先日興味深い記事が発表されました。まずは、全文をご紹介。
>円谷英二撮影の幻の映画「かぐや姫」イギリスから帰還 フィルムが渡った理由、発掘の経緯は?
2021年7月9日 16:00
「生誕120年 円谷英二展」と映画「かぐや姫」[短縮版](1936)凱旋上映の企画発表に関する会見が7月7日、東京・国立映画アーカイブ長瀬記念ホールOZUで実施。国立映画アーカイブ館長の岡島尚志氏の挨拶に続き、展示・資料室長主任研究員の岡田秀則氏、映画室長主任研究員の大傍正規氏より「かぐや姫」発見、上映までの経緯が語られ、円谷プロダクション代表取締役会長兼CEOの塚越隆行氏より“円谷英二生誕120年”“ウルトラマン55周年”についての想いが語られた。
「ウルトラマン」「ゴジラ」といった世界的作品を世に送り出し、日本初の特技監督として世界中のファンの心をつかんできた“特撮の父”円谷英二は、今年7月7日に生誕120年を迎えた。また「ウルトラマン」も1966年の誕生から55周年。この記念すべき年に、8月17日から「生誕120年 円谷英二展」(主催:国立映画アーカイブ・須賀川市、特別協力:円谷プロダクション)を開催することになった。また、円谷英二が特撮に足を踏み入れる以前、本編カメラマンとして活躍していた頃の作品で、長い間失われていた幻のフィルム「かぐや姫」の短縮版が、イギリスで発掘。凱旋および上映が実現する。
「かぐや姫」(J.O.スタヂオ製作・配給)は、1935年11月11日(京都宝塚劇場)、同年11月21日(日本劇場)で公開。J.O.の「百万人の合唱」に次ぐ第2回作品で、竹取物語に題材とした“新日本音楽映画”と銘打たれている。かぐや姫役は文化学院学生・北澤かず子。ビクター専属歌手の藤山一郎、徳山たまき(「たまき」の漢字は「王+連」)、創作座の藤輪欣司、笑いの王国の横尾泥海男、旧帝劇幹部女優の東日出子、新劇の汐見洋などが出演。アール・シー・エー・ハイフィデリティ―使用のオールトーキーだ。オリジナル版上映時間は75分。
「かぐや姫」が、日本からイギリスへフィルムが渡った経緯については、1936年にさかのぼる。ロンドン日本協会(ジャパン・ソサエティ)が、英国人や現地邦人向けの上映会を企画し、在英日本大使館に「日本の可憐な伝説、童話を題材にした映画がほしい」と依頼。同大使館から相談を受けた外務省が、外郭団体の国際映画協会に作品選定を委嘱し、「かぐや姫」が輸出フィルムとして確定した。やがて、国際映画協会の監修により、冒頭に英語字幕による解説を付した短縮版(33分)が作成されることになった。
“日本帰還”の第1歩となったのは、2015年5月のこと。ロンドン在住の映画史研究家ロジャー・メイシー氏から 、英国映画協会(BFI)に、本作の可燃性ポジフィルムが現存しているという情報が寄せられた。同年10月、国立映画アーカイブ研究員がBFIの保存センターで現物調査を実施。その結果、当時日本映画を通じて文化振興を行っていた国際映画協会の監修により、1936年11月に作成された「かぐや姫」(短縮版)であることが明らかに。その後、およそ6年にわたるBFIとの収集交渉を経て、「かぐや姫」(短縮版)を不燃化したフィルムの里帰りが実現することになったのだ。
岡島氏は「映画『かぐや姫』の発見は国際的な連携が良い形で実った一例と言えると考えております」と語る。そして「長年の収集事業の成果が活かされた展覧会で展示される数々の怪獣映画、SF映画のポスターなども、私共の地道なアーカイブ活動の成果であり、円谷英二という巨人の業績を雄弁に語ってくれるものとなっているかと思います」と展覧会への自信をにじませた。
一方、塚越氏は「円谷プロダクションの創業者である円谷英二の生誕120周年の年に、円谷英二展を開催し、『かぐや姫』を上映できることを大変嬉しく思います。また今年はウルトラマンの誕生から55年目という年でもありますので、このタイミングで皆さまにお届け出来る意味を感じております」と胸中を吐露。「この企画が沢山の皆さんに円谷英二監督の偉業を知って頂く機会になれたらと思います。また『かぐや姫』は後に“特撮の神様”と呼ばれる円谷英二監督の若き日の作品という事で、随所に後の特撮作品に繋がってくる創意が観られます。こちらの作品も多くの方に観て頂ければと思います」と思いの丈を述べた。
