先日(正確には11月9日)、私は「え!」と驚きました。藤井輝明氏の死を知ったからです。こちらの記事を読んで知りました。
これが各ポータルサイトなどで報じられたためツイッターなどでもこの件が書かれるようになりました。私が読んだのは、Yahoo!ニュースのサイトだったと思います。
藤井氏といっても、名前ではピンとこない方が多いかもですが、この容貌はどこかで写真をご覧になったことがあるかもしれません。上の写真の出典は、最初で紹介した記事です。
上の写真の著作は、現在プレミア価格になっていますね。藤井氏の死が関係しているのか。
2歳ごろから海綿状血管腫を患っていた藤井氏は、もともと中央大学の経済学部を優秀な成績で卒業しましたので就職先に苦労することもないはずなのですが、この顔のためどこの企業からも露骨に嫌がられ、全く就職活動もうまくいきませんでした。なにしろWikipediaによれば
>人事担当者から直接「バケモノ」と言われたこともあったという。
だそうですから。今ならそのような発言も当時よりは控えられているかもですが、そういったことにも厳しい時代でした。1970年代終わりごろの話ですかね。そしてさらにWikipediaから引用すれば
>悩んでいた折にある医師から「医療や福祉にはあなたのようなハンデを抱えている人間が必要だ」と言われたことから医学研究所の事務官として働くことになった。その後、医学系の大学に入り直し医学博士となる。
とのことです。人生最後の肩書は、岐阜聖徳学園大学の特任教授だったとのこと。上の記事からの引用でご紹介しますと、
>藤井さんは岐阜市内にアパートを借りて暮らしていました。5月4日深夜、大学近くの用水路で倒れていたのが発見されました。死因は急性心不全。自転車を運転中に誤って転落して心不全となったのか、心不全になって水路に転落したのかは不明です
だそうです。あるいはですが、藤井氏は肥満されていたので、心臓に負担がかかっていたことはあったのかもしれません。
藤井氏は、ご本人からしてもそのような活動は非常に負担な部分が大きかったと思いますが、「ユニークフェイス」の人たちの中でもスポークスマンとまではいわずとも、前面に出ていろいろな話をする立場だったかと思います。講演活動をしたり、本も出版したりしました。しかしそんな彼も、上の記事の筆者である石井政之氏と名古屋で最初に会った際、
>地域でも学校でも、いじめにあったことがないんです。暴力をふるわれたこともありません
と話し、石井氏はその答えを意外だなと思ったといいます。そして藤井氏は、
>しかし、その後、藤井さんは自著『運命の顔』(草思社)などで、幼少期に壮絶ないじめにあった、と書いた。
>>学校の行き帰りには、いつもいじめっ子たちが待ち伏せされて囲まれたなあ。「バケモノ」っていわれたのは、そうだ、小学校の入学式からだ。
人にジロジロ見られ出したのは、幼稚園のときからだったような気がする。 『運命の顔』(8ページ)
この記述を読んだときに「藤井さん、やっと本当のことを語り出したな」と思った。『運命の顔』が刊行されたのは2003年。藤井さんは当時46歳だった。
と自分の受けた受難を公表しています。藤井氏は、やはり本を出版するということを1つのきっかけにしたのかもですね。1957年生まれの藤井氏は、その幼少期や思春期に嫌な経験をしてことがないということはないと私も思います。今でもそうでしょうが、彼が幼少期だった1960年代や思春期の70年代は、そういう問題は現代よりはるかに厳しく差別される時代だったでしょう。
そして藤井氏は、氏を長く知る方によると、自分を守るための気遣いも相当なものだったようです。
>コブのある顔について学生にも話をしていたこともあり、「藤井さんは顔の悩みを乗り越えたのだ」と中尾さんは思っていた。だが、岐阜聖徳学園大学で再び一緒に働くようになり、そうではないかもしれないと感じたという。
「仕事場で珈琲をいれたときにお誘いすると、必ず、お菓子などのお土産をもってくる。学内の会議でもお菓子をもってくる。『そんなことしなくてよいのに』と言っても、気遣いを怠らない。そのうちに、この気遣いは、自分を守るためじゃないか、と」
藤井さんが絶やさなかった笑顔についても、中尾さんはこう推測する。
「藤井先生は幼少期に受けた差別体験から、自分を守るために笑顔を絶やさないようにしたのでは。態度が大きいとやられてしまうから。だから、藤井先生はいつも卑屈なくらいに低姿勢だった、と思うのです」
中尾さんの見方に、私も同意する。大学教授になれるだけの知性と実績、そして笑顔と低姿勢、それがユニークフェイス当事者である藤井さんのサバイバル戦略だったのだ。
こういってはなんですが、たぶん藤井氏は、彼に非があるわけでないことのためにありとあらゆるといっていいくらいの嫌な経験をしたはずです。かれにとって自分の身を守るためには、その程度のことは「当然のこと」であったはずです。そして、この事情はよく分からないのですが、藤井氏の死は、特に秘匿されていたわけでなく、彼が勤務していた大学も、その死の際に大学のサイトで伝えています(現在はすでに削除されています)。しかしそれらが公然と伝わるまでには、約半年かかりました(あるいはですが、半年たったので、あえて公の記事になった?)。なぜかと言ってはどうだかですが、新聞や通信社なども、彼の死を記事にしなかったようです。今のところ私は、彼がお亡くなりになったことを直接報じた訃報記事を発見していません。関係者が書いた記事のみです。
藤井氏は、直接同居する家族はいなかったようですので、そういったことも彼の死が報じられることにタイムラグが生じる理由だったのかもしれません。そのあたりの事情はともかく、本来だったら、彼はそろそろ大学教育から、外見差別解消のほうに活動の力点を移す時期だったのかもしれません。いや、すでにそうだったのかもですが、そのあたりの事実関係はわかりませんが、やはりそちらの方の活動でまだまだやり足りない部分が大きかったでしょうから、藤井氏にとってもきわめて無念の急逝・早逝だったかと思います。それはもうどうしようもないので、いろいろな点で藤井氏の遺志を継ぐ、あるいはそこからさらに止揚していく必要があるわけです。なかなか藤井氏のような人物がほかにいるわけもありませんし、またこれは記事の筆者である石井氏が書いているところによると、
>自助グループ「ユニークフェイス」(2002年NPO法人化)を旗揚げした。そのときには岐阜の短期大学に赴任していた藤井さんに、名古屋支部のまとめ役をお願いした。しかし、運営の進め方で意見の違いが出てきて、藤井さんがNPOから離れていった。
とのことで、これがどっちが悪い(という言い方はあまり良くないのかもですが、一応便宜上そう書いておきます)という問題ではないのかもですが、もちろん藤井氏が完全無欠な人間であるわけではないし、将来「藤井さんの活動のこのような部分は乗り越えるべきだ」ということが言われることもあるはず。そのような乗り越えの部分についても私なりにいろいろ期待したいと思います。
藤井輝明氏のご冥福を祈ってこの記事を終えます。