今年の2月に野村克也が亡くなり、その時私は、その件で記事を書きました。
野村克也も、けっきょく南海との和解はなく亡くなった(追記あり)追記したのは昨日(11月14日)です。その記事で、私が強調したかったのが、彼が長きにわたって所属していた南海ホークスの展示施設に、彼の関係するものが何一つないという話です。
つまり野村が南海ホークス監督(プレイングマネージャーでした)時代、野村夫人(野村沙知代)がいろいろ越権行為をして球団、選手ともに非常に迷惑をしたので、最後通牒を突きつけられても奥さんをかばったので南海球団を追い出され、その件を野村夫婦が強く恨んでいて(正直「逆恨み」と言われてもしょうがないと思います)、南海ホークスのメモリアルギャラリーにすらも、野村の展示品はおろか、名前すらも掲示することを拒否したというものです。
南海ホークスは1988年、親会社の南海電鉄がダイエーに球団を売却したことにより福岡ダイエーホークスとなり、福岡に移転、ダイエーも経営難によりソフトバンクに球団を譲渡、現在福岡ソフトバンクホークスとなっています。ダイエーへの売却により南海ホークスの本拠地だった大阪球場(大阪スタヂアム)は用なしとなったので、89年と90年に同じ大阪が本拠地だった近鉄バッファローズ(当時)が主催試合を行い、高校野球の予選なども90年まで行われていましたが、同年に野球場としての役割を終え、その後住宅展示場などもしていましたが(私は、野球を観たことはありませんが、住宅展示場の時代にこの球場を訪れたことはあります)、最終的に98年に解体されました。どのみち大阪球場は、関西国際空港開港に伴う再開発事業により、解体はダイエーへの売却以前から予定通りという状況でした。
そしてその跡地にあるなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」は、南海ホークス時代のさまざまな展示がされているのですが、南海ホークスの顔である野村の展示はなかったのです。つまり前記事での引用をそのまま再引用すれば、
>大阪スタヂアム跡地のなんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」では、同球団で活躍した多数の選手を写真・映像・展示資料で紹介している。しかし、野村については一切取り上げていないばかりか、シーズン単位で監督名を記した球団年表にも野村の名前を載せていない一方、ドン・ブレイザーがヘッドコーチに就任し、作戦面での采配を担っていたことを載せている。このような展示に至った理由は、メモリアルギャラリーの建設に際して南海電鉄から本人宅へ連絡があったにもかかわらず、プレイイングマネジャー時代の解任劇を根に持っている沙知代夫人が名前や写真の掲載を一切拒否したことにある。この件については、往年のファンから、夫人宛てに抗議の電話が殺到したという。野村は、なんばパークスオープン半年後の2004年3月に関西テレビ放送で放映された『ザ・ドキュメント』の「帰らざる黄金の日々 南海ホークスへの鎮魂歌」の中で、南海時代についてコメントしたことがある。
ということです。ところが事態が変わりました。このブログの常連コメンテイターであるnordhausenさんから情報提供をいただきました。
>Unknown (nordhausen)2020-11-14 20:27:59旧聞になりますが、メモリアルギャラリーに野村の功績が展示されることになる予定です。
https://www.sankei.com/sports/news/201104/spo2011040014-n1.html
このプロジェクトは、江本孟紀が発起人となって始めたとのことで、野村の息子のコメントも寄せられています。恐らく、野村家の承諾も得たということなのでしょう。いずれにしても、ようやく野村の功績が展示されることになって本当に良かったと思います。
おお、ついにその日が来たかなと思いました。正直、仮に実現するとしても最低2~3年くらいのタイムラグはあるのではと思っていたのですが、予想外に早い時期に実現してよかったと思います。それでは記事の引用を。
>ノムさんの記念品、大阪球場へ里帰り プロジェクト始動、CFで資金募集
2020.11.4 17:10スポーツ野球
