昨日の記事に引き続き、今日も「おいおい」の記事です。これは訃報記事でありお亡くなりになった年齢もそれなりのお齢なので仕方ないことではありますが。記事は、共同通信の配信記事を東京新聞のサイトから。
>マイケル・ラングさん死去 米国の野外音楽イベント「ウッドストック・フェスティバル」の共同創設者
2022年1月11日 07時24分
マイケル・ラングさん(米国の野外音楽イベント「ウッドストック・フェスティバル」の共同創設者)米メディアによると8日、非ホジキンリンパ腫のためニューヨーク市の病院で死去、77歳。
44年、ニューヨーク市生まれ。69年、ベトナム反戦や公民権運動が米社会を揺るがす中、ニューヨーク州でウッドストック・フェスティバルを開催。ジミ・ヘンドリックスやジャニス・ジョプリンらのアーティストが参加、40万人以上の観客を集め、カウンターカルチャー(対抗文化)を象徴する伝説的イベントとなった。
50周年を記念するコンサートを19年に企画していたが、調整がつかず実現しなかった。 (共同、写真はAP・共同)
上の写真も、同じ記事からです。
こういうことを書くのも変ですが、個人的な意見では、マイケル・ラング氏の死を、日本の一般紙(音楽業界関係のサイトとかならともかく)が報道したというのもかなり意外ですね。共同通信と時事通信が記事にして、それが配信されたわけです。つまりラング氏は、それなりの知名度とその死にニュースヴァリューがある人物だったということです。ではもう1つ記事をご紹介します。
>ウッドストック・フェスティバルの主催者であるマイケル・ラングが逝去。享年77歳
2022.1.11 火曜日
ウッドストック・フェスティバルの主催者であるマイケル・ラングが亡くなった。享年77歳だった。
一家のスポークスパーソンであるマイケル・パグノッタは悪性リンパ腫の合併症によってマイケル・ラングが亡くなったと発表している。
「伝説的なウッドストックの象徴にして、長年の家族ぐるみの友人であるマイケル・ラングが短い闘病の末に77歳で亡くなったと聞いて、とても悲しいです。安らかに」とマイケル・パグノッタは述べている。
We are very sad to hear that legendary Woodstock icon and long time family friend Michael Lang has passed at 77 after a brief illness. Rest In Peace. pic.twitter.com/wTVNoZ353r
— MichaelPagnotta (@reachmp) January 9, 2022
ブルックリン出身で大学を退学したマイケル・ラングはイベントを手掛けるためにマイアミに移り、ジミ・ヘンドリックスが出演した1968年のマイアミ・ポップ・フェスティバルを開催している。
翌年、24歳のマイケル・ラングはビジネスマンのジョン・ロバーツ、ジョエル・ローゼンマン、音楽プロモーターのアーティ・コーンフェルドと共にウッドストック・フェスティバルを開催している。フェスティバルにはジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジェファーソン・エアプレイン、クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル、グレイトフル・デッド、ザ・フー、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、ジョー・コッカー、クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングらが出演している。
「愛と平和と音楽の三日間」と題されたウッドストック・フェスティバルには40万人が集まり、オルタナティヴ・カルチャーにおいて極めて重要な瞬間として歴史に刻まれている。
ウッドストック・フェスティバルは不人気なベトナム戦争が続いていたアメリカ社会が大きく揺れ動いていた時代に開催されている。そのヒッピー・ムーヴメントはアート、ファッション、映画、音楽に影響を与えている。
「ウッドストック・フェスティバルは人々に望むのであれば、よりよき自分を表現する環境を提供しました」とマイケル・ラングは2019年に『ポールスター』に語っている。「歴史においても最も平和的なイベントと言えるかもしれません。それはあの場で人々が生み出したかったものと期待のおかげです」
マイケル・ラングは1970年に公開されたドキュメンタリー映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』にも出演しており、ナイン・インチ・ネイルズ、グリーン・デイ、レッド・ホット・チリ・ペッパーズらが出演したウッドストック ’94、リンプ・ビズキット、メタリカ、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンらが出演したウッドストック ‘99もプロデュースしている。
マイケル・ラングはジェイ・Z、マイリー・サイラス、ザ・キラーズ、ホールジーらが出演する予定だった2019年8月開催を予定していたウッドストック50にも携わっていた。
財政的支援者が撤退した後、マイケル・ラングは次のように述べている。「ウッドストックは人々のものであり、今後もそれは続くでしょう。私たちは止めるつもりはありませんし、ウッドストック50は開催され、最高の体験になるでしょう」
しかし、最終的に2019年7月にウッドストック50は正式に開催されないことが発表されていた。
引用ばかりで恐縮ですが、もう1つ。
>ウッドストック・フェスティバルの共同創設者マイケル・ラングが77歳で逝去。その功績を辿るPublished on 1月 11, 2022
ウッドストック・フェスティバルの共同創設者・主宰者として知られるマイケル・ラング(Michael Lang)が2022年1月8日に77歳で逝去した。遺族のスポークスマンであるマイケル・パニョッタによると彼は稀なタイプの非ホジキンリンパ腫のため、ニューヨークのスローン・ケタリング病院で息を引き取ったという。