特別ゲストとして登壇したのは、円谷英二監督の三男である円谷粲氏。「120年経っても円谷英二が忘れられずに、残した功績を祝ってくれるということを、大変有難く思います。感謝に堪えません。120年も生きた実績があるというのは大したものだなと思います。この年になると(父・英二)から何を言われたか思い出せませんが、こうした展覧会などを通して、再度インプットしつつ、新しい人達が何か得られることを出来ればと思います」とコメントを寄せていた。
「生誕120年 円谷英二展」(https://www.nfaj.go.jp/exhibition/tsuburaya120/)は、8月17日~11月23日に、国立映画アーカイブ(展示室:7F)で開催。「かぐや姫」の一部は、展示室内のモニターで視聴可能。なお「かぐや姫」上映企画(冒頭の英語字幕による解説は、日本語字幕が付く)は、9月4、5日に実施(小ホール:地下1F)。詳細は、後日、国立映画アーカイブの公式HPに掲載される。
(映画.com速報)
上は、撮影時のオフショットでしょうか。女優さんは、当時学生さんだったようで、この映画のみの芸能活動だったのでしょうか。そしてたぶんこの記者会見を受けてのものでしょうが、この映画は、Wikipediaにも記載されていますね。
シンプルな記述ですが、ちょっと紹介してみますと、
>制作
本作では特殊効果が用いられており、例えば切った竹の中から小さな女の子が顔を出す場面は合成によるものである。また、船が嵐に遭う場面では特殊撮影が用いられている。
日本国外での上映
1936年、ロンドン日本協会がイギリス人や現地法人向けの上映会を企画し、在英日本大使館に「日本の童話や伝説を題材とした映画を用意してほしい」と依頼する。外務省は大使館から相談を受けた後、国際映画協会に選定を委託する。そして、本作のイギリス行きが決まり、国際映画協会の監修で短縮版が制作された。
フィルムの再発見
本作は封切り以降の上映記録がなかったことに加え、フィルムの所在も不明だった。2015年5月、イギリスの映画史研究家から英国映画協会 (BFI) に本作の可燃性ポジフィルムについての情報が寄せられる。同年10月、国立映画アーカイブの研究員がBFIの保存センターにあったフィルムを調査し、本作の短縮版であると認定する。それから6年間、BFIとの交渉を経て、この短縮版を不燃化したフィルムが日本で上映されることとなった。
という感じです。なお上の引用では、注釈の番号は削除しました。
円谷英二って、1901年、つまり20世紀最初の年の生まれだったんですね。ちなみにこの年にヴィクトリア女王が亡くなり、映画関係でいえばクラーク・ゲーブル、島耕二、メルヴィン・ダグラス、ゲイリー・クーパー、ヴィットリオ・デ・シーカ、ロベール・ブレッソン、サム・スピーゲル、リー・ストラスバーグ、ウォルト・ディズニー、マレーネ・ディートリヒといった人たちが同じ1901年生まれです。円谷英二のWikipediaの記載によると、彼が映画界に入ったのが1919年です。もともと彼は、撮影で入社したので、会社をいろいろ変わりながら精進し、1931年頃は、
>1931年(昭和6年)、30歳。渡欧していた衣笠監督の帰国後1作目となる『黎明以前』を、杉山公平とともに撮影。ホリゾントを考案し、日本で初めてのホリゾント撮影を行う。長男一が誕生。
このころ、「アイリス・イン、「アイリス・アウト」(画面が丸く開いたり、閉じたりする映像表現)や「フェイド・イン」「フェイド・アウト」、「擬似夜景」といった撮影手法を日本で初めて使用したほか、セットの奥行を出すために背景画を作る、ミニチュアセットを作る、一部の画面を合成するなど、後の特撮技術に通じることを行なっている。また、足元から煙を出して臨場感を高める手法で「スモーク円谷」と呼ばれた。給料の約半分を撮影技術の研究費に注ぎ込み、さらに、協力者に対してただ酒を奢る日々だった。