プロ野球南海(現ソフトバンク)などで選手、監督として活躍し、今年2月11日に84歳で死去した野村克也さんの遺品などを、複合商業施設「なんばパークス」(大阪市浪速区)に展示するプロジェクトを始めると、運営する南海電鉄とサンケイスポーツでつくる実行委員会が4日、発表した。同施設は南海の本拠地だった大阪球場の跡地にあり、戦後初の三冠王に輝いた野村さんの功績がゆかりの地で展示されることになる。来年2月14日に記念式典を行う予定。
プロジェクトの名称は「おかえり!ノムさん 大阪球場に。」。なんばパークス内の「南海ホークスメモリアルギャラリー」には、黄金期に監督を務めた鶴岡一人氏やエースだった杉浦忠氏らのゆかりの品が飾られているが、野村さんに関する展示はない。このためギャラリーを改修し、野村さんが使用したバットや獲得したタイトルのトロフィーなどを展示する。
南海時代にバッテリーを組み、4日、発起人として記者会見した江本孟紀(たけのり)氏(73)=サンケイスポーツ専属評論家=は「ギャラリーに野村の『の』の字もないのは寂しかった。スーパースターだった野村さんの素晴らしさをファンに認識してもらいたい」。野村さんの息子で楽天の1軍コーチを務める克則さん(47)は「父の功績が大阪球場の跡地に刻まれることを大変うれしく思います」とコメントを寄せた。
ギャラリーの改修に必要な費用はクラウドファンディング(https://camp-fire.jp/)で11日から来年1月11日まで募集する。目標金額は2千万円で、一口3千円から応募が可能。金額に応じ記念ボールやレプリカユニホームなどが返礼品として贈られる。問い合わせは実行委事務局、電話06・6191・6109(平日午前10時~午後5時)。
私は前記事で、
>私としては、上のメモリアルギャラリーに、野村の名前を出すくらいのことはOKにしてもよかったのではないかと考えますが、ご当人いろいろあってそうはいかなかったのでしょう。それは仕方ないですが、あとは野村の息子次第ですかね。すぐというわけにはいかないかもですが、ほとぼりが冷めたあたりで少しは考えなおしてくれればです。彼自身は、別に南海への悪意はないでしょうから、それもできない相談ではないと思います。
と書きましたが、野村克則も、この件については相当気にしていたのでしょうね。たぶんですが、江本孟紀から話を受けた際には、「渡りに船」の心境だったのではないか。彼としても、自分から積極的に動くというのは難しかったと思うので、江本が話をしてくれたのはとてもありがたいものだったのだろうと思います。実際メモリアルギャラリー(南海電鉄)側も
>今後も許可を得るつもりはありません
>野村さんも亡くなられ、その意思を尊重していきたいと思っています
という状況であり、これは非常に大変だったと思いますが、江本だけではないにしても、彼の尽力がなければ実現しなかったのでしょう。それにしても江本もえらいよね。正直こういう話は、たいていの人間はかかわるのを嫌がるのが正直なところです。江本は、野村とはかなり深い人間関係があったとのことですが(Wikiepdiaにも、「江本孟紀との関係」という項目があるくらいです)話をしても、野村の奥さんと、それに追随する野村との関係では、その生前はまず実現はできない相談だったでしょう。お亡くなりになった後でも息子も、やはり親に遠慮するところもあったはずで、熱心な江本の働きかけがなければ実現はしなかったでしょう。ここは江本孟紀という人に敬意を表したいと思います。やはり彼も政治家をやっていたので、そういう交渉や説得にたけていたということなのでしょう。そして、ちょっといまその発言を記載した記事を確認できないので、ここで引用はできないのですが、江本ははっきり「あの夫婦はずいぶん他人に迷惑をかけた」と書いていました(談話だったかな?)。この2人の死後、そこまではっきり言った野球関係者(一般人は、さすがにいくらでもネットなどで書いたでしょうが)は、たぶん江本くらいではないか。あるいはほかにもいるのかもですが、江本もたぶん自分しかこの件は解決できないという自負もあったし、また野村が残した負の遺産、不始末を自分が何とかしたいという思いもあったのではないかと思います。
さすがに私も、クラウドファンディングに参加する気はありませんが、ギャラリーが改修されたら観に行ってみます。それで記事を書こうと思います。
nordhausenさんに感謝を申し上げてこの記事を終えます。