1944年にNYブルックリンで生まれたマイケル・ラングは、1969年に開催されたウッドストック・フェスティバルの共同創設者として音楽史に永遠にその名を刻んだ。
1968年に、フランク・ザッパ、ジョン・リー・フッカー、ジミ・ヘンドリックスらが出演した“マイアミ・ポップ・フェスティバル”を立ち上げたマイケル・ラングは、ニューヨーク州北部のウッドストックへと移り住み、その地で出会ったミュージシャンのアーティ・コーンフェルドらと共に、後に“ウッドストック・ミュージック&アートフェア”(ウッドストック・フェスティバルの正式名)へと発展する“アクエリアン博覧会”の構想を練った。
ニューヨーク州ベセルにあるマックス・ヤスガー所有の農場で開催された同フェスティバルは、3日間で推定40万人を集客し、1970年に公開されたドキュメンタリー映画では、マイケル・ラングの姿も大々的にフィーチャーされている。
ジミ・ヘンドリックス、ザ・フー、サンタナ、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ジョーン・バエズ、ジャニス・ジョプリン、ジェファーソン・エアプレイン、キャンド・ヒート、ジョー・コッカー、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ザ・バンドらが出演した1969年のウッドストック・フェスティバルは、音楽の一時代を象徴する伝説として語り継がれ、マイケル・ラングは1994年と1999年に同名のアニバーサリー・イベントを共同プロデュースしたが、2019年に計画されていた“ウッドストック50”は最終的に中止となった。
ジョー・コッカーの長年のマネージャーとして知られるマイケル・ラングは、リッキー・リー・ジョーンズやウィリー・デヴィルといったアーティストのマネジメントにも携わり、自身のレーベルJust Sunshine Recordsを運営。彼が設立した“Michael Lang Organization”は、プリンス、スヌープ・ドッグ、スティーリー・ダン、シャキーラ、マドンナ、ノラ・ジョーンズなど、多くのスターたちの仕事を手掛けてきた。彼は2019年のPollstar誌のインタビューで次のように語っていた。
「1969年、ウッドストックに出演したバンドは皆カウンターカルチャーの一部でした 。彼らは私たちの生活に深く関わっていたんです。単なるエンターテインメントではなく、社会的な問題意識を持っていました。彼らは私たちの世代の一部でした」
「ウッドストックは、人々がより良い自分を表現するための環境を提供した、と言えるでしょう。それを与えることで、うまくいくように思えます。おそらく、この種のイベントとしては、史上最も平和なものだったでしょう。それは、期待や、人々があの場所に創りたいものがあったからです」
だいぶ長々と引用して申し訳ないですが、これらを読んでいただければ、マイケル・ラングという人物がなかなかの方であることはご理解ただけるかと思います。
このブログでは、幾人かのウッドストック・コンサート(と私は書きたいのですが、どうも最近は、あのイベントはコンサートだけにあらずという認識なのでしょうか、「ウッドストック・フェスティバル」という呼称のようですね)に参加したミュージシャンの追悼記事を書いています。
レヴォン・ヘルムが亡くなった またウッドストックコンサートの出演者が亡くなった ジョー・コッカ―が亡くなった ポール・カントナーの死を追悼する記事にはしていませんが、ほかにもシタール奏者のラヴィ・シャンカールやテン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リー、またジェファーソン・エアプレインで記事にしたカントナーの同僚だったマーティ・バリンも、すでにこの世の人ではありません。もちろんほかにも、私が気づいていない最近亡くなった参加ミュージシャンもいるかもしれません。
ウッドストック・フェスティバルの主催者は、マイケル・ラング、ジョン・P・ロバーツ、ジョエル・ローゼンマン、アーティ・コーンフェルドの4名で、ごくおおざっぱに話をすると、引用した記事にもありますように、ロバーツとローゼンマンが金持ちで、コーンフェルドがキャピトルレコードの幹部、ラングは、大学を中退したばかりのヒッピーみたいな人物、風来坊みたいな男でした。ラングが、このフェスティバルの基本的なコンセプトを作った人物だといっていいわけです。期せずして彼は、歴史に残るスーパーイベントの主催者、プロモーター、創設者(という日本語はどうかと思います)になったわけです。
ところでラングは、同じ69年にローリング・ストーンズよって開催されたオルタモント・フリーコンサートにもかかわっています。映画『ギミー・シェルター』にもラングの姿を観ることができます。彼自身は、このコンサートのプロデューサーという立場ではありませんでしたが、コンサート会場が変更されたりした際に、彼がいろいろ調整役を果たしたということのようです。
個人的な話をしますと、私は映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』を映像ソフト(さすがに映画館では見ていません)で鑑賞して、この時代、ヒッピーカルチャー、60年代ロック、フォーク、その他その他その他にやたらはまってしまい、このコンサートについては、半ば研究家のごとく詳しい人間になった記憶があります。おかげでずいぶん人生を踏み外しましたが、しかし別に、それを後悔はしていません(苦笑)。最近は、そちらの方面とはだいぶ疎遠になりましたが、しかしラング氏自身がお書きになったウッドストックの本も出ていますので、これを読んでみるつもりです。
ウッドストックへの道―40年の時空を超えて主宰者が明かしたリアル・ストーリー
いずれにせよわが人生に大きな影響を与えてくださった人物がお亡くなりになるのは、やはり感慨深いものがあります。マイケル・ラング氏のご冥福を祈ってこの記事を終えます。最後の写真は、ウッドストック・コンサートじゃなくてウッドストック・フェスティバルの際のマイケル・ラングです。2枚目の写真の左側に写っている人物は、たぶん音楽プロモーターのビル・グレアム。映画では、溝を掘って油を流して火をつけるとか、物騒なことをほざいています。