですね。安倍以外では、自民党の議員もそんなに改憲に興味がないという発言も考えさせられますが、
>辞める前に道筋だけでも付けておくべきだった
というのは、本来だったら安倍が当然するべきことでしょう。いや、私は護憲派ですからしなくていいですが、安倍がだめなら次の世代に改憲をゆだねるという意味合いでも、安倍は改憲の道筋を作るのが安倍がすべきことでしょうが、彼は第2次政権中の7年以上の年月で、これといったことをしませんでした。演説や取材ではいろいろなことを言っていましたが、あまり実効性があったとはいえない。上の記事での安倍発言にもあるように、安倍は、自分でなければ改憲はできない、他の人間ではやる気がないと考えていたのではないですかね。そしてそれは、安倍の周囲も同じようなことを考えているのではないか。
そう考えると私は、7年8か月安倍が首相であり自民党総裁であったことにより、政治家の新陳代謝が進まなかったという問題点があったと思います。安倍が永久首相であるわけではないのだから、少なくとも総裁3期目からは、もう少し若手を起用する必要があったのではないか(小泉進次郎では、とてもそんなレベルではないでしょう)。現段階では、次の首相になるであろう菅氏がどう若手を起用していくかですね。ポスト菅の首相について、彼がどう考えているのかはわかりませんが、安倍政権での若手起用の少なさは、正直しばらくの間は、自民党の政治家の質の低下、弱体化をもたらすと思います。このあたり私もいろいろ動向を見ていき、記事を書くべき時には書いていきたいと思います。