しかし、これら特殊撮影技師としての姿は当時、他のカメラマンたちには理解できず、「何をやっているのかわからないズボラヤだ」と揶揄された。
さらに「一番のスタアである林長二郎の顔をリアルに黒く写した」としてその撮影手法が社内で反発を受け、撮影待遇を、セットもロケも格下の「B級」に落とされ、照明すら制限された。当時の時代劇映画は歌舞伎の延長にあって、映画的リアリティなど無視して二枚目歌舞伎役者たちの白塗りの顔をくっきり映すものであり、こうした撮影手法はタブーだったのである。
円谷はこの待遇の中、足りないライトで撮影したフィルムをネガを特殊現像で捕力したり、チャチなセットを立派に見せるため「グラスワーク」(キャメラの前に絵を描いたガラス板を置く手法)やミニチュア撮影を投入したりした。それも、そもそもは、こういう冷遇状況から生まれた工夫だった。
またこのころ、研究資金と生活費の足しにと、現像技術を生かした新案の「30分写真ボックス」を四条通の大丸百貨店に売り込み、大丸二階に設置されたこの写真ボックスは大評判となる。円谷は自らボックスに詰め、現像を行った。
という状況でした。『かぐや姫』を撮影した年は、
>1935年(昭和10年)、34歳。2月から8月にかけ連合艦隊の練習艦「浅間」に乗艦、ハワイからフィリピン、オーストラリア、ニュージーランドを回り、練習生の実習風景の長編記録映画『赤道を越えて』を撮影。これが監督第1作となった。次男皐が誕生。政岡憲三と組み、『かぐや姫』を撮影
であり。そう考えると飛翔の年、ということですかね。円谷は、1970年に亡くなりますが、その際でも
>最期まで映画『ニッポン・ヒコーキ野郎』と長編特撮映画『かぐや姫』の企画を練っていた。
というわけで、彼が企画を練っていた『かぐや姫』は、たぶん1935年のそれを程度はともかく意識したものでしょう。いずれにせよ非常に興味深いですね。これは観るに限ります。国立映画アーカイブのHPのその関係は、こちら。そして同時に、円谷英二の企画展もあるわけです。
クレーンに乗る円谷の写真は、1934年に撮影されたものとのこと。だいたい「かぐや姫」撮影時と同時期ということですかね。
その後の円谷は、東宝での活躍の後、「円谷特技プロダクション」(後に「円谷プロダクション」。「特技」とは「特殊技術」の略。いわゆる「特撮」と同義)を設立、映画の斜陽がひどくなってからもテレビで大活躍することになりますが、上の引用でもわかるように円谷は職人としては、商売人ではなく芸術家の傾向が強く、いい視聴率はとっても大赤字ということになり、東宝に借金の面倒を見てもらったり、英二の死後に社長になった長男の円谷一も41歳の若さで亡くなる(1973年)など、どうもよろしくないこともあり、以後経緯は省略しますが、2007年までで円谷家の同族経営は終止符を打ち、世田谷にあった本社(砧から八幡山に移転しましたが、砧の土地を当方に返したり隣接地を売却しました)を取り壊し(2008年)、2011年には渋谷区に本社を移転、現在は、株式をフィールズ が51%、バンダイ が49%持っているという体制です。
円谷英二というような存在が、生物学的な意味合いはもちろん永続するわけもありませんが、事業家としてもあのような路線を続けられるようなものではありませんが、円谷家の円谷プロからの退きは、来るべきものが来たというものなのでしょう。そうすると、記者会見で、あえて円谷英次の息子である円谷粲が出席したのも(氏は、長男次男(円谷皐)が社長を務めたのに、円谷プロでは副社長止まりでした)、もちろんご当人も会社が円谷家から離れたことにはいろいろな思いがあるとしても、そこは彼も大人の対応をした部分もあったのかもしれません(ちなみに氏は、芸能人をやっていた円谷優子の父親)。上の展示では、そのようなことまではおそらく(当然)触れられてはいないでしょうが、「円谷プロのその後」も念頭に入れて、私もぜひ企画展を鑑賞したいと思います。