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Channel: ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)
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伝説というものは、必ずしも世に伝わっているものが正しいわけでもない(らしい)

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渡哲也の有名な伝説関係で、面白い記事を読みました。まずはWikipediaから。

>石原の跡を継ぎ、石原プロモーションの社長となった渡は、所属俳優から「社長」と呼ばれている。入社した理由は、前述の石原との初対面での出来事に加え、石原と交友関係ができてから、石原から服や靴などをもらい、公私共に付き合いが深かったことや、日活時代から親しかった小林正彦が石原プロへ参加していたことだった。いろいろと世話になった石原の窮地を救うため、当時180万円の全財産を持って石原の元へ赴き、「社員の皆さんのお茶代にでも使って下さい」と差し出した[注釈 2]

とあり、注釈2をクリックすると、

>財産は結局、石原裕次郎は気持ちだけ受け取ったという。このエピソードはドラマ『』でも触れられている。

とあります。世間ではそういうふうに伝わっていますが、こんな記事を読みました。

【渡哲也さん 仁義の男の美学】本人直撃も「記憶ない」…石原裕次郎に渡した180万円の行方

>1971年、東京・調布の石原プロを訪ねた渡哲也さんは、7つ年上で誕生日(12月28日)が同じの石原裕次郎さんと再会。そこで「社員のみなさんのお茶代にでも使ってください」といって、全財産の180万円が入った封筒を裕次郎さんに差し出している。

 そのお金を裕次郎さんは、使うことなく差し返したといわれているが、2年前に亡くなった“コマサ”こと小林正彦専務(当時)は、「会社は倒産寸前だったので、哲ちゃんの差し入れは助かったよ」と言い残している。

 渡さんが裕次郎さんを訪ねた当時、石原プロは約8億円の負債を抱えており、経営状態は最悪だった。

 石原プロは63年に日活を退社した裕次郎さんを代表に立てて設立。プロ第1弾「太平洋ひとりぼっち」(63年)、そして大作「黒部の太陽」(68年)、「栄光への5000キロ」(69年)などヒット映画を製作したが「ある兵士の賭け」(70年)の興行が失敗したことで困窮していた。

 石原プロにとって、実は「180万円」は会社の命綱として役に立っていたとみられるのに、この美談を渡さんに何度ぶつけてみても「さあ、そんなこと記憶にありませんね」の一点張りだった。

 尊敬する裕次郎さんのためなら「命を張る」男なのである。

真相は定かでないし、どっちみち渡はその後石原プロに入って社長まで務めたんだから、裕次郎が金を受け取ろうが返そうが最終的にはあんまり関係ないといえば関係ないのですが、でもまあこの記事を読んだ限りでは、裕次郎はそれを使ったんでしょうね(苦笑)。仮に使ったのだとしても、裕次郎だって使いたくて使ったというものでもないでしょうから、別に非難するつもりもないですが、やはりそれは、裕次郎とその取り巻き、周囲にとっては「黒歴史」というやつなのでしょう。当然ですよね(笑)。

でもほんと、自分よりはるかに後輩でしかも芸能人としての格も低い(当時)渡から銭もらってそれを使ったというのも、裕次郎もよっぽど当時金がなかったんですね。やはり彼は、金儲けの才には欠けていたのかもです。


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